第八話 魔王と講義と現代社会
──大学構内に足を踏み入れた。
正確には、我が“足を踏み入れた”ことに気づく者はいない。
なぜなら、現在の我は、視覚情報を遮断する術式《幻靄の外衣》を発動中である。
「ラグナさん、そっちは違いますよ。講義棟はこっちです」
「む……この建物ではないのか」
「そこは経済学部。俺は社会学科なんで、もう一つ奥の棟です」
地球の“学問の区分”は、やや分かりにくい。
だが興味深い。
言語・記号・思考・制度──それぞれの視点から“人間社会”を解析している。
今日、山岡が受講するのは「現代社会と集団構造」という講義らしい。
──社会、か。
魔術と同じだ。
目には見えぬが、確かに存在し、人を操る構造体。
我の研究対象として、実にふさわしい。
講義室に入ると、すでに多くの学生が席に着いていた。
そのほぼ全員が机の上に、板のような装置を置いている。
「……この薄板、魔道書の変種か?」
「タブレットとかノートPCです。ノート取ったり、スライド見る用ですよ」
「魔力の気配はないが、内部で情報を展開しているな。構造記憶媒体……いや、もっと複雑か。これは……」
「はい、はい。ラグナさんの“それ”始まったー」
「黙れ。観察に集中している」
各学生がそれぞれの端末に触れ、指先を滑らせている様子はまるで術式展開前の予備操作のようだった。
我はその反応速度と精度に舌を巻いた。
「……小型端末にしては入力反応が早い。視認範囲も狭くない。魔導触媒よりも融通が利くな……」
「……地球人は魔法使いじゃないですからね?」
ふと前方の壁に、巨大な白布が降りてきた。
そして間もなく、天井の投影装置から光が放たれ、文字と図像が映し出される。
「投影装置……光幻術の応用構造か? 映像が歪まない……これは高度な幾何光制御の──」
「やっぱ始まった……」
やがて教員が入室し、講義が始まった。
「本日は“社会的役割と集団ダイナミクス”についてお話しします」
「……社会的、役割?」
「地球でいう“立場”の話です。“人は場に応じた役割を演じることで社会を維持している”ってやつです」
我はじっと耳を傾けた。
「……人間は集団において、“他者からどう見られているか”という期待を無意識に内面化することで、自身の振る舞いを調整する……」
「なるほど……“他者の視線”が内面に影響を与える。精神干渉の逆位相操作と似た原理だな……」
「なにそれこわい」
「それゆえ、同じ個体であっても集団ごとに態度が変わるのか。藤井のような男が周囲を支配する理由も、納得がいく」
「いや、“支配”って言い方やめてもらっていいですかね」
学生たちは真剣な面持ちでスクリーンを見つめ、端末で記録を取り続けていた。
この光景は、まさに“学習の儀式”であり、“知識の場”として完結された空間だった。
我は思わず呟いた。
「……実に、面白い」
「ラグナさん、声出てます声。そこ“透明”でも関係ないやつですから」
講義が終わり、チャイムが鳴る。
昼休みの到来とともに、教室内が一気に賑やかになった。
「……さて」
隣で鞄を閉じる山岡が、小さく息を呑む。
彼の表情には、わずかながら緊張の色が見えた。
「行きましょうか。……探しに」
我は頷いた。
大学の中庭──学生たちが思い思いに昼食を取るスペース。
ベンチ、芝生、立ち話。どこかに紛れ込んでも不思議ではない。
「……いた」
山岡が芝生の向こうを指差す。
視線の先に、男が三人。
あの3人──吉川、藤井、鶴見。
それぞれが数名の生徒に囲まれて談笑している。
「……ラグナさん、やっちゃってください」
その言葉に、我は目を細める。
「了解した。“過度の干渉”は禁止と言ったはずだが──静かな波を与えることは、約束した」
右手を軽く振る。
既に術式は講義中に整えてある。あとは“放つ”だけだ。
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魔法、発動
まずは藤井。
──《虚構転声》
言葉が、意図せぬ意味で他者に伝わる。語彙の歪み。文脈の反転。
次に鶴見。
──《眼裏偏向》
彼の笑顔が、傍観ではなく“嘲笑”に見えるよう他者の視覚を一部操作。
最後に吉川。
──《表層崩し(フェイス・スクラッチ)》
髪型、服の着こなし、持ち物……些細な乱れが“わざとらしい失敗”に見える幻覚を周囲に散らす。
術が一斉に走った。
一見、空気には何の変化もない。
風が吹くでもなければ、光が揺れるでもない。
だが──
「……始まったようだな」
我が呟くと同時に、山岡が眉をひそめる。
「……え、今……何か、変わったんですか?」
「まだ、そなた自身には“変化の質”がわからぬか」
我はそっと手を伸ばし、山岡の肩に指を添える。
──《視界重奏》
一部の観察対象に対する“他者の視覚認識”を、山岡にも共有する魔術だ。
「……っ、これは……」
山岡の目が見開かれる。
芝生の向こう、藤井に囲まれていたグループのひとりが眉をひそめ、そっと一歩引いた。
言葉の調子に明確な違和感を覚えているのが、表情でわかる。
鶴見と話していた生徒たちは、徐々に視線を逸らし、不自然な距離を取り始めた。
吉川の周囲では、女子数人が「ねえ、今日ちょっとダサくない?」と笑い合っている。
「……っ、これ……効いてる。ちゃんと、みんなの見方が変わってきてる……!」
そして、変化はターゲットたちにも伝わっていた。
藤井が不安そうに言葉を選び直し、鶴見が眉をひそめて笑みを引っ込める。
吉川は携帯を取り出し、髪型を確認している。
「……おかしい。なんか、雰囲気変じゃね?」
「え、なんで?今の冗談普通だろ?」
「なんか今日、女子の視線冷たくね?」
3人は小声で何かを確認し合い、周囲の空気を読み始める。
そして数分後──「ちょっと離れようぜ」と言い残し、3人は連れ立って中庭を離れていった。
「……逃げた、な」
山岡は小さく呟き、拳を握った。
「ざまぁ……」
だがその声に、我は答えなかった。
魔術の真価は“直接の攻撃”ではない。
“他人の目”という最も恐ろしく、最も静かな刃を、意識に刻むこと──
それこそが、我の術の形である。
地球社会における“人間”とは── 個として完結した存在ではない。
その評価は、常に他者によって定義され、
その立場は、周囲の目によってかたち作られる。
故に、彼らは“何も変わっていない自分”でさえ、周囲がそう見なくなった瞬間に、足場を失う。
言葉ひとつ、表情ひとつ。
ほんのわずかな“見え方の違い”で、人は立場を崩す。
それが、“社会”という名の、巨大な幻術だ。
──面白い。
我は静かに、そう思った。
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