【第4話】カリとクサとモフの予言夜
月の雫が草の先にきらめく頃、山の奥深く、風すら眠りにつく静かな谷あいに、玉響庵はひっそりと灯をともしていた。
苔むした屋根の上には長い年月の記憶が振り積もり、まるで眠る老猫の背中のように、緩やかな丸みを帯びている。
庵を囲むのは、風にそよぐ“しっぽ草”の野原、夜ごと星を映すという“瞳池”、音のない“モフ林”、そして遠くでささやくように流れる“にゃらら小川”。
すべてがこの庵を守るかのように、しずかに、しずかに、呼吸している。
──ここは、忘れられた予言の地。
未来を毛玉に映す猫が棲むという、フサフサ王国の最果て。
その名は──おすず婆。
サビ色の長毛猫、しわくちゃの顔に、銀色のヒゲが三本だけ残っている。
年齢は不明だが、少なくとも800歳──くらいの貫禄がある。
月明かりの差し込む窓際に置かれた大きな土鍋の中に、ちょこんと座り、何やら丸い毛玉のようなものを静かに磨いていた。
夜ごとの習わしである。
ただの毛玉ではない。
かつて猫神から授かったという曰く付きの神毛玉で、未来を映すこともある──とか、ないとか。
(実際に見た者はいない)
「今宵はいちだんとツヤが良いのぅ」
そのとき、神毛玉の毛が一本ピンと立ったのを、おすず婆は見逃さなかった。
「ほぅ……」
おすず婆はふと手を止め、かすかに瞬く気配に誘われて、そっと外を見やった。
墨を流したような夜空に、銀の糸のような光がひとすじ──いや、もうひとすじ。
星が流れていた。
普通の流れ星とは、どこか違って見えた。空に描かれる光の弧は、静かに、だが確かな意思を持ってこの地を目指しているような、不思議な気配をたたえていた。
おすず婆は眉根を寄せ、神毛玉にそっと目をやる。
そこにはまだ何も映っていなかったが──
ひとつ、何かが始まった。
そんな予感が、夜気にまぎれてそっと庵を包んでいた。
おすず婆が空を見上げてから、ほんの数息。
星のひとつが、あり得ない急角度で軌道を変え、山肌めがけて突っ込んできた。
「ぬおっ、こりゃ……流星ってより、なんか落ちてきたぞい!」
ゴオォォォ……ズサァァアッ!!
おすず婆は慌てて外へ出た。
谷の斜面に煙が上がり、竹林の一角がざわめいている。
…………
しばしの静寂のあと、バサッと竹の葉が舞い、そこから──
「……ちょっとぉ~!この世界、空気めっちゃ湿気ってるぅ!髪ふくらむってばぁ!」
爆発したような髪を両手で押さえ、困った顔をした少女が、煙の中からもそもそと立ち上がった。赤いマントは焦げかけ、杖の先からはカリカリが一粒、ぽとりと落ちた。
「……誰だね、あんた……?」
「カリカリ王国から来たカリカリ姫!異世界カリカリ転生、ただいま完了って感じ?」
おすず婆はしばらく沈黙したのち、そっと背後の神毛玉に目をやった。
毛玉はわずかに震えて「ポリッ」と音を立てた。
「……ああ、うん。たしかに“何か”来たようじゃのう……」
夜の静けさがゆっくりと戻ってくる。
風もなく、音もない…
ひとしずく何かが落ちたのか、水面がふわりと揺れる。
月もまた、ゆらゆらと揺れた。
「この世界、空気が澄んでるね……」
カリカリ姫は空を見上げ、ポツンと呟く。
その横で、おすず婆もまた、ぼんやりと夜空を仰いでいた。
「そういえば、さっきもうひとつ……」
「え?」
「星がな、降りてきとったんじゃ。姫さんのとは違う、もっと…こう、真っ直ぐで、おとなしい光じゃった」
姫が視線を動かす。
「え、なにそれ。そっちにも誰か落ちてきた系!?」
おすず婆は神毛玉をちらりと見やり、うんうんと静かにうなずいた。
「行ってみるかの。たぶん、そう遠くはない」
「え、ちょっと待って、この髪、直してから……いや、やっぱいいや!行く行く!!」
姫はフードをかぶり直し、マントを翻した。
どこかで草がざわめき、遠くで蛙がひとつ鳴いた。
月の光に照らされながら、二人は小道を進んだ。
玉響庵から北へ少し行ったあたり、小さな丘に差しかかると──
「……あれ見てみぃ、姫さん」
おすず婆が指さした先。
草が風に揺れるその中心に、ぽっかりと人の形にへこんだ着地跡。
そして、真ん中に……
「誰か倒れてる!!」
いや、寝ていた……
草に包まれるように、若い男がすやすやと横たわっている。
髪には野の花、肩には葉っぱ。
右手には、なぜか小さなスコップ。
「やだ…やたら美少年…」
「まるで草の精霊じゃな」
おすず婆が感心して言う。
その瞬間、ふいに少年がぴくりとまぶたを動かした。
「……ん……うぅ……」
姫がパッと構える。
「起きるよ!来るよ!はい記憶あるのか!?ないのか!?どっち!?」
男は目を開けた。深い森のような瞳。だが、どこかおぼつかない。
「……ここは……どこ……?」
「あなたたちは……」
そして、おそるおそる言葉を継ぐ。
「ぼく……誰……?」
──きた。記憶、飛んでる。
カリカリ姫が即座に叫ぶ。
「うわー!本当に記憶喪失パターン来ちゃったー!!!!!」
おすず婆はそっと少年の肩に手を置き、
「立てるかの?ほれ姫さんよ、手を貸しておくれよ」
草の丘をあとにして、三人は月明かりの小道をゆっくり庵へと歩き出した。
空には透き通るような満月。
夜露を含んだ草が足元でささやき、木々の間を夜風がふわりと抜けていく。
並んで歩くカリカリ姫と少年の少し後ろを、おすず婆がとことこついていく。
「で、名前は?」
姫が唐突に聞いた。
少年はきょとんと首をかしげた。
「……ない。思い出せないんだ。自分の名前も……どこから来たのかも」
「うーん、それはもう名付けちゃうしかないやつだな」
「え、君が?」
「うん、今ここで私が名付けよう。わりとセンスあるし?」
姫は少年の顔を覗き込むように見つめた。
「え〜っとねぇ…葉っぱ、ついてるし」
「えっ…どこ?」
「ううん、そのままでいい!草っぽくてイケてるよ!」
「……草っぽい?」
姫は腕を組み、どや顔で言い放った。
「よし!あなたの名前は──
《クサクサ王子》だ!!」
「……えぇぇ?」
少年は困惑しながらも、草の匂いを嗅ぐように自分の袖をくんくんした。
「……うん、たしかにちょっと草っぽいかも」
「ほらね!?説得力あるじゃん!もう完全にそういう運命だったって感じ!」
おすず婆が後ろでくすくすと笑った。
「まぁ、悪くない名じゃ。草の精霊に愛されたような顔しとるわい」
「え、精霊…ぼく……?」
ふいに少年が月を見上げると、その瞳がふと柔らかく揺れた。
「なんだろう……草の香りを嗅ぐと、胸の奥がざわってして……なんか、風の音が、名前を呼んでるみたいな……」
カリカリ姫が目をきらきらさせて身を乗り出す。
「はい、クサクサ王子、爆誕です!!」
カリカリ姫は、またもやクサクサ王子の寝ぐせだらけの頭をじぃ〜っと見つめている。
「よし、決めたっ。君の出身は『クサクサ王国』ね!もう、それ以外ありえないから!」
「クサ、クサ……?」
「クサクサ王国から来たクサクサ王子!なんか語感よくない?もう主食は草って感じ?」
姫は大きな口を開けてケラケラ笑った。
「え、草は……まあ好きだけど……」
「ほら〜!!じゃあ職業は、えっと……花屋で働くフリーター!」
「フリー……ター?」
趣味は「草の上でゴロゴロすること!」
特技は「草と会話できる!」
好きな食べ物は「モフ草サラダ!」
座右の銘「急がば、生やせ!」
将来の夢「世界中の草マップを作る!」
年は、カリカリ姫と同じ16歳で、
家族構成は、おっとりしたお母さんと、野草にしか興味がない無口なお父さんと……
妹がひとり。名前は“クサミ”!
「クサミ……?」
最近気になることは、クサミがサボテン頭の彼氏を連れてきたこと!!
「草属性の家庭、濃すぎる……」
「でしょ!?はい、プロフィール完成!」
少年…いや、クサクサ王子は何が何だか分からない顔をしつつも、優しい笑顔で姫を見ている。
おすず婆はそんな二人の後ろを歩きながら、にっこりと目を細めた。
「ええコンビになりそうじゃのう…」
こうして、庵に着くころには
──クサクサ王子の人生が半分くらい出来上がっていたのであった。
月はやさしく微笑むように、三人の頭上を照らしていた。
庵の囲炉裏に残る火が、静かにちろちろと揺れている。
外は深い夜。山の谷間を包む霧も、いまは静寂にとけている。
おすず婆は湯呑を片手に、ぼんやりと囲炉裏の火を見つめながら言った。
「……それにしても、おぬしたち。その姿では、この国では不自由じゃろう」
カリカリ姫とクサクサ王子は顔を見合わせた。
「この国……って?」
「ここはフサフサ王国。しっぽの者たちが暮らす、不思議の国じゃ。人の姿では、見えぬものも多かろうて」
そしておもむろに立ち上がり、棚から古びた箱を取り出した。中には、三束のフサ毛が、丁寧に収められていた。
「これは“聖なるフサ”――」
「なんかすごいの、でたぁっ!!」
「聖、なる……?」
「伝説の三尾が、再びそろうとき……王国は救われる、とな」
「救われる?……なにか、良くないことが起こるの?」
火の灯りを見つめたまま、おすず婆はぽつりとつぶやいた。
「……最近、森の奥でモフが育たんのじゃよ。ふさふさの草も、ぬくもりの毛玉花も。……この国の命が、どこかで、静かに枯れ始めとる」
「えっ、それって一大事じゃん!」
「うむ。“しっぽのぬくもり”が失われれば、この国は……」
しん……と、外の風が葉をゆらす。
おすず婆は、そっとフサ毛を一束ずつ、二人に手渡した。
「このフサ毛には、それぞれのしっぽの魂が宿っておる。おぬしたちに、受け継ぐ資格があるかどうか…試してみるかのぅ。さあ、目を閉じなされ…」
ふわふわと空気が震え、月明かりが庵の中にさしこむ。
「もっふる もっふる しっぽのちからよ……もっふらせたまえ……」
──すぅぅぅん……
ぱあああっっっっ……!!!
毛玉が舞い、光がふわりとふくらむ。
次の瞬間……
カリカリ姫の身体を、やわらかな光がそっと包みこむ。その輪郭は、ゆらゆらと揺れながら小さくなっていき──
ふわり、と舞い落ちた一片の毛玉のように、やがて三毛柄の猫の姿が現れた。
同じように、クサクサ王子の足元にも草のような緑の光が広がる。優しい風が吹きぬけると、その中から現れたのは──
きりりとした瞳を持つ、ハチワレ模様の猫だった。
驚くべきことに、二人ともしっぽがキツネのようにフッサフサ!
「しっぽ生えてるぅぅぅ!!かわいすぎるんですけど!?このフサフサ……一生触ってたい……!!」
「ぼくの毛並み……ふわ……いや、これは草……いや、毛……いや……どっち……?」
「やはり……わしの思うたとおりじゃったな……」
「えっ!私たちって、伝説のすごい猫になったの?救世主なのッ?!」
「伝説の三尾になるためには、まだ試練を乗り越えねばならんがの……」
「試練……?」
クサクサ王子が不安そうな声で言う。
「大丈夫じゃ、一人ではない。三人で力を合わせれば、きっと乗り越えられるじゃろう。」
「どこかにもう一人、いるのね?」
カリカリ姫が尋ねる。
そのとき、窓の外に金色の光が見えた。まるで蝶のように、ヒラヒラと飛んでいく。
カリカリ姫が、光を追うように外へ飛び出した。クサクサ王子も続いてそっと外へ出る。
金色の光は、ゆっくりと南の森のほうへ……
おすず婆はそれを見て、目を細めつぶやいた。
「最後の一人。“ふさふさ中のふさふさ”が、目覚めるときが来たようじゃな……」
「ふさふさ中の……」
「ふさふさ?!」
「どんだけふさふさなのッ!」
(姫、心の声)
クサクサ王子のしっぽが、かすかに震えている。ふわりと夜風が吹いて、草の香りがしっぽの毛をすり抜けていく。
「……ホントに、大丈夫かな」
ぽそりとつぶやいた王子に、カリカリ姫はにんまり笑った。
「だいじょーぶでしょ!伝説のしっぽよ?わたしたち、すでにフッサフサじゃん!」
得意げにふりふりする三毛しっぽ。
その勢いに押されるように、王子のしっぽもふわっと揺れた。
気づけば、ふたつのしっぽが、風にまかせてそっとふれあっていた。
金色の光が森の先へと消えてゆく。
──しっぽが導く、フサフサの物語。
まだ見ぬ最後のしっぽとの出会いに……
姫のしっぽはぶんぶんと、王子のしっぽはそわそわと、小さく揺れていた。
夜が明けたら、南の森の遥か向こう、キャッスル・オブ・フサフサへ向かおう。そう決めた二匹の背中に、月明かりがそっと降りそそぐ。
フサフサ王国の夜は、始まりの気配に満ちていた。