第一話 魔王が地球にやってきた
「魔王様ァアアアッ!!ついに、ついに転移術式が完成されたのですねッ!」
塔の天井を震わせるような大声で、しもべ(自称)のゼベットが駆け込んできた。
扉を開けるという行為に、なぜあのような破壊音が伴うのか。
我には未だ解せぬ。
「……まず一言っておこう。ゼベットよ、我は一度たりとも“魔王”と名乗った覚えはないのだが」
床にひれ伏しながらも、ゼベットは嬉々として叫ぶ。
「そのような御謙遜、むしろ魔王様にふさわしいお心構え……!」
「違う。謙遜ではない。事実の確認だ。我は魔術の研究者であって、王を名乗ったことなど──いや、それ以前に王を目指したことすらない」
「……それでも、民は皆、魔王様をお慕いしております」
我がため息をつくのと、ゼベットが神妙に頭を下げるのは、ほぼ同時だった。
この茶番も、随分長く続いている。
街を蒸発させ、山を割り、空を燃やした数々の術式の“副作用”によって、我はいつの間にか“魔王”などと呼ばれ始めた。崇める者、恐れる者、勝手に跪く者……。
──だが、我はただ魔術の原理を追い求めていただけなのだ。
「それで、術式が完成したとなぜわかった」
「外郭陣が起動状態でした!陣面に反応があり、空間がわずかに揺れておりました!」
「ふむ……確かに、昨日調整した術式には、転移因子を組み込んでおいた。座標固定型ではなく、ランダム跳躍。未知空間への接続を目的とした試作第七号。成功すれば、異界への扉が開かれる」
「なんと……異界への、扉……!」
瞳を輝かせるゼベットをよそに、我はゆっくりと魔法陣の中央へ歩みを進める。
地を刻む幾何学模様。空間に漂う魔素の振動。すべてが“転移”の兆しを示していた。
「……ゼベット」
「はっ!」
「今回の転移が成功すれば、術式は記録される。だが、失敗すれば我がどこへ消えるかもわからぬ。最悪、戻れぬ可能性もある」
「その場合でも、私が必ず……!」
「無理だ。お前に我の術式は扱えん。待機しておれ」
静かに告げ、我は目を閉じた。
──空間の外。
次元の彼方。
この世界ではない、どこか。
精神を集中させる。
思考を明瞭に。
魔力を律し、イメージと共鳴させる。
我が求めるのは、世界の外側。
現象は、形を持って応える。
「転移術式・試作第七号──《境界穿通》、起動!」
光が、爆ぜた。
視界が、白に染まる。
そして──
──視界が、戻った。
……うん、これは間違いなく異界だ。
床は木製の板張り、少し歩けばギシギシと音がする。
壁紙は剥がれかけ、天井にはカビの跡。
魔素の気配は極端に薄く、周囲の空間密度も低い。
換気も悪そうだ。
なんというか、研究環境としては……劣悪、である。
「まさか、“こういう”世界だったとはな……」
転移術式は確かに発動した。
ここは我が元いた世界ではない。
ならば、これは確かに──
「──異世界、というやつか」
と、我が軽く部屋を見渡していたその時。
「き……来た……!ほんとに……来た……っ!」
声がした。
振り返ると、部屋の隅にいたのは──、一人の若き男。
痩せぎすで、疲れきった目をしていた。
ジャージ姿で正座し、手には一冊の黒い本。
こちらを見て、震えている。
そして──いきなり、土下座。
「召喚、成功……!まさか、まさか本当に……っ!」
「……我を、知っているのか?」
「そりゃもう!だってこれ──」
男は抱えていた本をこちらに向けて見せてきた。
表紙には金文字で『真なる黯黒の契約書【完全版】』と書かれていた。
……どう見ても、胡散臭い。
「ここの第二章、“七日以内に復讐できる悪魔”って項目……これに載ってた“ザグレイル=ダゴン”!その姿、その風格……絶対にそうですよね!?」
「……ザグレイル?ダゴン……?」
我は首を傾げた。
「いや、それは我ではないな。全く知らぬ名だ」
男の顔が、ピタッと静止した。
「……は?」
「全く違う、と言っておる。どちらかと言えば、我は研究者だし」
男は本を見て、我を見て、また本を見て──
「じょ、冗談ですよね……?あ、はは……冗談……」
「冗談ではない」
その瞬間、男の肩がガクッと落ちた。
「あああああ……俺の……俺の復讐が……」
そのまま、男は畳に突っ伏した。
いっそ清々しいまでの落胆ぶりである。
「……そなたの期待を裏切ってすまぬな」
だが我は悪魔でもなければ、復讐代行業者でもない。
むしろそんなことに我を巻き込まれては困る。
魔術研究の邪魔だし。
「……ところで、ここはどこなのだ?」
我は男に問いかけた。
状況を確認せねば、次の行動も決められぬ。
「え?ここ……?ああ、えっと……」
男は少しの沈黙の後、ぽつりと答えた。
「日本……って国の、とある大学近くのアパートです。家賃三万七千円の、六畳一間。」
「ふむ。“日本”という国名はわかった。だが、それはこの世界の一部に過ぎぬな。ならば──この星の名は?」
「え?星の……名前、ですか?」
男がぽかんと口を開ける。少ししてから、申し訳なさそうに答えた。
「えっと……地球、です。たぶん……」
「“地球”、か。……語感としては、やや土っぽいな」
「土……確かに字面はそうですけど……」
「ふむ。地を主成分とした惑星、と捉えれば理屈は通る。大気組成や重力も我が元いた世界に近い。魔素は極めて薄いが……研究対象としては、面白い」
そう呟きながら、我は静かに立ち上がった。
「よし。我はこの“地球”にしばらく滞在することにする」
「え、ちょ、勝手に決めて──」
「この空間には雨露をしのぐ屋根がある。壁もある。寝転べる床がある。……最低限の居住条件は満たしている」
「勝手に人んちを居住条件で評価しないでください……!」
──こうして、魔王は地球に降り立ち、しばらくの間、家賃三万七千円の、六畳一間で暮らすことになった。
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