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新田博之の嫌われ役のほっこり飯  作者: 修羅観音


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新田博之の嫌われ役のほっこり飯

10年以上前のことだ。


新田博之は、大手家電量販店「ソフト地図株式会社」の京都店で、管理職として多忙を極める日々を送っていた 。

当時40代だった彼は、新人研修や人事といった責任ある仕事を一手に引き受け、常に神経を尖らせていた 。

実質的な店舗のナンバー2という立場にありながら、新田の心は常に圧迫感に支配されている 。


バァン!

店長室の扉が乱暴に開く音と共に、鼓膜を震わせるような怒声が響き渡った。


「新田ー!新田ー!!」


店長の足立だ。

足立は横柄な態度で、部下を人間とも思わないようなきつい言葉を平気で浴びせる男だった 。

今日も些細なミスを見つけ出し、新田を始めとした部下をターゲットにして怒鳴り散らしている 。


「はいー!ただいま!申し訳ございません!」


新田は反射的に立ち上がり、情けないほど腰を低くして足立の元へ駆け寄る 。

45度の角度で頭を下げ、揉み手をしながら足立の機嫌を伺うその姿は、周囲の目にはひどく卑屈に映っていた 。


しかし、一度足立の前を離れて売り場やバックヤードに戻れば、新田の顔つきは一変する。

店長から受けたストレスを吐き出すかのように、彼は新人や部下に対して執拗な言葉の暴力を振るうようになっていた 。


「おい、お前!さっきの説明のどこを聞いていたんだ!そんな能無しはこの店にいらないんだよ!」


ギロリと目を剥き、新田は怯える新人の至近距離で声を荒らげる。

彼にとって、これは店長から伝染した「教育」という名のいびりだった 。

自分がやられているのだから、下も同じように扱われて当然だという歪んだ思考が、新田の心を支配していた 。


従業員たちの間では、当然のように新田に対する激しい嫌悪感が渦巻いている。

休憩室では彼の悪口が絶えず、誰も新田と目を合わせようとはしなかった。


カチカチ、カチカチ。


夜の事務所で、新田は1人パソコンの画面を見つめていた。

インターネット上の巨大掲示板にある家電量販店板には、ソフト地図株式会社の専用スレッドが存在している 。

そこには新田に対する批判や、彼が行っているいびりの実態がこれでもかと書き込まれていた 。


『京都店のN田、マジで消えてほしい。』

『パワハラの塊。店長にはへこへこしてるくせに、部下には威張り散らしてて、見てるだけで吐き気がする。』


画面越しに突き刺さる言葉の数々に、新田の眉間には深いシワが刻まれる。

流石にこれだけの悪評が広がれば、鈍感な彼でも自分がどれほど嫌われているかという自覚を抱かざるを得なかった 。

しかし、彼は自嘲気味に鼻で笑い、マウスを放り出す。


「ふん、中間管理職なんてものは嫌われてナンボなんだよ。俺はわざわざ嫌われ役をかって出てやってるんだからな。嫌われるのは勇気がある証拠だ。」


新田は自分に言い聞かせるように呟いた 。

本棚に並ぶ『嫌われるものは勇気あるもの』というタイトルの本を横目で見ながら、自分の正しさを疑うことはなかった 。

嫌われることを、組織のために自分を犠牲にしている勲章のようにさえ感じていたのだ。


静まり返った夜の店内に、新田の虚しい強がりだけが虚空に消えていった。


---


ソフト地図京都店は、元々大きなデパートの1フロアに入っていたが、そのデパートが閉鎖されるため、場所を変えて華々しくリニューアルオープンをすることになった。

そして、リニューアルオープンを果たしてから数日が経過した。


リニューアルオープンセールという戦場を乗り切るため、人事課は大幅な人員増員に踏み切っていたが、狂騒が過ぎ去ると同時に何人ものスタッフが力尽きたように店を去っていった。

それでもなお、セールの熱気に浮かされた人事課が無計画に採用を進めてしまった結果、現場には必要以上の人員が余り始めていた。

これ以上、人を抱え込んでおく余裕など店にはないが、一度正式に採用してしまった手前、会社側から露骨に「辞めてくれ」と引導を渡すわけにもいかない。


店長室の重苦しい空気の中で、足立店長はデスクにふんぞり返り、細めた目で新田を睨みつけた。

「新田、わかってるな。」


冷酷な響きを含んだその短い言葉に、新田は即座に反応した。

「はい。」


短く、重みのある返事と共に新田は深く頷いた。

彼にはその言葉の裏にある「余剰人員を自発的に辞めさせろ」という非情な指令が、痛いほど伝わっていた。


---


翌日、バックヤードには1人の新人の青年が立っていた。

眼鏡をかけた痩せ型のその青年は、緊張した面持ちで今日から始まる実務を待っている。

彼に与えられた最初の仕事は、届いたばかりの商品に1枚ずつ値札を貼り付けていく地味な作業だった。


「いいか、俺が直々に指導してやる。最初からビシビシ行くからな。覚悟しとけよ。」


新田は獲物を見つけた猛禽類のような鋭い視線を青年に浴びせ、突き放すようなきつい口調で言い放った。

挨拶もそこそこに、新田による執拗な「教育」という名のいびりが幕を開ける。


ペタッ、ペタッ、ペタッ。


青年が震える手で値札シールを商品に貼っていく。

その様子を背後から凝視していた新田が、突然、耳元で怒鳴り声を上げた。


「おい!そうじゃないだろ!見たらわかるだろ、曲がってるんだよ!そんなこともまともにできないのか!」


「ひっ……す、すみません!」


青年の肩が大きく跳ね上がる。

新田はさらに畳みかけるように、手元の腕時計を突きつけた。


「5つに値札シールを貼るのに3分もかかってるのか!遅過ぎるんだよ!給料泥棒になるつもりか!あっちの商品はどうしたかって聞いてるだろ、口が付いてるなら返事くらいしろ!」


新田の怒声が狭いバックヤードに反響し、青年の精神をじりじりと削っていく。

逃げ場のない空間で、新田は執拗にミスを拾い上げ、人格を否定するような言葉を浴びせ続けた。


そんな地獄のような時間が、終業時間が近づくまで延々と繰り返された。


青年の顔は土気色になり、眼鏡の奥の瞳は絶望の色に染まっている。

そこに、新田の最後の一撃が飛んだ。


「おい、聞いてるのか!やる気がないならさっさと消えろ!」


ドォォォォン!


新田が近くの台を激しく叩いたその瞬間、青年の何かが音を立てて切れた。


「ふざけんな!」


突如としてバックヤードに響き渡ったのは、青年の魂の叫びだった。


ガッシャァァァァン!


青年は手に持っていた商品を、力任せに床へとぶちまけた。

床に散らばる商品には、先ほどまで彼が必死に貼っていた値札が虚しく張り付いている。

新田が呆気にとられる間も無く、青年は店の制服である上着を乱暴に脱ぎ捨てると、床に叩きつけた。


青年はロッカーへ向かって勢いよく走り出し、自分の荷物をひったくるように掴んだ。

そして、まだ客が買い物を楽しんでいる店内を、周囲の目などお構いなしにどしどしと猛々しい足取りで突っ切っていく。


「ふざけやがって!人の尊厳踏みにじって、散々恥かかせやがって!」


青年の雄たけびのような怒号に、客や他の従業員達も驚いているが、青年はお構いなしに大声で呪詛を吐き散らしていく。


「おい、待ちやがれ!勝手にどこへ行く!」


新田は慌ててその後を追いかけたが、怒りに燃える青年は既におらず。

店舗の外へ飛び出した時には、もうその背中すら見えなくなっていた。


「チッ、逃げ足だけは速い野郎だ。」


新田は忌々しげに吐き捨てたが、その心境はどこか晴れやかだった。

店に戻れば、足立店長が満足げな笑みを浮かべて彼を迎えた。

彼らにとって、これは「教育の失敗」ではなく「余剰人員を1人排除することに成功した」という輝かしい成果に過ぎなかった。


その凄惨な光景を目の当たりにしていた他の新人の幾人かも、恐怖と嫌悪感からすぐに辞めていった。

しかし、新田も足立もそれを気にする素振りさえ見せない。


喉元を過ぎれば熱さを忘れる。

嵐が去った後の店舗には、また以前と変わらぬ、冷え切った日常が戻ってくるだけだった。


---


あの眼鏡の青年を怒鳴り散らして追い出した日の夜、新田は自宅で1人、スマートフォンの画面をスクロールしていた。

案の定、インターネット上の巨大掲示板にあるソフト地図株式会社のスレッドには、新しい書き込みが次々と投下されている。


『今夜のあの怒号、店内にまで聞こえてきたけど何だったんだ?またN田が新人いびって辞めさせたのか?』

『あいつ、何時か刺されるんじゃねえの?マジで見てるだけで不愉快だわ』


画面に並ぶ罵詈雑言を、新田は鼻で笑い飛ばした。

刺されるものか、俺は会社のために不要な人間を排除しているだけだ。

そう自分に言い聞かせ、ビールを煽って眠りについた。


---


その後、店舗には大きな動きがあった。


あの傍若無人な足立店長が、東京の秋葉原にある巨大店舗の店長へと異動することが決まったのだ。

事実上の昇進である。

新田は駅のホームで足立を見送る際も、いつものように「はいー!お疲れ様です!」と腰を低くして揉み手をし、精一杯の愛想を振りまいた。


足立が去った後に配属されてきた新しい店長は、前任者とは対照的な、ごくごく平凡な男だった。

部下を怒鳴りつけることもなく、淡々と業務をこなすその姿に、新田はかつてない解放感を抱いた。

背後から常に飛んできた罵声が止んだことで、新田の心の余裕もわずかに回復していく。


新人へのいびりは以前より和らぎ、露骨な嫌がらせは影を潜めたが、それでも彼の高圧的な態度は完全になくなることはなかった。

彼にとって、厳しく当たることこそが管理職の証であるという歪んだ信念は、今もなお胸の奥に根ざしていたからだ。


---


そうして、10年以上の時が静かに流れた。

新田は50代になり、白髪も目立つようになっていた。


その間に会社を取り巻く環境は激変していた。

業績悪化の波に抗えず、ソフト地図株式会社は別の巨大大手家電量販店に吸収合併され、完全子会社となったのだ。

かつての誇りは巨大資本の傘下に飲み込まれ、組織は完全に再編された。


しかし、新田はこの激動の時代を、老獪な立ち回りで生き残っていた。


現在、彼は秋葉原にある5店舗のうちの1店舗で、念願の店長という地位に就いている。

かつて足立が君臨していたあの秋葉原の地で、今度は自分が城の主となったのだ。

店長就任に伴って給料も上がり、生活にはかつてない余裕が生まれていた。


「新田店長、本日の売り上げ目標の確認をお願いします」


「ああ、そこに置いておけ。後で見てやる」


店長室の椅子に深く腰掛け、新田は部下からの報告を傲慢な態度で受け止める。

相変わらず従業員たちの間では「あの店長は性格が悪い」「近づかない方がいい」と忌み嫌われ、陰口を叩かれていた。

だが、今の新田にとってそんなことは取るに足らない些事でしかなかった。


まさに順風満帆だ。

俺のやり方は間違っていなかった。

嫌われようが何だろうが、こうして店長という勝ち組の椅子に座っている。


新田は窓から見える秋葉原の電気街を見下ろしながら、自尊心を満たす心地よい酔いに浸っていた。


仕事が終わった帰り道、ガタゴトと響く電車の音を聞きながら、彼は自分の成功を確信していた。

あの日辞めていった無能な連中とは違う、選ばれた人間なのだと。


夕闇が迫る街の灯りを見つめながら、新田は満足げな溜息を吐き出した。


---


秋葉原の街に活気が溢れるある日のこと。


新田が店長を務める店舗に、本社の役職者2人と親会社の人事部から3人の重役が視察に訪れることになった。

親会社の人事部といえば、グループ全体の従業員の命運を握るエリート集団だ。


新田はこのチャンスを逃すまいと、数日前から血眼になって準備を進めていた。

ここで完璧な店舗運営をアピールできれば、さらに上のポストが手に入るかもしれないと、50代になった彼の野心は再燃していた。


「おい!あっちの電球が切れてるじゃないか!すぐに替えろ!今日は絶対に見栄えを良くしておけと言っただろうが!」


新田の怒号が開店前の店内に響き渡る。

ビクッとして肩を震わせる若手社員を冷酷な目で見下ろし、新田は執拗に指示を飛ばし続けた。

バタバタと走り回る従業員たちの様子を眺めながら、彼は自分の完璧な采配に悦に浸っていた。


そうして人事部の連中がやって来る当日の朝1番、予定通り、黒塗りの車から5人の男たちが降り立ってきた。

新田は顔に貼り付けたような満面の笑みを浮かべ、入り口で深々と頭を下げる。


視察団の中でも一際目を引いたのは、短く整えられた髪に銀縁の眼鏡をかけた、30代中頃と思われる男性だった。

彼は親会社の人事部課長という若きエリートであり、同行している本社の年配役職者たちが、彼の一挙手一投足に細心の注意を払っているのが見て取れた。


「本日は遠路はるばるありがとうございます。店長の新田でございます。若くして親会社の課長職に就かれるとは、いやはや、実に素晴らしい。恐れ入りますな。」

新田は揉み手をしながら、最大限のおべっかを並べ立てた。


しかし、その眼鏡の課長は新田の言葉にぴくりとも反応せず、無機質な視線で店内の陳列棚を眺めるだけだった。

まるで目の前の人間が存在していないかのような、徹底した無視。

新田の背中に冷たい汗が流れたが、彼はそれを「エリート特有の厳格さ」だと自分に言い聞かせ、必死に案内を続けた。


店舗を一通り案内し終えた後、眼鏡の課長がようやく口を開いた。


「従業員1人1人と面談を行いたい。個別に1人ずつ、我々人事の者達とだけで話をさせてもらう。」


その声は抑揚がなく、冷徹な響きを持っていた。

新田は内心で「現場の声を重視する姿勢か、さすがだ」と感心し、すぐに手配を整えた。


そうして、人手に余裕のある部署のアルバイトや社員から順番に、奥の面談室へと送り込んでいく。

新田は自分の評価を従業員たちがどう話しているか少し気になったが、自分はこの店を立派に切り盛りしている店長だという自負があった。

まさか、中間管理職になってからの「新人いびり」や現在の高圧的な態度が、今さら問題になるはずがない。


時計の針が回り、閉店間際の夕暮れ時。

窓の外がオレンジ色から深い藍色へと変わり始めた頃、最後についに新田が呼ばれた。

彼はネクタイを締め直し、本社への栄転や昇進の話が出ることを期待して、自信満々で面談室の扉を開けた。


ガチャリ。


部屋に入ると、そこには5人の人事担当者が横1列に並んで座っていた。

中央に座る眼鏡の課長を前に、新田は対面するように置かれた椅子に腰を下ろす。


「お疲れ様です。店長の新田です。本日の視察で、私の運営方針の正しさはご理解いただけたかと……。」


新田がさらに言葉を重ねようとした、その時だった。

眼鏡をかけた課長が、手元の資料を机に置くこともなく、開口一番に言い放った。


「人員整理、および入れ替えを決定しました。新田店長。あなたは店長解任です。」


新田の耳の奥で、巨大な鉄槌が振り下ろされたような衝撃音が鳴り響いた。


あまりにも唐突で、あまりにも無慈悲な宣告。

窓から差し込む夕闇が、新田の凍り付いた顔を冷たく照らしていた。


---


新田は、我が耳を疑った。

あまりの衝撃に思考が停止し、目の前の光景が現実のものではないかのような錯覚に陥る。

数秒の間を置いて、ようやく震える唇から言葉が漏れ出した。


「え?あの、それはどういう……。何かの冗談でしょう?私はこれまで、店長としてこの店を……」


カチッ。


新田の言葉を遮るように、眼鏡の本社人事部課長が手元のタブレット端末を無造作に操作した。

そして、その画面を新田の鼻先に突きつける。


そこに映し出されていたのは、あの巨大掲示板の家電量販店板だった。

『秋葉原のあの店のN田』『パワハラ野郎、秋葉原の店長になってまだ生きてたのか』『N田のせいで今月も3人辞めた』といった、新田の悪行を告発する書き込みが延々と連なっている。


「先程まで、現在出勤している従業員全員に、1人ずつ別室で聞き取り調査をしました。……酷いものだ。これほどまでに現場の声が一致するケースも珍しい。」


眼鏡の課長は深く重いため息を吐き、心底呆れ果てたという顔で首を振った。

背後に控える4人の人事担当者たちも、蔑むような視線を新田に向けている。

その中の1人、白髪の混じった年配の人事部長が、手元の資料を見ながら力なく呟いた。


「この店舗の売り上げが芳しくない理由も、納得するしかないな。従業員がこれほど怯え、憎しみ合っている環境で、御客様に良いサービスなど提供できるはずがない。」


「い、いや!あいつらが何を言ったか知りませんけど!それに、こんな掲示板の書き込みなんて何の証拠にもならない!私を妬んでいる連中のデマですよ!」


新田は必死に声を張り上げ、椅子から身を乗り出して言い訳を並べ立てた。

しかし、眼鏡の課長は冷ややかな瞳で新田を射貫くと、静かに、だが重みのある声で言い放った。


「『社員を大事にする会社』。……新田さん、この言葉を覚えていますか?」


「え?」


唐突な問いかけに、新田は呆気に取られた。

課長は眼鏡の奥の目を細め、忌々しそうに言葉を継ぐ。


「昔、社員教育を担当していたオサダとかいう奴の研修。俺も受けたことがあるんだが、あいつは散々耳障りのいい理想を並べ立てていた。挨拶一つとっても何度もやり直しをさせる、あの気味の悪い研修だ。だが研修後に現場にやって来て目の当たりにした事実は、役職者連中は誰一人としてその教えを実践していなかったって事だ。特にあんたは、当時から最悪だった。あの気持ち悪い研修は全くの無意味で、あのオサダとか言う無能に渡す給料は金をどぶに捨てる行為に等しいとしか思えないくらいに。」


新田の脳裏に、10年以上前の研修風景が蘇る。

卑屈な笑顔で講師に胡麻をすり、裏では新人をいびり倒していた自分の姿を、この男は見続けていたというのか。


「あの研修で、奴は『ソフト地図株式会社は社員を大切にする会社だ』と豪語していたが、あれは嘘八百だったというわけだ。先程までの聞き取り調査で、あんたが今もなお社員を全く大切にしていないことがよーくわかった。10年以上経っても、あんたのやり方は何一つ改善されていない。」


「そ、そんな……。いや、私はきちんと教育を!厳しく教えることが、彼らのためになると信じて……!」


バァァァァン!


乾いた破裂音が室内に響き渡った。

眼鏡の課長が、怒りに震える拳で机を激しく叩きつけたのだ。


「『いびり』を『教育』と言い換えて、それが店長になっても全く改善されずにやり続けてる時点で、救いようがないんだよあんたは!」


課長の怒号は、新田の逃げ道を完全に塞いだ。

机を叩いた振動が、新田の心臓にまで直接響き渡る。


かつて自分が部下たちを怒鳴り散らして踏みにじってきた恐怖を、今度は自分自身が味わう番だった。


---


新田の顔からは、先程までの傲慢な自信が完全に消失していた。

脂汗が額を伝い、眼鏡の奥の瞳が激しく泳ぐ。

目の前に座る若きエリート課長から放たれた、あまりにも重すぎる断罪の言葉に、彼は震える声で食い下がることしかできなかった。


「そんな……いや、そもそも、あなたは私の何を知って……。私がこの店をどれだけの努力で守ってきたか……」


「……薄々、そうなんじゃないかと思ってたが、やはり俺の事は覚えてないか。つくづく救いようがないなあんたは。」


眼鏡の本社人事部課長は、心底から落胆したように深く、重いため息を吐き出した。

その冷徹な眼差しは、新田の心臓を直接凍りつかせるような鋭さを孕んでいる。


「まあ、俺がその他大勢の一人にしかならないくらいに、それだけ多くの人間をいびって辞めさせてきたってことか。」


「え……?」


新田は、大きく目を見開いたまま固まった。

記憶の断片が、鋭い刃物となって脳裏をかすめていく。


「俺は、あんたにいびり倒されて辞めた後、親会社の店舗でバイト募集中だったから、そこに入って死に物狂いで働きながら勉強して、10年以上かけてここまで来たんだよ。」


課長は静かに、だが確かな憎しみを込めて言葉を紡いでいく。

その声は、かつてバックヤードで怒鳴り散らされていたあの青年の面影を、残酷なほど鮮明に呼び起こした。


「それで人事課長になって、子会社の店長名簿にあんたの名前を見つけて、しばらく様子を見てたんだがね。そうしたら、売り上げも芳しくないままで、それで一度視察を提案したんだ。そして、今ここにいる。」


吐き捨てるような課長の言葉が、室内の静寂に重く響いた。

他の4人の人事担当者たちも、蛇を見るような冷ややかな目で新田を凝視している。


「…………」


新田は何も言えず、ただ口を半開きにして黙り込むしかなかった。


「覚えてないか?京都店でいびって辞めさせた人達の中に、俺がいたって事。」


あの時、ただの「余剰人員」として使い捨てたはずの、眼鏡をかけた痩せ型の青年。

不当にいびり倒して追い出したあの男が、今、自分の生殺与奪の権を握る立場となって目の前に立ちはだかっている。


かつて自分が振るってきた暴力が、10年以上の時を経て、巨大な鉄槌となって自分に返ってきたのだ。


「あんたが人間的にも改善されてれば、まだ許してやる余地もあったけど、最早救いようがないな。」


課長は呆れ果てた顔で、再び深いため息を吐いた。

新田は、土気色の顔でがたがたと膝を震わせながら、縋るような視線を向けた。


「……当時は、申し訳ありませんでした。その、あれは……店長の指示で……。私はただ、上の命令に従うしかなかったんです……中間管理職として、嫌われ役として!」


「この期に及んで見苦しい言い訳をするな!そんな御託を聞きに来たんじゃないんだよ!」


バァァァァン!


課長が再び机を叩き、激しく怒鳴りつけた。

新田は「ひっ」と短い悲鳴を上げ、椅子の上でびくっと体を跳ねさせる。


「バイトはいびって、役職者にはこびへつらいビビり散らかす、典型的な老害中間管理職の成れの果てだな。」


吐き捨てられた「老害」という言葉が、新田の胸に鋭く突き刺さった。

順風満帆だと信じて疑わなかった自分の人生が、一瞬にしてゴミ溜めのような惨めなものに塗り替えられていく。


「……契約上、即クビには出来ないから、あんたの事はこっちで色々考えて通達する。」


眼鏡の課長はそれだけを言い残すと、椅子を荒々しく引いて立ち上がった。

他の役職者たちも無言でそれに続き、一瞥もくれることなく部屋を去っていく。


バタン。


重い扉が閉まる音が、新田の終わりの合図のように聞こえた。

一人取り残された静かな面談室。


やがて、店舗のスピーカーから、営業時間の終了を告げる穏やかな音楽が流れ始めた。

いつもなら、今日の戦いを終えた勝利のファンファーレのように聞こえていたそのメロディ。


しかし、今の新田の耳には、その音楽が全く別のものに聞こえていた。

これまで積み上げてきた地位、名声、給料、そして傲慢な自尊心。

そのすべてが崩れ落ち、幕を閉じていく「人生の終了」を告げる葬送曲に聞こえてきたのだ。


新田は、ガタガタと震える手で顔を覆い、夕闇に包まれていく店長室の椅子に力なく沈み込んでいった。


---


事務所にある店長用の大きな机で、新田は何とかこの日の最低限の仕事を終えた。

これまでなら誇らしげに座っていたその椅子も、今は針のむしろのように感じられ、尻の座りが悪い。

鉛のように重い足取りで事務所を後にした新田は、秋葉原の電気街に灯るネオンを、焦点の合わない瞳で見つめながらとぼとぼと帰路につく。


かつて自分が「無能なゴミ」としていびり倒し、冷酷に追い出した若者。

そのうちの1人が、今や親会社の要職に就き、自分の今後の人生を左右する全権を握っている。

不当な仕打ちをした自覚があるからこそ、今後自分にまともな人事が通達されることは、天地がひっくり返ってもあり得ない。


ズン、ズン、ズン……。


舗道を叩く自分の足音が、まるで死刑台へ向かうカウントダウンのように聞こえてくる。

新田は周囲の賑わいから逃げるように、猫背をさらに丸めて呟いた。


「……俺はただ、管理職として、嫌われ役をかって出て、仕事を全うしただけなんだ。そうだろう?組織を維持するためには、誰かが泥を被らなきゃならない。俺は勇気を持ってそれをやっただけだ。何も間違ってなんかいない……。」


自分を正当化する言葉を吐き出しながら、秋葉原駅へ向かって力なく歩を進める。


すると、駅へ続く少し薄暗い路地の入り口で、ふと奇妙な気配を感じて足を止めた。


目の前に、1人の小柄な女の子が立っている。

ベレー帽を被り、ズボンタイプの黒いセーラー服という少し変わった出で立ちだ。

その子は、まん丸とした大きな目で、台形の形をした不思議な口の開き方をしながら、新田のことをじーっと、穴が開くほど見つめている。


「な、なんだ?君は……。」


新田は思わず首をかしげ、一歩後退りした。

こんな夜更けに、子供が1人でこんな場所にいるのは不自然だ。

すると、その女の子が突然、感情の読めない声で口を開いた。


「えらいこっちゃ。」


「え……?どうしたんだ?お嬢ちゃん、何か困りごとか?迷子なら、あっちの交番へ……。」


新田が戸惑いながら声をかけると、女の子はいきなり自己紹介を始めた。

「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や。」


「そ、そうか。で、えらいこっちゃんはどうしたんだ?親御さんか友達と待ち合わせでもしてるのか?」


新田が努めて穏やかに問いかけるが、えらいこっちゃ嬢は表情一つ変えない。

それどころか、彼女は小さな手を突き出し、新田の鼻先をびしっと指さした。


「悪いやっちゃ、えらいこっちゃ。」


「え?わ、悪い?……おいおい、俺は君に何か悪いことでもしたか?今日初めて会ったんだぞ。」


新田は困惑して苦笑いを浮かべたが、えらいこっちゃ嬢の視線は射貫くように鋭い。

彼女は新田の胸元を指し示したまま、断罪するような調子で続けた。


「役職名が、えらいこっちゃ。」


「役職名って……。俺はそこの家電量販店の店長だぞ?仕事は真面目にやってるし、何も悪くは……。」


新田が反射的に言い訳を口にしようとしたその瞬間、えらいこっちゃ嬢が言い放った言葉が、彼の心臓を直接鷲掴みにした。


「役職名『嫌われ役』は、えらいこっちゃ。」


「ッ!!」


ドクン、と心臓が大きく跳ね上がった。


今さっき、自分が心の中で唯一の盾として必死に握りしめていた「嫌われ役」という言葉。

それを、初対面の子供に完璧なタイミングで突きつけられたのだ。


新田は息が止まり、全身の血が引いていくのを感じた。

まん丸い瞳に見つめられながら、彼は声も出せず、ただ金縛りにあったように、えらいこっちゃ嬢を見つめることしかできなかった。


---


えらいこっちゃ嬢は、ぐいと新田の顔を覗き込むと、感情の読めない真ん丸な瞳で言い放った。

「悪いやっちゃは、善いもん食べて改善せんと、このままずっと、えらいこっちゃ。」


「え……?」


呆気にとられる新田の返事を待たず、えらいこっちゃ嬢は彼の大きな手を小さな手でがしっと掴んだ。

そのまま、躊躇なく歩き出す。


「え?ちょ、ちょっと!どこへ連れていくつもりだ!離せ!」


新田は抵抗しようと踏ん張るが、その小柄な体からは到底想像もつかないような、鉄筋をも曲げそうな凄まじい力で手を引かれ、ずんずんと暗がりの方へ進んでいく。

まるで巨大な重機に牽引されているかのような感覚に、新田は抗う術を失い、成す術もなく連れ回されるしかなかった。


やがて、秋葉原の喧騒が嘘のように消え去った、誰もいない静かな路地の奥へとやって来た。

街灯も届かないその場所で、えらいこっちゃ嬢が足を止める。

新田が息を切らしながら何事かと問いかけようとした瞬間、彼女は大きく息を吸い込んだ。


「えらいこっちゃーーーーー!!!」


ドォォォォォォォォォォォォォォォォォン!!


鼓膜が破裂せんばかりの、凄まじい音量の叫び声が夜の静寂を切り裂いた。


「うお!?な、何だこの大声は!?耳が、耳が痛い!」


新田は驚愕し、思わず両耳を強く塞いでその場にうずくまる。

その大声は空気を震わせ、周囲のビルに反響して不気味な余韻を残した。


すると、遠くの暗闇から何やら赤く燃え盛る光の塊が、猛烈な速度でこちらに向かってくるのが見えた。


ゴォォォォォォォォォォォォッ!!


凄まじい風圧と熱気を巻き起こしながら、それは新田たちの目の前で鮮やかなドリフトを決め、ぴたりと停泊した。

アスファルトに焼け付くような焦げ跡を残したのは、大きな方輪が激しく燃え盛っている、現代風に魔改造された運転席付きの牛車だった。


新田が腰を抜かしそうになりながらあっけにとられていると、牛車の運転席の窓がスルスルと開いた。

そこから顔を出したのは、ベレー帽をかぶり、艶やかな長い黒髪を後ろで束ねた着物姿の絶世の美女だった。


「おまっとさんどす、えらいこっちゃん。」

美人は余裕のある笑みを浮かべ、穏やかな京言葉で語りかけてくる。


えらいこっちゃ嬢は、新田の襟首を掴むようにして前へと突き出した。

方輪車かたわぐるまねえちゃん、えらいこっちゃな店長御一名!行先は摩訶不思議食堂!えらいこっちゃー!」


「え?ちょ、なんだこれ!?牛車!?燃えてるぞ!」


新田が混乱の中で叫ぶが、えらいこっちゃ嬢は構わず彼を強引に牛車の後部座席へと放り込んだ。

新田が座席に転がり込むと、前方から白くて長い手が、関節を感じさせない動きでニューっと蛇のように伸びてきた。


「うわ!?なんだこの手と腕!?化け物か!」


新田は身を仰け反らせて驚いたが、その手のひらに「お勘定」と書かれた古びた札が乗っているのを眼にする。


「お勘定って……タクシーか何かか?タクシーとは思えない乗り物だけど……えっと、いくらかわからないけど、これでいいのか?」


恐怖で指を震わせながら、新田は財布から1000円札を2枚取り出し、恐る恐るその白い手に乗せた。

すると、手は2枚の紙幣を器用に掴み、音もなくニューっと暗闇の奥へ引っ込んでいった。


運転席に座る方輪車と呼ばれた着物美女は、バックミラー越しに新田を見て、艶やかににっこり微笑んだ。


「毎度ありー。ほな、飛ばしましょか。しっかり掴まっとくれやす。」


キュォォォォォォォォォン!!


タイヤ……ではなく、燃え盛る巨大な車輪がアスファルトを蹴立て、牛車が猛然と動き出した。

スポーツカーをも凌駕するような凄まじいGが新田の体に襲いかかる。

窓の外の景色は一瞬にして光の筋となり、物理法則を無視したような旋回を繰り返しながら、牛車は闇夜を爆走していく。


「ひいぃぃぃっ!!助けてくれ!!どこへ行くんだ!!」


新田はただただ、自分は一体どこに連れていかれるのかと震えあがり、座席の端を必死に掴んで絶叫するばかりだった。


---


方輪車の華麗なハンドルさばきによって、燃え盛る巨大な車輪を轟かせていた牛車が、滑らかに減速を始めた。

窓の外に見えてきたのは、秋葉原の喧騒やネオンの暴力とは無縁の、温かみのある木造の綺麗な建物だ。


建物の正面にぴたりと停泊すると、闇夜に浮かび上がる「摩訶不思議食堂」と書かれた古風で立派な看板が新田の目に飛び込んでくる。

看板の文字は力強く、それでいてどこか優しさを湛えており、新田はここが料理屋であることを瞬時に理解した。


「料理屋なのか、ここ。……あんな無茶苦茶な大騒ぎをして、無理やり俺を店まで連れてきて客引きをしたってことか?」


新田が呆れと困惑を混ぜた声を出すと、横にいたえらいこっちゃ嬢がぴょんっと軽快に座席から飛び降りた。

彼女はベレー帽を直しながら、運転席に向かって元気よく声をかける。


「方輪車ねえちゃん、ありがとちゃん!方輪車ねえちゃんのドラテクは、ハイスピードでえらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢はぶんぶんと景気よく手を振り、固まっている新田を手招きする。


「え?お、降りろってことか?」


新田は腰の引けた様子で、恐る恐る燃える車輪の熱気を避けながら、牛車の客席から地面へと降り立った。

運転席の窓から方輪車が、長い黒髪を揺らしてにっこりと艶やかな微笑みを投げかける。


「毎度ありー。ほな、またねー。」


方輪車が軽く手を挙げると、牛車は再びスーッと滑り出すように走り出し、あっという間に夜の闇へと溶けて見えなくなった。

残された新田の前に、えらいこっちゃ嬢がトテトテと歩み寄り、店の重厚な引き戸をガラガラと開ける。


「悪いやっちゃなえらいこっちゃ店長御一名!カウンターへ案内!」


えらいこっちゃ嬢は威勢よく叫ぶと、唖然としている新田を店内のカウンター席へと促し、そのままひらひらと手を振りながら奥へと消えていった。

新田は嵐に巻き込まれたような気分のまま、促されるがままに木目の美しい、磨き上げられたカウンター席に腰を下ろす。


「まあ、丁度晩飯を食べてから帰ろうと思ってたから、タイミングとしては丁度いいけど……ここは和食の店か?」


新田は落ち着かない様子で、店の中をきょろきょろと見渡した。

店内は外観同様に清潔感に溢れ、出汁の香ばしい匂いと、どこか懐かしい家庭の台所のような香りが漂っている。

ふと我に返り、新田は背もたれに体を預けて小さく息を吐いた。


「意表を突かれて驚きはしたけど……誰も知らない店に来たのは、かえってよかったかもな。あんなことがあった後じゃ、今夜はあの辺りの店に入って、バイトの子とか他の社員と顔を合わせたら、気まずくて仕方がなかったもんな……。」

新田は自嘲気味に呟いた。


自分の地位を奪ったかつての部下の冷徹な瞳や、自分をゴミのように扱った人事の面々の顔が脳裏をよぎる。

秋葉原の店舗周辺を歩けば、どこに従業員の目が光っているか分かったものではない。


今はただ、この不思議で静かな空間だけが、ズタズタに引き裂かれた新田の自尊心を一時的に匿ってくれているような気がしていた。


---


新田がカウンターの木目の美しさにようやく目を向ける余裕を取り戻した時、カウンターの向こう側から何かが静かに、そして確かな存在感を伴って現れた。

まるで地面から湧き出したかのような唐突さでそこにいたのは、あまりにも見事なお地蔵さん顔だった。


「いらっしゃいまし。ようこそおいで下さいました。私はここの店長をさせて頂いております。皆さんは地蔵店長と呼んで下さいます。」


お地蔵さんは胸の前でしなやかに合掌し、一切の曇りもないニコニコとしたお地蔵さん笑顔で挨拶を述べた。


そのあまりにも穏やかな空気感に、新田は毒気を抜かれたような気持ちになり、長年染み付いたビジネスマナーを反射的に作動させる。


「あ、俺はソフト地図株式会社の秋葉原第一号店の店長をしている新田です。」


新田はスーツの内ポケットから名刺入れをサッと取り出し、1枚の名刺を丁寧に差し出した。

厳しい人事を言い渡されるであろう事を突きつけられた身ではあったが、まだ正式な辞令が下ったわけではない。

今の彼にとって、この名刺は自分を辛うじて繋ぎ止めている唯一のアイデンティティだった。


「これはこれは、ご丁寧に有難う御座います。」

地蔵店長は再び合掌し、深く、そして優しく笑顔でお辞儀をした。


ふと横を見ると、いつの間にか衣装を変えたえらいこっちゃ嬢がそこに立っていた。

さっきまでのセーラー服ではなく、今は黒い作務衣の上に真っ白な割烹着を羽織り、ベレー帽はそのままという独特な姿だ。

彼女はまん丸の大きな目をさらに見開き、新田の手元の名刺をジーっと穴が開くほど見つめている。


「えらいこっちゃんが、名刺に興味を示されているようです。名刺はえらいこっちゃんにお渡し頂ければ嬉しゅう御座います。」

地蔵店長が穏やかに、その福々しい笑顔を崩さずに促した。


「あ、そうですか。はい。どうぞ。」

新田が差し出すと、えらいこっちゃ嬢は小さな手でそれを器用に受け取った。


彼女は暫くの間、台形の形をした口を少し開けながら、無言で名刺の表裏をジーっと見つめ続けている。

新田がその奇妙な沈黙に耐えかねて何か言いかけようとした時、彼女がポツリと鋭い言葉を口にした。


「『嫌われ役』って役職が書いてへん。えらいこっちゃ。」


「え?いや、そんな役職は……。」


新田は反射的に否定しかけて、はたと動きを止めた。

ドクン、と心臓が重く脈打つ。

脳裏に、これまでの10数年間に自分が部下や自分自身に言い聞かせてきた言葉が、濁流のように押し寄せてきた。


『俺は嫌われ役をかって出ている』。


あの有名な『嫌われるものは勇気あるもの』という自己啓発本を読み耽り、嫌われることこそが組織のリーダーとしての資質であり、一種の高潔な「在り方」なのだと自分を洗脳してきた日々。


そうだ、俺はあえて嫌われる道を選んできたんだ。

それは名刺に刻印されるような安っぽい肩書きなどではない。

俺という人間が、この過酷な会社組織を生き抜くために磨き上げた盾であり、剣なのだ。


「……『嫌われ役』は役職名じゃないよ。俺の誇れる仕事さ。」


新田は自分に言い聞かせるように、そして自分を断罪したあの本社人事部課長への意地を見せるように力強く言い放った。

彼は逃げ場のない現実に背を向けるように、グッと深く椅子に座り直した。

その瞳には、先程までの絶望とは違う、歪んだプライドの光が再び鈍く宿っていた。


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えらいこっちゃ嬢は新田の名刺を大切そうに握りしめ、厨房の奥へと姿を消した。

しばらくすると、彼女は古びているが手入れの行き届いたお品書きを持って戻ってくると、それを新田の前に差し出した。

新田が重厚な表紙をめくると、そこには達筆な文字で「洋食屋のサイコロステーキランチセット夜版」と書かれている。


その文字を目にした瞬間、新田の脳裏に10年以上前の光景が鮮烈に蘇った。


当時、ソフト地図京都店は関西資本の有名デパート「アバン茶」の中に入っていた。

働き盛りで、管理職としての権力を振るい始めたばかりのあの頃。

昼休みになると、彼は地下のレストラン街にある少し高価な洋食屋へ足を運ぶのが日課だった。


「……懐かしいなあ。あの店のサイコロステーキは絶品だった。確か、金のないバイト共はフードコートの安物の店で、うどんや牛丼を啜っていたっけ。俺はそいつらを見下ろしながら、1人で肉を喰らって優越感に浸っていたんだ。」


新田は自嘲気味な笑みを浮かべながら、独り言を漏らした。

あの頃の自分にとって、昼食に高い食事をすることは成功者の証であり、部下との格差を確認するための儀式でもあったのだ。


新田はメニューを指先でなぞりながら、地蔵店長に向かって声を上げた。

「ランチだけど夜でも食べられるメニューなんだな。夜版って書いてあるし。それじゃあ、この洋食屋のサイコロステーキランチセットをお願いするよ。」


「はい、畏まりました。」


地蔵店長が穏やかに頷くと、えらいこっちゃ嬢がメニュー表を受け取り、彼女は厨房に向かって、店内に響き渡る声で叫ぶ。

「洋食屋のサイコロステーキセット夜版一丁!夜にランチを食べるなんて、えらいこっちゃ!」


えらいこっちゃ嬢が厨房へ駆け込むと、すぐに奥から賑やかな音が聞こえ始めた。


ジュゥゥゥゥゥッ!!


肉が熱い鉄板の上で踊るような、威勢の良い音が店内に響き渡る。

それと同時に、香ばしい醤油の焦げた匂いと、食欲をそそるガーリックの香りがカウンターまで漂ってきた。


新田は思わず喉を鳴らし、何気なく厨房の方へと首を伸ばして中を覗き込んだ。

そこには、驚くべき光景が広がっていた。


「……え?」

新田の目が点になる。


調理台の前でフライパンを振るっているのは、紅い着物に割烹着を纏った女性だった。

だが、その頭には清潔な三角巾が巻かれているものの、そこから黒い猫耳がぴょこぴょこと突き出している。

彼女は閉じているような細い目に、口角の上がった猫のような口元で、楽しそうに鼻歌を歌いながら手際よく料理を仕上げていた。


「え?猫?……お、おい、どういうことだ!?化け猫か!?」


新田は椅子から転げ落ちそうになりながら、指を差して驚愕の声を上げた。

すると、そのタイミングを見計らったかのように、えらいこっちゃ嬢が前菜のサラダを乗せた小皿を持って現れた。

彼女は新田の前にサラダをドンと置くと、ジロリと彼を睨みつける。


「猫子さんを化け猫呼ばわりしよるなんて、えらいこっちゃ!猫子さんの作る洋食は天下一品の絶品逸品や!失礼なこと言うとはアカンやっちゃ!」


えらいこっちゃ嬢は台形の口をへの字に曲げて憤慨すると、また足早に厨房へと戻っていった。

新田は自分の失礼な発言を恥じるように、赤くなった顔を伏せて後頭部をかいた。


「あ、ああ……ごめん。化け猫なんて言って悪かったよ。あまりに驚いたもんで……。」

新田は小さく謝罪の言葉を口にした。


厨房で微笑みながらサイコロステーキを仕上げる猫耳の女性料理人、猫子。

その不思議な姿に圧倒されながらも、漂ってくる芳醇な香りに、新田の空腹は限界に達しようとしていた。


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えらいこっちゃ嬢がサラダ用の箸を静かに、そして指先まで神経を行き届かせて丁寧に置くと、新田は空腹に急かされるようにその箸を手に取ろうとした。

しかし、その動きを察知したえらいこっちゃ嬢が瞬時に新田の前に立ちはだかり、まん丸い目で鋭く射貫くような視線を向ける。


「合掌頂きますは、小学校の給食でも習う事。やらん礼儀知らずは、えらいこっちゃ。」

彼女は台形の口を真一文字に結んで言い放つと、お手本を見せるように胸の前でぱんっと威勢よく合掌してみせた。


「あ、ああ、そうだな。……頂きます。」

新田はかつて部下たちに説いてきた礼儀作法を思い出し、少し気恥ずかしさを感じながらも、掌を合わせて「頂きます」と小さく唱えた。


新田は箸を手に取り、まずは瑞々しく輝くサラダを口へと運ぶ。


シャキッ。


心地よい咀嚼音が頭蓋に響き、野菜の鮮烈な香りが鼻を抜けた。


「……!美味い。ただの生野菜サラダなのに、なんて新鮮なんだ。どこか高級な農園の特別な野菜でも使っているのか。」


ドレッシングに頼り切らない、野菜本来の濃い甘みと力強い苦みが口いっぱいに広がり、新田は夢中になって箸を動かした。

飢えた心と体を潤すようなその味わいに、彼はあっという間に皿を空にしてしまった。


新田が最後の一片を飲み込んだその瞬間、厨房から軽やかな足音が近づいてきた。


「お待たせいたしました。」


穏やかで鈴の鳴るような声と共に現れたのは、三角巾から猫耳をぴょこぴょこと覗かせた料理人の猫子だ。

彼女は紅い着物に真っ白な割烹着を纏い、木の皿の上にセットされた熱々の鉄板皿を新田の前に差し出した。


トッ。


驚くほど音を立てず、それでいて正確に置かれたその鉄板の上では、サイコロステーキが激しく蒸気を上げている。


ジュウウウウウッ!


肉が熱い鉄板の上で踊るような威勢の良い音が店内に響き渡り、香ばしい肉の香りが新田の鼻孔を激しく刺激する。

肉の脇には、宝石のように艶やかなオレンジ色をした人参のグラッセと、ケチャップで和えられて飴色に輝く玉ねぎがたっぷりと添えられていた。

洋食屋で誰もが一度は目を輝かせた、あの完璧なビジュアルがそこにあった。


続いてえらいこっちゃ嬢がお盆を運び、ステーキソースの入った小さな器と、ナイフ、フォークをこれまた音もなく丁寧に並べていく。


新田は立ち上る芳醇な湯気を胸いっぱいに吸い込み、鉄板の上で主役を張る肉の塊を凝視した。


「この大きさなら、ナイフは要らないな。フォークがあれば十分だ。」


彼は迷わずフォークを手に取ると、1切れのサイコロステーキに突き立てた。

それをたっぷりと秘伝のステーキソースにくぐらせ、一気に口の中へと放り込む。


「……っ!う、美味すぎる!」


絶品のスパイシーなソースが見事に肉の旨味を引き立て、強火でしっかりと焼き上げられた肉は、驚くほど柔らかく歯を押し返した。

噛みしめるたびに溢れ出す濃厚な肉汁が舌の上で踊り、新田の険しく強張っていた顔が、思わずほろりと「ほっこり」とした表情に変わっていく。


次に新田は、人参のグラッセを口に運んだ。


「人参って、こんなに甘かったか……?」


人参特有の濃密な甘みに、隠し味のようなほのかな塩味が絶妙なバランスで重なり合っている。

その見事な火入れと味付けに、新田の頬は自然と緩み、またしても「ほっこり」とした温かい感覚が胸を満たしていく。


最後に、ケチャップで和えられた玉ねぎをフォークで掬い取った。

ケチャップの心地よい酸味が舌を喜ばせ、甘みが出るまでじっくりと炒められた玉ねぎのコクと見事に融合している。

どこを切り取っても、何を食べても、それは1級品の味わいだった。


「美味い!ステーキ肉だけじゃなく、人参も玉ねぎも、全部が美味いぞ!」


新田はかつて抱いていた歪んだ優越感などどこかへ忘れてしまい、ただ純粋な食の喜びに身を委ね、次から次へと料理を口に運んでいった。


---


皿の上を1片の野菜も残さず綺麗に平らげた新田は、深く椅子に体を預け、大きく満足げな溜息を吐き出した。


これほどまでに心が満たされる感覚を味わったのは、一体いつ以来のことだろうか。

張り詰めていた肩の力が抜け、険しかった表情はすっかり柔らかくほっこりとしたものに変わっている。


そこへ、えらいこっちゃ嬢が再びまん丸い目を輝かせながら歩み寄り、お品書きを新田の前に差し出した。

新田がそれを何気なく開くと、飲み物の欄に記された奇妙な名前に目が留まり、思わず首をかしげた。


「なんだ、この『食後の珈琲』の『えらいこっちゃな嫌われ者エスプレッソと美味しいエスプレッソのセット』っていうのは?」


わけがわからないといった風に尋ねる新田に対し、地蔵店長がカウンターの奥で穏やかに合掌した。


「2つで1セットで御座います。2種類の味を、是非とも体験して頂きたいと思いましてねえ。」

地蔵店長はニコニコとお地蔵さん笑顔を浮かべ、深々とお辞儀をした。


「美味しいエスプレッソだけでいいような気もするが……これだけ仰々しい名前が付いていると、逆に興味をそそられるな。怖いもの見たさというやつか。」


新田は自嘲気味に笑い、そのエスプレッソセットを注文してお品書きを返した。

丁寧に受け取ったえらいこっちゃ嬢は、そのまま厨房へと姿を消した。


しばらくすると、厨房の奥から珈琲豆を挽く香ばしい香りが漂ってきた。

挽きたての豊かな香りが鼻腔をくすぐり、新田の胸には心地よい期待感が膨らんでいく。


やがてえらいこっちゃ嬢がお盆を捧げ持ち、2つの小さなカップと、砂糖やミルクの入った器を乗せて戻ってきた。


「えらいこっちゃなセット、お待っとさん。」

彼女は台形の口をキュッと結び、音を立てずに2種類のカップを新田の前に並べていく。


「美味しいエスプレッソ」の方は、きめ細やかな黄金色のクレマが表面を覆い、まさに王道のエスプレッソといった気品を感じさせる。


対して「えらいこっちゃな嫌われ者エスプレッソ」は、一目で分かるほど色が薄く、底には珈琲豆のカスが沈んでいるのが見て取れた。

見るからに不格好で、粗悪な印象を拭えない代物だ。


「やっぱり、美味しい方だけで十分だったんじゃないか?まあ、こっちを飲むことで本来の美味しさが引き立つ、という趣向なのかもしれないが。」


新田は首をかしげながらも、まずは好奇心に勝てず「えらいこっちゃ」な方を手に取った。


ズズッ……。


「うえ!?なんだこりゃ、泥水か!?」

口に含んだ瞬間、新田は顔を激しくしかめた。


珈琲のコクなど微塵も感じられず、ただ苦くて薄い汁を飲んでいるような不快な感覚が広がる。

さらに、珈琲豆のカスが舌の上でシャリシャリと砂のように残り、喉越しも最悪だ。


「とてもじゃないが飲めたもんじゃない!そりゃあ嫌われるよ、こんなエスプレッソは!」

新田は吐き捨てるように言い、口直しを求めて慌てて「美味しいエスプレッソ」の方を飲み直した。


ゴクリ。


「……っ。ああ、生き返る……。」


新田の表情から一気に険が消え、全身から力が抜けていった。

砂糖もミルクも入れていないというのに、口の中に広がるのは高貴な香りと、深いコク、そして柔らかな苦味。

嫌われ者の方を飲んだ後の不快感が、この1杯によって魔法のように綺麗に洗い流されていく。


「良かった、こっちのエスプレッソは凄く美味い。これだけでいいんだよ、これだけで。」

新田は、ほっこりと満足した顔で最後の一滴までその美味しさを堪能した。


---


新田は、美味しいエスプレッソの余韻を楽しみながらも、隣に置かれた泥水のようなカップを見つめて首をかしげた。


「美味しいエスプレッソは本当に美味い。でも、『えらいこっちゃな嫌われ者エスプレッソ』なんて、そもそも必要なかったんじゃないのか?」


するとえらいこっちゃ嬢は、台形の口を尖らせて新田をびしっと指さした。

「嫌われ役やのに、嫌われ者エスプレッソが嫌いなんて、えらいこっちゃな大矛盾!」


新田は思わず苦笑いを浮かべて反論する。

「いや、嫌われ役だからって、世の中の人が嫌いなものをすべて押し付けられても困るんだが……。」


「嫌われ役を自分からやっといて、嫌われ者を嫌いよる。えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢は、信じられへんといった様子で手をぶんぶんと振った。


すると……。


ガラガラ!


威勢よく扉が開く音と共に、弾けるように明るい声が店内に響き渡った。


「おつー♪お世話になりまーす♪」


新田が反射的に扉の方へ振り向くと、そこには眩いばかりの光を放つ超絶美少女が立っていた。

声の主は、女子高生くらいの年頃の若い金髪の女の子だった。


黒い生地に金色の華やかな花の刺繍があつらえられた美しい着物を粋に着こなし、手には大きな風呂敷包みを持っている。

金色の瞳がキラキラと輝き、左右の頭からは黒い日本の鎌状の角が突き出していた。

長く美しい金髪は、シュシュを使って左側でサイドテールにまとめられている。


その姿は紛れもなく「鬼」であったが、立ち振る舞いはいかにも現代のギャルという明るさに満ちていた。


えらいこっちゃ嬢が嬉しそうに手をぶんぶんと振る。

女鬼じょきねえちゃん、いらっしゃい!えらいこっちゃなナイスタイミング到着!」


地蔵店長も、いつもの福々しい笑顔で合掌した。

「女鬼さん、いらっしゃいまし。丁度良い頃合いで御座います。」


新田は、その圧倒的な美しさと華やかさに目を奪われ、心臓がドクンと音を立てた。

あんなに嫌っていたはずの若い部下たちの姿が脳裏をよぎるが、目の前の少女はそれらとは別格の神々しさすら放っている。


新田の口から、無意識のうちに本音がポロリとこぼれ落ちた。

「凄く可愛い子だ……うちの店に欲しい。」


女鬼は、新田の言葉に一瞬だけ視線を向けた。

そして、屈託のない、それでいて有無を言わせぬ美しい笑顔で軽やかに言い放った。


「あはは♪それはパス♪」


あまりに潔い拒絶に、新田は呆然として言葉を失う。

女鬼は全く気にする様子もなく、持っていた風呂敷包みをカウンターに置いた。


---


女鬼がカウンターに風呂敷包みを置くその横顔の可愛らしさと美しさに、新田は思わず息を呑み、胸の奥がドキンと跳ね上がるのを感じた。

その整った目鼻立ちと、透き通るような肌の白さ、そして何よりその自信に満ちたオーラは、これまで彼が会ってきたどの女性とも一線を画している。


するとえらいこっちゃ嬢が、えっへんと両手を腰に当てて、小さな胸を大きく張って自慢げに言い放った。


「女鬼ねえちゃんは、閻魔大王も地獄極楽のお偉いさん達も頭が上がらん、細マッチョで喧嘩の強さも地獄極楽一の超エリート鬼のねえちゃん!超絶シゴデキ鬼のギャル美少女、舐めてかかると、えらいこっちゃ!」


女鬼は、その言葉を聞いてあははと快活に笑うと、新田を射抜くようなウインクを1つ投げかけ、えらいこっちゃ嬢の頭をなでなでした。

「あはは、ありがと♪お褒めに預かり光栄の至りってねー♪」


彼女の仕草の1つ1つが洗練されており、着物の下に見え隠れするしなやかな筋肉のラインが、彼女の持つ強さを無言で語っていた。


「今日はここまで方輪車ねえさんに送って貰ったんよ♪方輪車ねえさんこそ、マジでシゴデキ美人さんって感じー♪」


屈託のない笑顔でそう語る女鬼に対し、新田は吸い寄せられるように問いかけた。

「あの、君も飯を食べに来たのかい?」


女鬼は金色の瞳を細めて微笑んだ。

「それもあるけどさ、今日はひと仕事しにきたんよ。」


そう言って彼女が丁寧に風呂敷をほどいて広げると、その中から1冊の本が姿を現した。


新田はその表紙を見て、思わず目を見開いた。

そこには、彼が人生のバイブルとして肌身離さず持ち歩き、自分の行動の指針としてきた「嫌われるものは勇気あるもの」という題名が、はっきりと記されていた。


「君も、これを読んでいたんだ。いい本だよね、これ。俺もずっと大切にしているんだ。」


新田は自分と同じ価値観を持つ者を見つけたような喜びを感じ、今日初めての心からの笑顔を女鬼に向けた。

だが、女鬼の反応は新田の予想とは少し異なるものだった。


「まあ、あーしもこれ読んだんだけどさー。自己啓発本の中で特に有名だし、書かれた内容はまともっちゃまともだし、いい本ではあるとは思うんだけどねー。」


女鬼はそう言いながら、本を指先で軽く叩いた。

そして、少しだけ表情を曇らせて、深いため息を吐き出した。


「でもさ、読む側がまともじゃない読み方しちゃうってか、自分の都合のいいように内容を捻じ曲げて解釈したりしちゃうってのが多々見受けられるのは、悲しいとこなんだよね。」


「え?」


新田は、予想だにしなかった彼女の鋭い指摘に、冷や水を浴びせられたような衝撃を受けた。

自分が正義だと信じて疑わなかったその「解釈」を、正面から否定されたような感覚に陥り、言葉を失った。


---



新田は、自らの信じてきた拠り所を真っ向から否定され、狼狽えながら言葉を絞り出した。

「まともじゃない読み方って……捻じ曲げた解釈って、一体……。」


新田が驚愕していると、えらいこっちゃ嬢がカウンターの上で身を乗り出すようにして、人差し指を新田の鼻先に突きつけた。

「おっちゃん店長は、えらいこっちゃな読み方してしまいよった可能性大!えらいこっちゃ!」


彼女の真ん丸な瞳は、新田の心の奥底にある欺瞞を見透かしているかのようだった。

女鬼は本を手に取ると、パラパラとページをめくりながら冷めた視線を新田に送る。


「だろうねー、その結果がこれなんだろうね。悪業とセットで恨み言とか怨念だらけだし。あーしも色んな人間見てきたけど、店長さんのは相当だよ。」

女鬼は深い溜息を吐き出した。


「え?え!?ちょ、何を言って……。恨み言とか、そんなオカルトみたいな話をされても困るんだが……。」


新田が困惑して食い下がろうとしたその瞬間、女鬼の空気が一変した。

先程までの明るくて可愛らしいギャルの表情が、陽炎が消えるように一瞬で霧散する。

そこにあったのは、感情の機微を一切排除した、静謐で冷徹な「超越者」の顔だった。


「そんじゃ、実際に『観る』?」


女鬼が低く、重みのある声で言い放つ。

彼女がスッと新田の手を取った瞬間、女鬼の金色の美しい瞳が、太陽を直視したかのような眩い光を放ち始めた。


超絶美少女に手を取られたという事実に、新田の心臓は一瞬だけドキリと跳ね上がる。

しかし、次の瞬間に新田が目にした光景は、甘い期待を粉々に砕く地獄絵図だった。


ギィィィィィィィィィィッ!!


「ひえ!?ちょ、なんだこれ!?」


新田は悲鳴を上げ、自分の体を見下ろして激しく身悶えした。


彼の全身には、凄まじい数のどす黒い「何か」がまとわりついていた。

それは鬼火や揺らめく不浄な魂、あるいは妖怪漫画やアニメに出てくるような、おどろおどろしくて恐ろしい、黒く濁った鬼の顔をした髑髏のような塊だった。

それらは新田の耳元で絶えず呪詛を囁き、服の隙間から這い上がり、彼の魂を食い荒らそうと蠢いている。


「うわあああ!離れろ!あっちへ行け!」


新田は狂ったように手でそれらを払いのけようとしたが、指先は虚空を掴むだけで、黒い怨念は一向に離れる気配を見せない。

あまりの恐怖に新田は固く目を閉じ、現実から逃げるように顔を背けた。


しかし、その逃避を女鬼の冷厳な声が許さなかった。


「現実から眼を逸らしてんじゃないよ!自分の『因果』をしっかり見な!!」


女鬼の叱りつけるような激しい声に、新田は弾かれたように目を見開いた。


目の前にいたのは、先程までのギャル美少女ではなかった。

額に浮かぶ青筋、釣り上がった金色の瞳、そして周囲の空気を震わせるほどの圧倒的なプレッシャー。

それはまさに、本物の鬼が浮かべる憤怒の表情であり、美しくも恐ろしい「鬼の形相」そのものだった。


「あ、あ、ああ……。」


新田はその凄まじい気迫と、自分にまとわりつく怨念の重圧に耐えきれなくなった。

彼は腰が抜けたようにガタガタと震え、ペタンッとカウンター席の椅子に力なくへたり込んでしまった。


全身を脂汗が伝い、新田は自分が積み上げてきた「正義」がいかに脆く、独りよがりなものであったかを、その身を以て理解させられようとしていた。


---


女鬼が瞳の輝きを静かに解除し、新田から手を放した。

スッ、と体温が離れると同時に、先程まで視界を埋め尽くしていたどす黒い怨念の数々が、嘘のように掻き消える。


元の清潔で温かみのある店内の景色が戻ってきたが、新田の心臓は未だに早鐘を打ち、全身の震えが止まらない。

額からは大粒の脂汗が流れ落ち、カウンターの木目にポタリと染みを作った。


「今のは、あーしの『鬼の眼』を通して見える景色を、店長さんにも観えるようにしたってわけ。そんで、実際に『観えた』景色はどうだった?」


女鬼は椅子に浅く腰掛け、長い足を組んで新田を覗き込んだ。

その声は先程の憤怒とは打って変わって平坦だったが、それがかえって新田の恐怖を煽る。


「……恐ろしかった……なんだったんだ、今のは……。俺の体に、あんな化け物がまとわりついていたというのか……」


新田は自分の両腕をさすり、未だに残るおどろおどろしい感触を振り払おうともがいた。

しかし、目に焼き付いたあの髑髏のような顔、自分を呪う無数の声は、決して消えることはない。


「さっき、あーしが『恨み言とか怨念』って言ったじゃん?まさにそれ。店長さん、あんたが今まで切り捨ててきた人間たちのドロドロした感情が、全部あんたの体中に乗っかってるんよ。」


「俺は、あんな連中にずっと恨まれて、怨念だらけだってことか……?」


新田が震える声で問い返すと、女鬼は呆れたように鼻で笑った。


「そゆこと。ようするに、ヘイト集めまくった結果ってわけ。店長さんが自分の保身や歪んだプライドのために踏みにじった彼ら彼女らの怒りが、店長さんの魂をじわじわ削ってるんだよ。」


女鬼は金髪のサイドテールを指先で弄りながら、淡々と言葉を続けた。


「でも、良かったじゃん。これ、店長さんの望み通りっしょ?」


「いや、こんなの誰が望むって言うんだ!誰だって他人に愛されたいし、感謝されたい!こんなおぞましい怨念にまみれるなんて、何とかしてくれ!消してくれ!」


新田は必死の形相で、女鬼と地蔵店長に向かって懇願した。

その姿は、かつて部下を冷酷に追い詰めていた店長の威厳など微塵もない、ただの怯えた一人の男だった。


「あれ?おっかしーなー。だって、望んで『嫌われ役』をかって出たんじゃないの?」


女鬼は首をかしげ、わざとらしく不思議そうな表情を作ってみせた。

その挑発的な態度に、新田は喉を詰まらせながらも必死に言葉を絞り出す。


「いや、それは……中間管理職はそういうものだし、誰かが嫌われ役をやらなければ組織は回らないだろ?俺は組織の規律を守るために、心を鬼にして厳しい態度を取っていただけなんだ……!」


「それってさー、『中間管理職は嫌われるのは当然だから、中間管理職の自分は他人様を傷つけるのが仕事で仕方ないんだから、ぼくちゃんを責めないでね』っていう、ふざけた言い訳?責任ある立場を隠れ蓑にして、自分の攻撃性を正当化してるだけじゃん。」


女鬼の声が一段と冷たさを増し、新田の逃げ道を塞いでいく。


「そもそもさあ、中間管理職になった人って、全員が全員、嫌われなきゃいけないっての?全世界の中間管理職が嫌われてるとか思っちゃってる感じ?じゃあさ、中間管理職でも部下から尊敬されて、しっかり人望ある人たちはなんなのさ?あんたの理屈じゃ、そんな人たちは組織を回せてない無能ってことになっちゃうけど、超有能で優秀な人もいるよね?」


「それは……その……。」


「店長さんって、『嫌われ役をかってやってる自分かっけー』とか、マジで思っちゃってんの?悲劇のヒーロー気取って酔いしれてるだけじゃん。店長さんが崇拝するバイブルってやつに、そんな事、1文字でも書いてあった?何ページの何行目に『部下をいびり倒して自分だけいい思いをしろ』なんて書いてあるか言うてみ?」


女鬼は風呂敷の上に置かれた本を、鋭い爪先でトントンと叩いた。

新田はその本を見つめるが、何も答えられない。

何百回と読み返したはずなのに、今の自分にはそのタイトルさえ呪いのように見えた。


「この本読んで、嫌われることを推奨してるとか、嫌われることを恐れなければ他者はどうでもよくて自分本位で突き進んで良いんだって勘違いしたり、そういう読み方しちゃう人も結構いるけどさ。自分から嫌われに行くことを推奨したり賛美してる本じゃないし、間違っても人を傷つけて嫌われる事を推奨してる本でもないんだよ。」


女鬼はとどめを刺すように、新田の目をじっと見つめて言い放った。


「そんで、店長さんはどういう風に読んだの?パワハラする自分を正当化するために、自分に都合のいい部分だけ拾って、薄っぺらい読み方したんじゃね?」


「俺は……。」


ガタガタと震える新田の視界の中で、愛読書だったはずの本が歪んで見えた。

嫌われ役という盾で守っていた自分の人生が、ただの暴力と欺瞞で塗り固められたものだったと突きつけられ、彼はただ本を見つめたまま立ち尽くすしかなかった。


---


新田は、自らの魂にまとわりつく怨念の正体を知り、あまりの恐怖と絶望に震えあがってうなだれていた。

かつて自分が放った無数の毒矢が、今になって自分自身を貫いているという事実に、もはや反論する力も残っていない。


そこへ、えらいこっちゃ嬢が静かな足取りでやって来た。

彼女は漆塗りの立派な盃と、1本の炭酸水の瓶をお盆に乗せている。

彼女は何も言わず、震える新田の手にそっと盃を持たせた。


新田は訳も分からず寮で盃を持つと、えらいこっちゃ嬢は炭酸水の瓶を女鬼へと手渡した。

女鬼はそれを受け取ると、いつものギャルらしい明るい笑みを浮かべてえらいこっちゃ嬢の頭を優しくなでる。


「ありがと♪えらいこっちゃん、マジでシゴデキじゃん♪」


女鬼はそう言うと、新田が持つ盃に炭酸水を注ぎ始めた。

トクトクトク……と、透明な液体が盃に注ぐその所作は、驚くほど美しく、上品な気品に満ちあふれている。

女鬼は新田の目を見据えると、空いた方の指を高く掲げた。


パチン!


乾いた指パッチンの音が店内に響き渡る。

すると、盃の中に満たされた炭酸水が、まるで生き物のように激しく揺れ動き始めた。

新田が思わずその水面を覗き込むと、そこには現在の店内の景色ではなく、別の光景が鮮明に映し出されていた。


それは、10年以上前のソフト地図京都店の売り場だった。

若かりし日の新田が、眼鏡をかけた痩せ型の青年の至近距離で、血管を浮き上がらせて怒鳴り散らしている。

その青年は、紛れもなく今日自分を解雇したあの親会社の人事課長の若き日の姿だった。


『おい、聞いてるのか!やる気がないならさっさと消えろ!』

『おい!そうじゃないだろ!見たらわかるだろ、曲がってるんだよ!そんなこともまともにできないのか!』


映像の中の新田は、人格を否定するような罵詈雑言を浴びせ、青年の尊厳を完膚なきまでに踏みにじっている。

わずか1日で青年を退職に追い込み、それを見て鼻で笑う自分の姿。

それは「教育」などという高尚なものではなく、ただの身勝手で冷酷な「排除」でしかなかった。


映像はそれだけにとどまらない。

水面が激しく波打つたびに、新田が過去に行ってきた酷い仕打ちの数々が次々と映し出されていく。

泣きながら店を去っていく若いパートの女性、新田に怯えて震える若手社員、彼が店長に媚びを売る裏で部下を足蹴にしている醜悪な振る舞い。


次々と突きつけられる、忘れていた、あるいは忘れたふりをしていた「事実」。

炭酸水の気泡が弾けるたびに、自分がこれまで積み上げてきた人生の汚れが露わになっていく。


「これが、俺……。俺は、こんなにも酷い人間だったのか……。」


新田は盃を持つ手を激しく震わせ、打ちひしがれるしかなかった。

映像の中の自分は、かつて自分が軽蔑していた、あの横柄な足立店長と何ら変わりない怪物だった。


新田の瞳から、一粒の涙が盃の中にこぼれ落ち、過去の映像を静かにかき消していった。


---


自分自身が守ってきた価値観や、これまで縋りついていた「嫌われ役」というプライドが、音を立てて崩れ去っていく。

新田は空になった盃を握りしめたまま、ただ震えることしかできなかった。


そんな彼に対し、女鬼の言葉はどこまでも容赦がなかった。


「さっき店長さんに触れた時に、店長さんにまとわりついてる『業』と、怨念達の叫び声、それにまつわる過去も垣間見えたから、今店長さんが盃を通して観た過去の事と、あーしが店長さんから読み取った事実を基にして問うていくよ?」


女鬼はそう前置きすると、腕を組んで新田を真っ直ぐに見据えた。

その瞳は黄金色に澄み渡り、隠し事など一切通用しないような凄みがあった。


「ねえ、店長さんは嫌われようと思って、嫌われたくって嫌われたん?」


「そんなわけ……俺だって、誰からも嫌われたくないよ……。本当は、感謝されて、慕われる上司になりたかった……。」


新田は何とか声を絞り出した。

その声は掠れ、長年押し殺してきた本音が漏れ出していた。


「でも、嫌われるような事、沢山しちゃったってわけだ。」


女鬼は突き放すようにため息を吐いた。

新田は弁明するように顔を上げる。


「だって……会社の命令だったんだ。あの頃は、足立店長の命令が絶対だったから。逆らえば自分の首が飛ぶ……そう思うしかなかったんだよ。」


「ふーん。中間管理職時代は店長から言われてたとしても、今は自分が店長じゃん。今はもう、その足立店長ってのはいない。なのに、なんでおんなじことを続けたのさ?」


女鬼の問い詰めは、新田の心の奥底にある矛盾を鋭く抉り出した。


「それは……このやり方しか知らなかったから……。厳しくして、人を切り捨てることこそが、店長としての責任だと思い込もうとしていたんだ。」


新田の返答に、女鬼は無表情で彼をじっと見つめ続けた。

その沈黙が、新田をさらに追い詰めていく。


「そんで、中間管理職時代に店長の指示でさ、パワハラしてまでいろんな人を辞めさせたり傷つけたりして、そんな事はやめるべきだとか思わなかったわけ?」


「そりゃ、やめた方がいいとは思ってたさ。こんなことを続ければ、この会社や店自体が嫌いになって、客としては絶対に利用したくなくなるし、評判も落ちるだろうって……。」


「悪い事で駄目な事ってわかっててやってたんだ。なんで?」


女鬼の問いに、新田は言葉を詰まらせ、再びうなだれた。

「嫌われ役」という仮面の下に隠されていた、最も情けない理由。

それを引きずり出そうとする女鬼の追及は止まらない。


「それは?」


「……。」


女鬼からの鋭い問いに、新田は言葉に詰まったまま出てこない。


「ちゃんと言葉にして、自分の口からはっきり言いな。」


女鬼の容赦ない言葉に、新田はついに逃げ場を失った。

彼は脂汗を流しながら、絞り出すように本心を吐露した。


「……店長に、目を付けられるから。逆らったら、自分が何をされるかわからない……。」


「つまり?」


女鬼が冷たく促す。

新田は、自分が最も認めたくなかった事実を、震える声でようやく言葉にした。


「……店長に、目上の人に嫌われたくなかったから……。俺は、自分より上の人間に嫌われるのが怖くて、その恐怖を下の連中にぶつけていただけだったんだ……!」


己の本心を吐き出した新田は、そのままカウンターに突っ伏した。


「嫌われる者は勇気ある者」などと言いながら、その実、最も嫌われることを恐れていたのは自分自身だった。

新田の背中は小さく震え、これまで隠していた卑怯な正体が、夜の静寂の中に晒け出されていた。


---


女鬼は、黄金色の瞳で新田の心臓を射抜くような鋭い問いを止めなかった。

「自分より役職が上の人に嫌われたくない。それはなんで?」


新田は、震える唇を噛み締め、消え入りそうな声で答えた。

「……だって、昇進とかに響くから。」


「だから、自分より上に立つ人には媚びへつらって、本来ならあんたが守るべき人を傷つけてきたってことでOK?」


女鬼の冷徹な指摘に、新田は反論の言葉を見つけられず、ただ黙って力なく頷くしか出来なかった。

長年積み上げてきた自分の正当性が、砂の城のように脆く崩れ去っていく。


「そんで、守るべき人達を傷つける事を正当化するための、『嫌われ役をかってでる』って、薄っぺらくて脆い城壁作ったってわけなんだねー。はっきり言ってさー、超ダサ過ぎ。」

女鬼は心底軽蔑したように吐き捨てた。


その言葉に、新田の中に残っていた最後の自尊心が激しく揺さぶられた。

「でも、仕方ないだろ!あの時は俺にも生活があってだな!君だって俺と同じ立場になれば……」


彼が縋るように叫んだ瞬間、女鬼の気迫が店内の空気を切り裂いた。


「今はあんたの話してんだっつーの!しょーもない言い訳して話逸らしてんじゃないよ!」


一喝され、新田は「ひぃっ!」と情けない悲鳴を上げて首をすくめた。

美少女の顔に浮かんだ鬼の形相に、魂まで凍りつくような恐怖を覚える。

数秒の沈黙の後、新田は力なく両手を膝に置いた。


「……確かに、自分でも見苦しい言い訳だと、思う。でも……じゃあ、俺はどうすればよかったんだ?俺には、それ以外の道が見えなかったんだ。」


新田は救いを求めるように、あるいは答えを渇望するように女鬼を観た。

女鬼は一つ大きな、そして悲しみを湛えた深いため息をついた。


「完全に、勇気の使いどころを間違えちゃったんだねえ。」


「勇気の、使いどころ?」

新田はすがるような目で女鬼を見つめた。


「あんたが傷つけて切り捨てて来た人達ってさ、本来あんたが守るべき人達だったんじゃないの?守るべきあの人達を守るために、あんたは間違ったことをちゃんと『間違ってる』って声を上げるべきだったんだよ。」


女鬼の言葉が、新田の耳の奥に突き刺さる。


「それこそが、勇気ある者の嫌われ方なんじゃない?守るべき人を守るために、当時の店長に嫌われる勇気を、持つべきだったんじゃないかな?」


彼女は厳しくも、どこか慈しみを感じさせる声で諭した。

そして女鬼は、風呂敷の上に置かれた本の最初のページを、指先で静かに開いた。


「この本の最初と最後の2か所に、しっかり書いてあるじゃん。『悪に嫌われても正義を成す勇気を持とう』ってさ。たとえ途中のページを読み飛ばしちゃっても、ここは読み飛ばさずに大切に持つべきだったんじゃないかな。」


そこには、新田が自分に都合のいい解釈を優先するあまり、無意識に無視し続けてきた言葉が力強く記されていた。

己の間違い、己の醜悪な傲慢さが白日の下にさらけ出され、新田は完膚なきまでに打ちのめされた。


「……あ、ああああ……っ!」


喉の奥から絞り出すような嗚咽が漏れた。

新田は目から溢れ出す涙を止めることが出来ず、顔を覆って激しく泣き崩れた。


これまで「嫌われ役」という偽りの鎧で守っていた自分の人生が、ただの臆病の積み重ねであったことを悟り、彼は子供のように声を上げて泣き続けた。

カウンターに涙がこぼれ落ち、新田の心に溜まった10年以上の澱を洗い流していくようだった。


---


新田はひとしきり泣きじゃくった後。

溢れ出た涙と鼻水を手の甲で拭い、赤くなった目で本を、そして女鬼を真っ直ぐに見つめた。


「……君の言う通りだ。あの時、例え上司に嫌われても、左遷されたりしても、彼らを守るべきだったんだ。その勇気が俺にはなかったし、完全に自分がいいように本を読んで解釈して、卑怯な言い訳に利用していたんだな……」


震える声で語るその言葉に、偽りはなかった。

女鬼は先程までの険しい表情を解き、金色の瞳を細めて、満足そうにふっと微笑んだ。


「気付いたなら、よし。店長さんのその気付きが、大事な一歩って感じ♪」


えらいこっちゃ嬢は、カウンターの椅子にひょいっと飛び乗ると、まん丸い目を見開いて新田の頭を不器用に、けれど優しくなでた。

「えらいこっちゃに気付いて反省したら、えらいやっちゃ!」


「……有難う。本当に、有難う……」

新田は再び込み上げてくるものを堪え、何度も涙を拭った。


すると。

それまで静かに見守っていた地蔵店長が、合掌したまま一歩前へ出た。


「今、新田さんが宿していらっしゃる怨念は、新田さんが行った数々の悪業によるものです。まさに『自業自得』です。」


お地蔵さん笑顔のまま語られるその言葉は、冷酷な断罪ではなく、真理を解き明かす慈愛に満ちていた。


「『自業自得』は仏教由来の言葉で、自身の成した事の結果を自身が得る、と言う事です。『善因善果、悪因悪果』と言う言葉でも、言い表すことが出来ます。」


新田は地蔵店長の穏やかな顔を見つめ、その言葉を反芻するように口にした。

「『善因善果、悪因悪果』……善い行いをすれば良い結果となって、悪い事をすれば悪い結果となる、と言う事ですか?」


「左様で御座います。もちろん、善い行いをしたからと言って、必ずしも良い事だけを得られるわけではありません。善いと思ってやったことが、悪い結果を招く事もあるのは、娑婆世界ではよくある事で御座います。」


地蔵店長は一度目を閉じ、再び新田を優しくも厳しく諭していく。


「肝要は、自身が何かをすれば、自身が何らかの結果を得る事になる、と言う事を忘れぬ事です。新田さんの件について言うならば、悪業を為し続けた事によって、怨念を背負う事になるという『果』となった、と言う事です。」


静かな店内に、店長の声が深く染み渡っていく。


「中間管理職時代に、従業員や部下を守るために当時の店長と対立すれば、例え正しい事をしていたとしても、嫌われたり不当な扱いを上役から受けるという、一見すると悪いと観える『果』を得る事になったかもしれません。」


地蔵店長はそこで言葉を切り、新田の心の奥底を見透かすように真っ直ぐに見つめた。


「しかし、守られた方は、後々になって善い『果』を新田さんにもたらしてくれた可能性もあった事でありましょう。新田さんは、その芽を自ら摘み取ってしまわれました。」


新田の脳裏に、今日自分に引導を渡したあの眼鏡の課長の姿が浮かんだ。

かつて恫喝し、パワハラによってわずか1日で辞めさせたあの青年。


もしもあの時。

足立店長からの理不尽な命令に抗い、彼を誠実に守り抜いていれば。

例え店長に目を付けられ、閑職に追いやられたとしても、今この瞬間に自分を救い出してくれるような、強固な信頼関係を築けていたかもしれない。


自分を破滅させたのは親会社の人事でも、ネットの書き込みでもない。

10年以上の歳月をかけて、自分を助けてくれたはずの可能性を一つずつ、自らの手で握り潰し続けてきた自分自身だったのだと思い知らされた。


「……肝に銘じます。俺が、俺自身の手で、未来を殺してしまったんだな……」


新田は深く、深く、カウンターに頭を下げた。

その背中に、地蔵店長の温かな眼差しが静かに降り注いでいた。


---


新田は力なくうなだれ、自分の汚れた両手を見つめた。


「中間管理職で、当時はナンバー2にもなっていて、今は店長になって……俺が店で1番偉いから雇う事もやめさせることも俺の思い通りだって思って……調子に乗っていたのかな。慢心ってやつか……。」


消え入りそうな声で呟く新田の言葉を、カウンターの向こう側で地蔵店長が静かに受け止めた。


「慢心。まさに、仏教が戒める煩悩ですねえ。」

地蔵店長はいつもの福々しいお地蔵さん笑顔を絶やさず、穏やかな口調で言葉を添えた。


新田は顔を上げ、すがるような目で問いかけた。

「慢心も、仏教にあるんですか?」


「ええ。慢心については、傲慢になる7つの心の状態をさして『七慢しちまん』と言います。」


地蔵店長は新田の荒んだ心を包み込むように、仏の教えを説き始めた。


「新田さんの場合は、特に『邪慢じゃまん』という慢の煩悩が燃え盛っていたのでありましょうねえ。不道徳な行いをしているのに、それを正しい事だと思い込んで、邪な心で驕る心が強かったのでありましょう。」


ニコニコと優しい笑みを浮かべながらも、地蔵店長は新田の核心をズバッと言い当てた。

その言葉は鋭い刃のように新田の胸に突き刺さったが、不思議と痛みよりも清々しさが勝っていた。


「邪慢を持って悪業を為せばどのような事になるか、それは新田さんが身をもって知られる事となりました。」


地蔵店長は一度言葉を切り、再び慈愛に満ちた視線を新田に向けた。


「肝要は、女鬼さんが諭して下さったことを正しく理解して、善き事を実践し、邪慢が顔を出したらそれに気づき、御自身を調えて生きてゆかれる事で御座います。」

地蔵店長は合掌し、丁寧にお辞儀をした。


その様子を横で見ていた女鬼が、ふっと優しい笑みを浮かべて新田を覗き込んだ。

「あーしの事、耳が痛い事言いまくる小娘だって、嫌いになった?」


少しだけ悪戯っぽく、けれど新田を気遣うような温かい響きがその声にはあった。

新田は迷うことなく、しっかりと女鬼の目を見つめて答えた。


「いや、むしろ好きになった。その、男と女と言う意味では無く、尊敬する人生の先輩として、人として尊敬しているという意味でね。俺の正すべき悪に気づかせてくれて、本当にありがとう、女鬼さん。」

新田は椅子から立ち上がり、女鬼に向かって深々と、今日1番の敬意を込めて頭を下げた。


女鬼は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにカラカラと鈴を転がすような明るい声で笑った。

「ありがと♪ふふ、『人として』かー、あーしは鬼だけどね♪」


女鬼は店にやって来た時のような快活なギャルの表情に戻ると、新田に向かって可愛らしくパチンとウインクを決めてみせた。


---


泥水のように薄く、カスの残る「えらいこっちゃな嫌われ者エスプレッソ」。

新田はそれを、逃げることなくゆっくりと口に含んだ。

不快なざらつきと、芯のない苦味が喉を通る。


「これは、まさに今の俺だ……だからこそ、しっかりと受け止めなきゃならないんだな。」


新田は、自分自身の醜さを飲み干すように、最後の一滴までその粗悪な味をしっかりと味わって飲み終えた。


次に、彼は「美味しいエスプレッソ」のカップを手に取った。

立ち上る芳醇な香りを深く吸い込み、一口ずつ、その純粋な輝きを確かめるように味わう。


「この『美味しいエスプレッソ』の味のようになれるよう、これからは俺自身を調えて生きます。……本当に、目が覚めました。」


新田は、澄み渡るような後味と共に、決意を胸に刻んで飲み終えた。

彼は椅子から立ち上がり、カウンターの向こう側へ向かって背筋を伸ばした。


「御馳走様でした。そして、色々と有難う御座います。」

新田は、これまでの傲慢さをすべて捨て去るように、深く、丁寧に頭を下げた。


「当店は御布施形式にしております。」

地蔵店長は、いつものニコニコお地蔵さん笑顔を絶やすことなく、静かに合掌してお辞儀を返した。


「それじゃあ……少ないですが、今の俺にできる精一杯です。」


新田は財布を開き、中に残っていた10,000円札と5,000円札を1枚ずつ取り出した。

彼はそれを、えらいこっちゃ嬢の小さな手へとそっと手渡した。


「電車は電子マネーで乗れますから。後、500円玉があるから、これで来るときに乗った、あの不思議な車の代金は足りるかな。」

自嘲気味に、けれど晴れやかな顔で笑う新田に、えらいこっちゃ嬢は真ん丸な目を見開いた。


「毎度あり!えらいこっちゃな大金ありがとちゃん!しっかり預からせてもらうで!」

えらいこっちゃ嬢は元気よく答えると、15,000円を大切に抱えてレジへと駆けていった。


新田は出口までゆっくりと歩き、重厚な木の扉を開いた。

外には静かな夜の空気が満ちていた。

彼は一度立ち止まり、店内に向かって最後にもう一度向き直った。


「有難う御座いました、皆さん。」

新田はもう一度、深く深く頭を下げた。


「ん、しっかりね、店長さん♪」

女鬼は金色の瞳を輝かせ、茶目っ気たっぷりにウインクをすると、ひらひらと手を振って彼を見送った。


「御来店、誠に有難う御座います。」

地蔵店長もまた、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔で合掌し、丁寧なお辞儀で見送った。


カチャリ。


新田は扉を静かに、そして丁寧に閉めた。

かつて感じていた心の棘は消え、夜風が火照った顔に心地よく当たった。


自分のしでかした罪が消えるわけではない。

しかし、新田の足取りは、店に来たときとは比べものにならないほど、確かに、そして真っ直ぐに家路へと向かっていった。


---


新田が摩訶不思議食堂の扉を開けて外へ出ると、そこには燃え盛る車輪を持つ牛車が静かに停車していた。

運転席では、長い黒髪を束ねた着物美人の方輪車が、新田を待ってくれている。


「方輪車さんでしたよね?また、お世話になります。」

新田は憑き物が落ちたような穏やかな表情で、小さく会釈をした。


「はいよー。」

方輪車は笑顔で挨拶を返し、新田はゆっくりと、だが自分の足元を確かめるような確かな足取りで牛車へと乗り込んだ。


客席に腰を下ろすと、来た時と同じように、「お勘定」と書かれた札をぶら下げた白くて長い手がニューっと伸びてくる。

新田は500円玉を取り出し、その手のひらにそっと乗せた。

500円玉の重みを受け取った白い手は、そのまま滑らかにニューっと闇の中へ引っ込んでいった。


「毎度ありー。」


方輪車はにこやかに告げ、牛車の行き先を新田に伝えた。

「秋葉原駅周辺の、人気のない所まで向かいますさかい。その後で、青く灯る鬼火が向かう方向へ歩いて行って下さいなー。」


方輪車がハンドルを握ると、牛車は力強く発進した。

物凄い速さで走る牛車の中で、新田は自分自身の内に向かって静かに呟いた。


「嫌われ役、か……。嫌われているのは役職ではなく、俺自身なんだな。俺自身の行いによって、俺が嫌われてただけだったんだ……。」


これまでの人生で誇りだと思い込んできた鎧が、実はただの独りよがりな暴走であったことを、彼は噛みしめるように受け入れた。


方輪車はバックミラー越しに新田の様子を窺い、優しく微笑んだ。

「その事に気づかはったんやったら、もう大丈夫そうですなあ。店長さん続けはるにしても、別の道を行かれるにしても、今日の気づきは、きっと良い人生を歩む杖となってくれますえ。」


その温かい言葉は、冷え切っていた新田の心にじんわりと染み渡っていく。


---


牛車は間もなく、秋葉原の喧騒がわずかに届く静かな路地裏で停車した。

「御乗車、誠に有難う御座いますー。」


「有難う御座います。」


新田は丁寧にお礼を言い、牛車を降りた。

彼が地面に足を着くと同時に、方輪車は颯爽と車輪を走らせ、夜の闇の向こうへと去っていった。


一人残された新田の目の前に、青く灯る鬼火がふわりと現れた。

鬼火はまるで導くようにゆっくりと動き出し、新田はその後について歩き始める。


暗い路地を抜け、鬼火がふっと見えなくなったその瞬間。

新田はいつの間にか、秋葉原駅が見える明るい大通りへと出ていた。

振り返ってみても、そこには見慣れたビルの壁があるだけで、摩訶不思議食堂へと続く道は見当たらない。


新田は、自分が今しがた歩んできた道を振り返り、ゆっくりと、そして丁寧に深く頭を下げた。


「本当に、有難う御座います、摩訶不思議食堂の皆さん。」


彼はもう一度心の底から感謝を伝えると、駅へと続く人混みの中へ、迷いのない足取りで向かっていった。


---


次の日の平日。

新田は休みではあったが、京都店時代に不当に退職に追い込んだ親会社の本社人事部課長へアポイントメントをとった。


どうしても直接話したいことがある、今日が駄目なら後日きちんと話をする機会を設けて欲しい。

受話器を握る手に力を込め、新田は電話越しに何度も深く頭を下げる。


その切実な声に押されたのか、課長はこの日の午後にわずかな時間を作ってくれることになった。


新田は約束の時間に、親会社の人事部へ顔を出した。

受付を済ませ、案内された会議室へ通されて、硬い椅子の感触を確かめながら暫く待つ。

室内に漂う無機質な空気の中で、新田は昨夜の食堂での出来事を思い返していた。


やがて扉が開く音が響き、眼鏡をかけた人事部課長が静かな足音と共に入って来る。


「本日は貴重な御時間を頂きまして、誠に有難う御座います。」

新田は即座に立ち上がり、迷いのない所作で深く頭を下げた。


人事部課長は挨拶を返すこともせず、無表情のまま対面の椅子に腰を下ろした。

眼鏡の奥にある瞳は冷徹で、観察するようにじっと新田を見据える。


新田も促されるように座り直した。

対峙する課長の視線を真っ向から受け止めながら、彼は一度深く息を吸い込む。

新田は乱れそうになる鼓動を鎮めるように、呼吸を調えていた。


---


新田は椅子から立ち上がると、深く、長く腰を折って頭を下げた。


「京都店では、本当に失礼なことを致しました。あなたの人権と尊厳を踏みにじり傷つけてしまい、誠に申し訳ございませんでした。」


会議室を支配する静寂の中に、新田の震える声が重く響いた。

対面に座る人事部課長は、その謝罪を無表情のまま受け止め、眼鏡の奥から無言で新田を見据えている。


新田はゆっくりと頭を上げたが、課長の氷のような視線にひるむことなく、鞄から1通の白い封筒を取り出した。

それを両手で丁寧に、テーブルを滑らせるようにして課長の前へと差し出す。

封筒の表には、迷いのない筆致で「辞表」と書かれていた。


「私は人の上に立つ資格、人を指導する資格はありません。売上が低迷し続けているのは、店長としての力量が伴っていない事、そして……私の人間性が原因です。」


新田は自らの醜い本性を曝け出すように、一文字ずつ噛みしめるように言葉を紡いだ。

「その責任を取って、退職致します。」


再び深く頭を下げる新田に対し、人事部課長は冷淡な声を浴びせた。

「逃げるのか。」


新田の肩がわずかに跳ねる。


「辞めれば全責任を放棄出来るとでも思ってるのか?店長として苦しめてきた人達に対しても……俺にしたことも消えるとでも思ってるのか?」


課長は吐き捨てるように言い放った。

その言葉は、新田が昨夜「摩訶不思議食堂」で突きつけられた「因果」そのものだった。


「いえ、未来永劫、消えることはありません。取り返しのつかない事をしてしまったと自覚しております。生涯に渡り、背負って生きます。」


新田は頭を下げたまま、真っ直ぐな決意を込めて答えた。

罪が消えないからこそ、せめて今の自分にできる唯一の「責任」の取り方がこれしかないという覚悟だった。


「……俺が1人のアルバイトだった時には、あんなに偉そうに恫喝してたくせに、上の役職や立場が上の人に対しては従順なんだな。典型的な駄目中間管理職の姿だ。」


課長は心底軽蔑したように吐き捨てた。

その辛辣な評価は、かつての新田にとっては何よりも屈辱的であったはずだが、今の彼にはただ重い真実として胸に沈んでいった。


「……返す言葉も御座いません、仰る通りです。」

新田はさらに深く頭を下げた。


課長は「辞表」を無造作に手に取り、事務的に処理するように懐へと収めた。


「辞表は預かっておく。少なくとも、店長職は解任するつもりだったから、店長としての仕事の引継ぎはしておくように。ボイコットしたり、勝手にいなくなる事は許さん。」


課長は冷たくそれだけを言い残すと、椅子を荒々しく引いて立ち上がり、振り返ることなく会議室を出ていった。


「はい。」

誰もいなくなった部屋で、新田はもう一度だけ静かに返事をして頭を下げた。


嵐のような視察から始まった混乱が、一つの終焉を迎えようとしていた。

彼は会議室を出て、無機質な本社の廊下を通り抜け、秋葉原の街へと続く出口を後にした。


---


後日、新田は新しくやって来た若い店長に、店長の仕事を全て引き継いだ。

店長としての最後の仕事を終えた彼は、都内にある巨大な物流センターへと異動になった。


そこは、黙々と会社の基盤を支えていた場所だった。

広大な倉庫の中で、山積みになった家電を運び、仕分け、箱に詰める。

50代にして新人という立場になった新田は、一回りも年下の若いリーダーから指示を受ける毎日を送ることとなった。


幸いなことに、そのリーダーは私情で人を怒鳴りつけるような人物ではなかった。

淡々とした、けれど的確な指示に従い、体を動かす。

かつての怒号が飛び交う殺伐とした店舗に比べれば、今の環境は驚くほど穏やかだった。


しかし、ネット上の世界はそうではなかった。

巨大掲示板群にある会社のスレッドでは、新田がいなくなった店舗の従業員たちが、解放感と喜びに沸き立っていた。


* 「N田がいなくなった、清々する!」

* 「さっさと辞めればよかったのに、あのクソ老害」

* 「当然の報い。ザマァみろとしか言えない」

* 「辞める前に、もっと徹底的に復讐してやればよかった」


画面越しに溢れ出す罵詈雑言の嵐。

かつての自分なら「無能の遠吠えだ」「無駄なあがき」と切り捨てていただろうその言葉が、今はつぶてとなって新田の胸を打つ。


「これが、俺が招いた結果……まさに自業自得ってことか。」


新田はスマートフォンの画面を消し、静かに呟いた。

自分が「嫌われ役」という隠れ蓑を使い、他人の心をどれほど深く傷つけてきたか。

その怨念は、こうして形を変えて自分に返ってきている。


「これからは、誠実に生きていくんだ。嫌われてもいいから何してもいいなんて、そんな傲慢な生き方はもうやめる。……今度は俺が、パワハラを止める側、させない側の人間になっていこう。ここから『社員を大切にする会社』を、俺が体現していくんだ。」


冷たい風が吹く物流センターの影で、新田は自分自身にそう固く誓いを立てた。

重い荷物を運び続けた体は悲鳴を上げていたが、心は不思議と、以前よりもずっと軽かった。


その日の仕事を終えた新田は、ふと夜空を見上げた。

都会の空は明るすぎて星はあまり見えないが、あの日見た「摩訶不思議食堂」の灯火を思い出す。


「自業自得、か……。自己啓発本は何冊も読んできたけど、仏教の本は一度も読んだことがなかったな。……まずは、入門書みたいなのを読むところから始めてみようかな。」


新田はそう独り言を漏らすと、駅前にある本屋に向かって、確かな足取りで歩き出した。

「嫌われ役」という偽りの仮面を脱ぎ捨て、一人の人間として一歩を踏み出した彼の背中を、夜の街灯が静かに照らしていた。


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