婚約者様、いつまでも思い通りにはさせませんわ。
エリノア・スレイダル子爵令嬢は、祖父の葬儀を終えた翌朝、身支度を終えると窓辺でため息をついた。
豊かな焦げ茶色の髪を上品に巻き、空の一部が降りてきて染めたような澄んだ青い瞳を持つエリノアには、派手さはないけれど、穏やかで温かな暖炉の火のように自然な美しさがある。
彼女はもう一度、一通の手紙を読み返す。その封蝋にはスレイダル家の紋章が押されていた。
この手紙をしたためたのは、先ほど天に魂を送り出した祖父、デイル・スレイダル前伯爵である。葬儀を終えると同時にデイルの懐刀である執事にそっと手渡された手紙を見て、エリノアは戸惑った。
そして、自室に戻って手紙を読むと、無言で夕焼け空を見つめ、しばらく無言で夕闇色に染まっていく空の移り変わりを見守った。
『エリノアへ。
わたしの死でダーメイン家との契約は特別ではなくなる。これからは自分の意思で進むが良い。裏切り者との貸し借りは、スレイダルらしく精算するように』
短い手紙を読み終えてから空を見ていたエリノアは、そっと手紙を畳んで「お祖父様は全部ご存じでしたのね」と呟いて、ほんの少し笑った。
「承知いたしました。スレイダル家の娘として、きっちりと決着をつけさせていただきますわ」
まだ幼い頃に、エリノアは婚約者だというフィリップ・ダーメインと顔を合わせた。同い年のフィリップは、少し気難しそうな表情で彼女を見ていたが、彼の祖父の隣で礼儀正しく頭を下げる姿は、彼女の目にはそこそこまともな貴族の子息に映った。
それから二人は婚約者となった。
この婚約で、ダーメイン家はスレイダル家から有利な条件で資金を借り受けられるし、スレイダル家は、格上の伯爵家との縁を得ることができる。まあ、よくある政略結婚だし、幼いながらも聡いエリノアはその事情を理解していた。
だから彼女は、婚約者として恥ずかしくないよう、フィリップに誠実に接してきた。
彼の好む書物を調べ、会話に困らぬよう話題を準備し、学園で顔を合わせれば必ず笑顔で挨拶をした。彼が困っているときには力になることを申し出て、彼の成功を自分のことのように喜んだ。
しかし、真っ当な令嬢であったエリノアとは違い、フィリップの態度は良くないものであった。エリノアが何をしても、それは婚約者なのだから当然の奉仕だ、むしろもっと自分に好かれるように気を使うべきではないか、と増長したのだ。
彼女が贈り物をすれば「成金貴族の下品な品だな」と文句を言い、彼女が用意した授業のまとめノートには「もっとわかりやすく書けないのか? 思いやりのかけらもない女だな、情けない」と皆の前でこきおろす。時には人前で彼女の容姿を貶してあざ笑うことさえあった。
それでもエリノアは、婚約者としての務めを果たし続けた。祖父が決めた婚約なのだし、いつかフィリップも自分の行いを反省してくれるのではないかと期待したからだ。
エリノアはもう一度手紙を読むと、呼び鈴を鳴らした。
「セシル。朝食の後にお父様にお話があるからお伝えしてちょうだい。ダーメイン家との契約について、確認したいことがあるの」
彼女の声には、迷いがなかった。
そのフィリップは、放課後になると王都の宝飾店に行き、いつものようにスレイダル家のツケでネックレスを買った。
どうせ将来、長女であるエリノアと結婚すれば、スレイダル家の資産はすべて自分のものになるのだ。ネックレスのひとつやふたつを買ったくらいで問題はない。しかもこれは、店では安い価格のアクセサリーなのだ。
ちなみに、その『安い価格』ですら、財政が悪化したダーメイン家にとっては大金なのだが、フィリップは気がついていない。
彼は開店前の食堂に立ち寄ると、そこの看板娘に声をかけた。
「サンドラ!」
店の前をほうきで掃いていた娘は、フィリップを見ると笑顔になった。
「あら、フィリップ様。いらっしゃいませ。でも、まだお店は開いていないのよ」
「今日も君に贈り物を持ってきたんだよ」
そう言うと、彼は婚約者の家のツケで買い求めたネックレスを取り出した。濃いピンク色の宝石がきらめく。それは庶民が通う食堂の娘には似合わないものだった。
サンドラは長いまつ毛をパチパチと瞬かせながら、高い声で「うわあ、なんて素敵なの! とても綺麗な色ですごく光っている! わたし、こんな素敵なネックレスは生まれてこの方見たことがないわ。まるでお姫様がつけるようなネックレスね」と無邪気に驚いてみせた。
「サンドラは僕のお姫様だからね。さあ、つけてあげるよ」
胸元に高価な宝石を下げた娘は「ありがとう、わたしの王子様!」とフィリップの頬に唇を寄せて、彼を驚かせた。
「君は本当に無邪気で愛らしいよ」
彼は心の中で『取り澄ましたエリノアとは大違いだな』と考えた。
出来の良すぎる婚約者といると、自分の至らなさを見せつけられるようでとても居心地が悪い。それは努力もしないし、そんな自分を顧みることのないフィリップの責任であるが、楽な方に流れる彼はすべて、エリノアが悪いのだと考えていた。
「フィリップ様って、本当に優しい方なのね。頭も良いし、素敵だわ」
ネックレスに触れながら頬を染めてみせるサンドラに、フィリップは「そうかな」と満更でもない表情をした。
「今日は、ごはんは食べていかないの?」
「帰って試験勉強をしなくてはならないんだ」
「まあ! すごいわ。未来の国を背負って立つお方なのね。さすがだわ」
「まあ、そんな感じかな」
まだ帰りたくない彼は『エリノアのノートがもっとわかりやすければ、勉強時間が減るのに……ちっ、まったく使えない女だな』と鼻にシワを寄せた。
「サンドラ、実は君にお願いがあるんだ」
「なに? フィリップのためなら、わたし、なんでもするわよ」
「なんでも……」
彼は顔を赤らめた。
「試験が終わったら、また来るからその時に」
「うん、待ってるわね」
きゅっと手を握られたフィリップは、デレデレ顔で帰路に就く。その後ろ姿に手を振りながら、サンドラは先ほどとは違う笑みを浮かべた。
王立学園の創立記念パーティーは、王都でも指折りの華やかな催しである。
国の予算をふんだんに使って作られた学園の大広間には、豪奢なシャンデリアが輝き、固くて高品質な板を敷き詰められた床は、磨き上げられて光沢を放っている。
このパーティーに、貴族の子弟たちはそれぞれの家名を背負い、パートナーを伴ってパーティーへ参加する。
だが、婚約者を持つエリノアは、透き通るような淡いアクアブルーの生地に白いレースを重ねた優美なドレスをまとい、ひとり静かに会場へ入った。
派手ではないが上品なドレスはエリノアによく似合っている。胸元を飾るサファイアとダイヤモンドのネックレスは、祖母から譲り受けたものだ。
彼女が会場を見渡すと、すぐにフィリップの姿を見つけた。彼は悪目立ちしていたからだ。
濃紺の礼服に身を包んだ彼の隣には、いささか品位に欠けるが見た目は華やかな、深紅のドレスを着た若い女性がいた。
つやのある金の巻き毛に、きらめく宝石のような緑の瞳をした彼女の首元には、濃いピンク色の宝石が輝いている。
スレイダル家のツケで買われた首飾りだ。良い品ではあるが、正式なパーティーで身につけるには格が劣るネックレスであった。
「なるほど、熱を上げている庶民の娘をこのパーティーに連れてきて、学友に見せびらかしているというわけね。どこまで愚かなのかしら」
もうわたしは、あなたのフォローなんてこれっぽっちもする気はないのよ。どう落とし前をつけるつもりなのかしらね?
冷たい視線をフィリップに向けたエリノアは、なぜか得意そうにこちらを見る若い娘を見て『恋は人を愚かにすると言うけれど、とんだ道化っぷりね。正直驚いたわ』とほんの少し肩をすくめた。
もちろん、学園に通っている分別のある貴族の子女令息たちは、フィリップがどれほど愚かな振る舞いをしているかがわかっていた。
確かに、気に入った若い娘を愛人に据える貴族男性も存在するのだが、それはあくまでも陰でこっそりと行うことであるし、もちろん夫人の誇りを傷つけるような真似はしない。
あくまでも愛人は愛人であり、表に出してはならないものなのだ。
しかし、考えの足りないフィリップは人々の視線を気にも留めなかった。むしろサンドラとの親しさをアピールするように腕を組み、得意げに振る舞っている。
(こんな男に、わたしの時間が奪われていたのね……)
婚約者である彼女を軽んじるフィリップの姿を目の当たりにしたエリノアは、殺意すら覚え、容赦なく叩くことを改めて決意した。
彼女は胸を張ると、フィリップの前へ進み出た。
「ごきげんよう、フィリップ様」
「ふっ、エリノアか。おまえも来ていたのか」
「もちろんですわ。ところでフィリップ様、そちらの方は?」
笑顔のフィリップは、誇らしげに答えた。
「ちょうどいい。皆に紹介しよう。この人の名はサンドラ。私が心から愛している素晴らしい女性だ」
サンドラは、無垢な小鳥のように小首をかしげた。
「初めまして、エリノア様。いつもフィリップ様にはお世話になっております」
その言葉に、周囲のざわめきが一段と大きくなった。
エリノアは二人を見比べたあと、穏やかな微笑みを浮かべた。
「仲のおよろしいことで。ところでフィリップ様、大切なお話がございますのよ」
「何だ?」
「わたしは本日をもって、あなたとの婚約を破棄いたします」
「なっ……」
周囲の視線がフィリップに集まる。
フィリップは、一瞬、何を言われたのか理解できない様子で、エリノアの顔をまじまじと見た。
「……なんだって?」
「婚約を破棄いたします」
「馬鹿なことを二度も言うな!」
フィリップの顔が赤くなった。
「エリノア、自分が何を言っているのか分かっているのか? これは祖父同士が決めた婚約だぞ! デイル様とダーメイン家の先代が交わした約束だ。お前の一存で覆していいものではない」
「そうですわね。お祖父様が決められたことですので、わたしはこれまで約束を守ってまいりました」
エリノアは幼な子に言い聞かせるように優しく言った。
「あなたがわたしを軽んじても、婚約者としての務めを果たしてまいりましたわ。多少のことは、殿方の気まぐれだと目をつぶってまいりましたの。ですが、これはいただけませんわね」
エリノアの声から温度が消えた。
「正式な婚約者を差し置いて、別の女性をエスコートすることは、わたしの体面を非常に傷つけましたわ」
エリノアはサンドラの首元へ視線を向けた。
「その首飾りは、スレイダル家のツケにして購入されたものですね」
「えっ? これが…」
サンドラは震える指で胸元に光るネックレスに触れた。
見開かれた彼女の目が、フィリップの視線を捕らえた。
「フィリップ様が買ってくださった……ものですよね?」
彼は赤い顔でエリノアをにらみつけ「わたしに恥をかかせるな!」と声を荒げた。
「他貴族家のツケで、女性への贈り物を購入なさるのは、その通り、恥ずべき行いだと存じますわ。当然ですが、請求書はダーメイン家に回しておきました。以前から使い込んでいた分もすべてまとめて」
「エリノア!」
フィリップが声を荒らげた。
「黙れ! おまえは僕の妻になる女だろう! 僕はいずれスレイダル家の当主の夫になるのだから、これくらいのことは許すべきだ!」
その瞬間、エリノアの表情から微笑みが消えた。
「わたしは、あなたの所有物ではありません」
澄んだ声が、大広間に響いた。
「そして、あなたの妻になることもありません」
彼女は懐から一枚の書面を取り出した。
「こちらは、婚約に関する法令の写しです。貴族の矜持を傷つける行為があった場合、婚約者は身分の上下を問わず婚約を破棄できる。あなたもご存じでしょう?」
フィリップは言葉を失った。
この国において、婚約者を公然と侮辱し、名誉を傷つけた場合、被害を受けた側には婚約を解消する権利が認められていた。
そして今日、フィリップは大勢の貴族の前で、自らその証拠を示したのである。
「まさか……本気なのか?」
「もちろんです」
「だが、おまえは僕を愛しているんだろう?」
「いいえ、ちっとも。その根拠のない自信はどこからくるのでしょうか」
「そんな……」
「あなたに笑顔を見せ、尽くしてきたのは、婚約者だからですわ」
エリノアはとても優しい声で「あなたを愛したことなど、一瞬たりともございませんでしたわ」と言った。
「だが……亡き者を裏切るような真似をするのか?」
「わたしの誇りを傷つける者には落とし前をつけさせろ、との遺言がございましたの」
「……」
その時、ネックレスを外したサンドラがエリノアに近づくと、その手に押しつけた。
「これはお返しします、お嬢様、わたし、そんなつもりじゃなかったんです。ごめんなさい、どうか、命だけはお許しを!」
ひと息にまくし立てると、サンドラは驚くような速さでパーティー会場から走り去った。
「えっ、サンドラ?」
追いかけようとしたフィリップの前に、エリノアが立ちふさがる。
「学園長室に、ダーメイン伯爵とわたしの父であるスレイダル子爵が待っていますの。ささ、速やかに婚約破棄の手続きを済ませてしまいましょうか」
「いや、待ってくれ、エリノア」
「待ちません。わたしは今までずっと、あなたが婚約者としてふさわしい振る舞いに目覚めてくれるのを待ち続けていました。もう待ちません。引きずって連れて行かれたくないのなら、ご自分の足で学園長室に向かってくださいませ」
こうしてフィリップは、首に鎖を付けられた罪人のような重い足取りで学園長室までのろのろと歩き、父親の叱責を受けながらスレイダル家からの婚約破棄の書類にサインをしたのであった。
スレイダル家に、とある客人が来た。
「別れさせ屋さん、見事なお手並みでしたわ」
「恐れ入ります」
エリノアがテーブルの上を滑らせた袋を、黒髪に暗い緑の瞳をした女が受け取った。
「貴族の女性とは不自由なものでいらっしゃいますからね。またご用がございましたら、冒険者ギルドの掲示板に『薬草五束に毒草三束、狐の尻尾付き』の依頼を出してください」
「さすがに次の婚約は失敗したくないけれど……そうね、困った時にはまた頼らせてちょうだい」
「二度目からはサービスさせていただきます」
金貨の入った袋を謎のポケットにしまうと、女は立ち上がった。
「それではごきげんよう、お嬢様」
「ごきげんよう。そうだわ、あのネックレスも持っていく? わたしには可愛すぎるのよ」
女は口の端を持ち上げると「わたしにも可愛すぎますよ。気に入らないなら売り払って、美味しいものでもお食べになったらいかがですか。石自体は良いものですしね」とエリノアに言った。
「似合っていたわよ」
「似合わせたのですよ。わたしはプロですから」
そう言って、妙に影の薄い女は屋敷を立ち去った。
どういうわけか、エリノア以外の者の記憶には、その客人の記憶は残らなかった。




