涙の乗車券 ticket to ride
涙の乗車券
Ticket to Ride
トラックの窓を全開にした。今日は暑くも寒くもない。有明海から晩春の湿った風が吹き込んできた。
今朝出勤すると、若い営業社員が申し訳なさそうに、手違いで今日急ぎ熊本まで配達に行ってほしいと伝えてきた。青ざめた顔で。
僕は本当は長距離運転は嫌じゃない。一人の時間が長く取れるからだ。
鷹揚な先輩の顔で、「オッケー、住所教えて」と言った。
海の匂いに春の植物の瑞々しい匂いが混じる、最高のドライブ日和やね。
ふとラジオから流れてきたのは、ビートルズの「Ticket to Ride」だった。
少し古びた音源。
イントロのギターリフを聴いた瞬間、不意に胸の奥がざわついた。
──涙の乗車券か。
ハンドルを握ったまま、ぼんやりと昔のことを思い出していた。
まだ若くて、何も手にしていなかった頃のことを。
そして、あの子のことを。

⸻
もうずいぶんと前のことになる。
あの頃、僕は月に一度くらいのペースで、お互いの仕事帰りに、彼女と食事に行っていた。
賢そうな、僕の理想の顔をした女の子。
綺麗な姿勢の、細い小さな女の子。
そんな子と行く食事やデートは、本当に楽しかった。本当に。
彼女は声がよく通る子で、大きな声では決してないのに、聞き取りやすい声をしていた。
たとえば、イタリア産の古いヴァイオリンのように。
彼女の相槌や、話の最後につく笑い声──「ウフフ」が、いつも心地よかった。
よく喋った。
本当に、よく喋っていた。
彼女が黙っているときも、僕はずっと喋っていた。
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あるとき、ふと上品な顔のまま、彼女が話し出した。
最近、彼氏と別れたという話だった。
大学生のときから付き合っていた彼氏が、県庁勤めの激務で鬱になり、アパートに引きこもったこと。
お弁当を作って励ましに行ったら、弁当を投げ返されたこと。
僕の理想の女に、そんなことができる男がいるんだ──と驚いた。
でも、どこかでその男の気持ちもわかった。
人生がうまくいっていないとき、キミみたいな、キラキラと無敗の匂いをまとった女が来たら、サディスティックに拒絶したくなる気持ち。
そんなふうに、僕は思った。
⸻
そして、その最中ずっと、心のどこかでこう感じていた。
──この子とは、たぶん一生セックスをしないだろう、と。
たぶん、それははじめから決まっていたことのように思う。
彼女が恋愛対象として僕を見ていなかったのか、僕がどこかで線を引いていたのか、それはよくわからない。
でも、不思議とそれが嫌ではなかった。
むしろ、その距離感が心地よかったのかもしれない。
⸻
昔、彼女に憧れていた。
“the girl that drives me mad”
(僕を狂わせた女の子)
それを口ずさんだとき、
高校時代の彼女の顔がふと浮かんだ。
⸻
当時の僕には、別に身体の関係を持っていた先輩がいた。
恋人未満の、いびつで適当な関係。
その関係に満足していたわけではないけれど、満たされていないとも感じていなかった。
どちらかと言えば、目の前にいる彼女と過ごす何気ない時間の方が、ずっと記憶に残っている。
⸻
食後、よくドトールに入った。
終電で彼女が帰るまでの時間を、一緒に過ごした。
彼女は夏の日も冬の日も、ホットコーヒーを頼んで、ゆっくり飲んでいた。
暑い日でも寒い日でも、彼女はおちょぼ口で啜るように、静かにコーヒーを飲んだ。
季節はちょうど、栗の花の頃だったと思う。
駅までの帰り道にふと、あの匂いが風に混じって届いた。
彼女は気づいた様子もなく、いつものように、「またいつ行く?」とだけ言った。
僕は、「うん、また連絡するよ」とだけ答えた。
本当は、いまこの瞬間がずっと続いてくれたらいいのに、とそのとき思っていた。
でも、口には出さなかった。
出したら終わるような気がしたからだ。
⸻
しばらくして、彼女から電話がかかってきた。
「今度、医学部の大学院生の人とご飯行くことになった」と、どこか照れくさそうな声で言った。
紹介してくれたのは、高校時代の別の同級生だという。
僕は素直に、「めっちゃいいやん」と言った。
彼女が、そういう世界にふさわしくて、そういう世界で生きていって欲しいと僕は思っていたからだ。
しばらく沈黙があって、彼女が聞いた。
「大津くんは、それでいいと?」
僕は、「もちろん」とだけ答えた。
その声に、嘘はなかった。
本当に、それでよかったのだ。
⸻
“the girl that drives me mad
is going away♪”
(僕を狂わせた女の子が出て行こうとしている)
いえ〜〜。
⸻
それから一年くらい経った頃だったか、実家に彼女から一通のはがきが届いた。
新婚の新居は大学病院の官舎で、あまりの古さと汚さに驚愕した──
そんな、明るい笑いにくるんだ便りだった。
差出人の名字は、もう知らない人だった。
⸻
あれからまた、栗の花の季節が何度も巡った。
彼女がいま、どこでどんな暮らしをしているのかは知らない。
でも、ふとした瞬間に、あの笑い声、あの声の響きや、小さなお口で飲むブラックコーヒーを思い出すことがある。
あれが恋だったのか、友情だったのか、いまだによくわからない。
でも、あの匂いが風に混じってくるたびに、僕はあの時間を思い出す。
何も起こらなかった時間。
だけど、忘れたことのなかった時間。
⸻
ラジオから、あの曲のサビフレーズが繰り返し流れてくる。
ジョンだかポールだか、ファルセットで歌ってる。
──“My baby don’t care.”
心優しい高校生だった僕は、それを “My baby, don’t care”(愛する人よ、気にすんな)という意味だと信じて疑わなかった。
去っていく恋人へのエールだと。
今では、それが誤訳だったことも、その本当の意味も知っている。
本当は「アイツ、気にもかけんやったぜ!」というフレーズなのだ。
それでも、あの頃の僕には、それでよかったのかもしれない。
もしかして今頃、どこかの街で、同じ歌を、彼女がカーペンターズ・バージョンで口ずさんでたりして。
──“My baby don’t care.”
(あの人は気にもかけなかった…)
ウフフ。