慌ただしい日々
このお屋敷に来て数か月。今日は初めてお屋敷で催されたパーティーにお供させてもらった。旦那様が開かれたパーティーに、桔梗お嬢様は乗り気ではなさそうだった。
(つい、あんな事を言ってしまいましたが、大丈夫でしょうか…)
桔梗お嬢様の逃亡を手助けする、だなんて。使用人として合っているのか間違っているのか、正直分からない。旦那様のお顔を立てるとなると、無理にでも桔梗お嬢様にはずっとこのパーティーに居てもらわなくてはならない。でも、桔梗お嬢様には、嫌な思いは出来るだけして欲しくない……
今も、東条須久琉様と言うお坊ちゃまに肩を抱かれてエスコートされている。桔梗お嬢様は、上手い断り方が分からないのか、引きつる頬を誤魔化すように口元だけ笑わせていた。そして、東条様の手を振り払う事も出来ずにされるがまま。
本当は、私がおやめくださいと言いたかったが、先ほど千山様に「使用人は口をはさむな」と言われたばかりだ。新米の使用人が高貴な方々に口答えをするような態度をとるだなんて、ありえない。そう考えると、何も言えなくなってしまった。
だけど…気のせいか、桔梗お嬢様は助けてほしそうな視線を私によこした。それに気づいたのに、あの時に何も言えなかった事を後悔することになるとは、この時思いもしなかった。
東条様の後に続くと、会場内のステージの傍に旦那様ともう一人紳士が立っていた。その男性はこちらに気が付くと、軽く手を振る。
「須久琉、やっと来たか」
「お待たせ、父さん。織宮さんをお連れしたよ」
父さん。どうやら、紳士が東条様のお父様らしい。上等そうなスーツに身を包み、首にはハイブランドのロゴが入ったネクタイをしめている。裕福な暮らしをしているということは、見て取れた。
「いきなり呼びつけてしまって申し訳なかったね、桔梗さん。そのケーキも、まだ食べていないのだろう?」
「ごきげんよう、東条くんのお父様。ええ。お皿を受け取ってすぐにここに連れてこられてしまいましたから」
桔梗お嬢様は、この状況もだけれど、ケーキがなかなか食べられないことも気に食わないらしい。今日のパーティーで一番に楽しみにしていたのは、このケーキを食べる事だと言っても過言ではないだろう。
「ははは!それは申し訳なかったね」
「桔梗、みっともないぞ」
「いいんだよ、織宮殿。それなら、桔梗さんが早くそのケーキを食べれるように本題に入ろうか」
旦那様が桔梗お嬢様をしかるが、あまり目を合わせたくないのかお皿の上で輝くケーキに視線を落としていた。
しかし、そんな桔梗お嬢様の様子が気に食わないのか、旦那様はケーキが乗ったお皿を無言で奪うと、近くを通りかかったウェイターを任されていた使用人に渡してしまった。桔梗お嬢様は小さく「あぁ…」と声を漏らしていたが、さすがに奪い返すようなことはしなかった。
「桔梗、今日わざわざこのパーティーを開いて東条様方をお呼びしたのには理由がある」
「はぁ…どうせお仕事のお話でしょう?」
桔梗お嬢様は、変わらず視線は落としたまま。でも、旦那様は気にせずに言葉を続ける。
「そうではない。桔梗と、須久琉くん。お前たちには婚約してもらう」
「え…?」
「は…?」
「なんと…?」
桔梗お嬢様、東条須久琉様、そして私の声が重なった。
思わず声を零した私の方を、じろりと一瞥されたが旦那様はすぐに東条様へと視線を戻す。
「急な話で驚いただろう。しかし、君のお父様と話し合って決めたことだ。桔梗には、母がおらず不自由な思いをさせてしまっている。だが、今のうちに婚約相手を決めておけば将来への心配は減らせるだろう。東条君も、織宮家の令嬢と婚約しているとなれば、下手な同級生に言い寄られる心配も減るだろうしお互いに悪い話ではないと思うのだが」
「須久琉、お前もよく東条家の息子だからと言う理由だけで言い寄ってくる女子生徒に嫌気がさしていると言っていただろう?それに、お前は桔梗さんを気に入っていたみたいだし、東条さんが言うように利点はかなりあるんだよ」
(果たした、本当にそうなのでしょうか…)
一方的に話を進める旦那様。私はもちろんだが、桔梗お嬢様はもっと混乱されているだろう。
それに、突然こんなことを言うだなんてお互いの事業との強い繋がりを作るためだけに、無理矢理婚約をさせているようにしか思えない。さらに、桔梗お嬢様も須久琉様も、まだ中学生だ。こんなこと、そう易々と受け入れられるはずがない。
「あはは…何を言い出すのかと思ったら…父さん、さすがに僕でも驚くよ」
頭をガシガシとかきながら、須久琉様はそう言った。
「そ、そうよ!勝手な事言わないで!」
驚きのあまりしばらく固まっていた二人だったが、ようやく気が戻ったのかそれぞれ抗議の言葉を旦那様たちに向ける。
「それに、私たちのためだなんて言って、どうせお仕事のためでしょう!?私を利用しないで!」
「桔梗!なんだ、その口の利き方は!」
「まぁまぁ、桔梗さんが驚くのも無理はないさ。二人とも小等部から一緒だから全く知らない相手でもないし、これから親交を深める機会もまだまだあるからね」
東条様が宥めようとしてくれるが、桔梗お嬢様は怒りが収まらないのか小刻みに震えていた。
後ろに立っているから、表情は全く見えないがきっと唇をかみしめているのだろう。そう思うと、居ても経ってもいられなくなってきた。
「だ、旦那様…」
「なんだね?伊吹くん」
何か、何か言わなくては。そう思って口を開いたが、威圧感満載の眼差しを向けられていまいその後の言葉が続かない。
「えっと、すいません。なんでもありません…」
「使用人が、気安く口を挟むんじゃない」
(あぁ。また言われてしまいました…)
まだ新米とは言え、出しゃばりすぎなのだろうか。しかし、私の主人は桔梗お嬢様。桔梗お嬢様のために、私はこの身をもって尽くしていきたい。
(今こそ、逃げ出すべきではないでしょうか…)
旦那様は、私が俯くとまた桔梗お嬢様へと視線を移し、さらに驚くべき発言をされた。
「この後、壇上に上がって二人の婚約発表をする」
「え!?」
薄々思っていたが、このパーティーは色んな企業の方との親睦を深めるのではなく、お二人の婚約発表パーティーだったらしい。
それはさすがに予想外だった。いくらなんでも、急すぎる。どうにかして、この場から桔梗お嬢様を逃がしてやりたい。そんな気持ちが、沸々と湧き上がってくる。
壇上に目を向けると、端の方でマイクの準備をしている大和執事が見えた。元々、旦那様がゲストの皆さまに相手をするために用意しているが、大和執事はこの事を知っているのだろうか…
(そんな事より、何かここから桔梗お嬢様をお連れする理由を考えなくては…)
ぐるぐると思考を凝らしていると、桔梗お嬢様が後ろ手に私の袖口を引っ張ってきた。その時に、僅かに触れた指先はとても冷え切っているように感じた。
これは、逃げ出したいと伝えてくれている。そう確信した。
「さぁ、桔梗も一緒に来なさい」
「え、ちょっと…」
「僕も緊張するけど、父さんたちに任せておけば大丈夫だよ」
旦那様たちは、まだ混乱の渦から抜け出せない桔梗お嬢様を無視して壇上の方へと向かう。
使用人なら、自分の主人の婚約に喜ばなくてはいけない。そして、雇い主である旦那様に逆らうだなんて、あってはならない。
(私は、使用人として――)
私は、袖口を掴む桔梗お嬢様の手を優しく解いた。
須久琉様も、先ほどのように桔梗お嬢様の肩に手を回そうと、側に寄ってきた、その瞬間――
「……っ!」
私は、桔梗お嬢様の手が離れる前に、強く握り、引いた。
「えっ」
そして、自分の手よりも小さな手を握ったままゲ、ストの間をすり抜け、出入口を目指して、走る。
「お、おい!」
須久琉様が呼ぶ声が、耳の傍で聞こえた気がした。でも、私は、それを振り切るように走る。
出口が、さっきの何倍も遠く感じられた。
人ごみも、先ほどより混雑しているように思えて、無性にもどかしくなる。
「どいてくいださい!」
「ちょっと、危ないじゃない!」
千山様にぶつかりそうになったが、今は気にしていられない。
もうすぐ出口。この会場から外に出られれば、こちらのもの。あと少し――
と、その瞬間。たくさんの銀色のトレーにたくさんのグラスを乗せた相葉さんが目の前に現れた。
「あっ!」
ぶつかる。
浅はかな考えだとは思うが、逃げ出すことも、出来ないのか。やはり、新米としてやりすぎなのか。そう思ったその時…
ゲストを制するように腕を広げて壁を作り、避けさせて道を作ってくれた。
すれ違う瞬間、相葉さんと目が合う
「裏庭へ」
「はいっ」
そう小さく呟く相葉さん。
どうやら、ウエイターとしてこの場に居た相葉さんは桔梗お嬢様の為に逃げ道を作ってくれたらしい。
後ろから「桔梗!」と旦那様が呼ぶ声がする。
(逃げ切らなくては!)
ただひたすらに、出口を目指す。しかし、扉は閉じられており、体当たりして進むしかないか。そう覚悟を決めた瞬間、瀬月さんが扉を開いてくれた。それも、ちょうど人が通るのに十分な程度に。
この二人は、桔梗お嬢様の味方だ。旦那様よりも、桔梗お嬢様のお世話をすることが多いからかもしれない。
今日は何かと言い争う事もあったが、使用人らしく察して手助けをしてくれた。
二人の好意を、無駄にしたくない。
「ありがとう!」
走りながら、瀬月さんにお礼を言う。瀬月さんは、ふんっと鼻をならすと早くいけと顎で外を示してくれた。
何とか、隙間を抜け出して桔梗お嬢様のお手も引っ張る。
「きゃっ」
するり、と上手く抜け出してくれたようだが、少し強く引っ張り過ぎたかもしれない。
「あ、申し訳ございません!」
でも、シンプルなドレスを選んでいたおかげで、何も引っかからずにすり抜けることができた。
「何があったか知らねぇけど、さっさと行けよ」
「あ、はい!」
扉の隙間から、今までに見たことがないような怒りに満ちた旦那様のお顔が見えた。近くにいた使用人を呼びつけ、後を追わせるように指示している姿も……これは、早く逃げなくては。
お叱りなら、いくらでも受けましょう。ただ、今だけはこのパーティー会場から桔梗お嬢様を連れ出したい。その気持ちしかなかった。
瀬月さんは、私たちを締め出すように扉を閉める。これで、少しは時間稼ぎにはなるだろう。
「桔梗お嬢様、もう少し走りますよ」
「え、えぇ!」
この時、とても必死になっていた私は、本来なら主人の手を握るなど許されないという事も忘れて強く、強く握りしめていた。
♢♢♢♢
「はぁ、はぁ…」
「えっと、裏庭は…はぁ、はぁ」
頼に手を引かれ、広い屋敷の庭を走る。後ろからは、複数人の足音が聞こえていた。
でも、敷地内にいれば見つかるのは時間の問題だろう…このまま走り回っていても体力が削られるだけだし、運動が苦手な私は、そろそろ体力の限界だ。
逃げ出すことを想定して選んだヒールの低い靴ではあるが、パンプスで走るとなるとさすがに足も痛くなっていた。
屋敷の外に逃げ切れるわけでもないし、とりあえず一晩どこかに隠れなくては…その時、私はあることを思い出した。
「ねぇ、いい隠れ家があるの」
「隠れ家、ですか?」
「そう。こっちよ、案内するわ」
「はい…あ!お待ちくださいっ」
とっておきの隠れ家を思い出し、そこへ案内しようとしたその時。自分たちが向かおうとした先から、懐中電灯の光が見えた。
見つかる――
ここまでか…と、諦めかけた瞬間。
「桔梗お嬢様、こちらへ…!」
庭の隅に積み上げられた、肥料や木箱の影に私を押し込む頼。そして、私をかばうように上から覆いかぶさり、息を殺す。
私の肩に、頼の手が触れた。東条くんとはちがい、細くしなやかな、優しい手。その手が心地よくもあり、恥ずかしくもあった。
(顔、赤くなっていないわよね…)
この暗がりなら、きっと見えないはず。でも、体が触れていれば背中からこの鼓動が伝わってしまうのではないか、そう思うとさらに心臓がドキドキと煩くなってしまう。
ざっざっ
庭の芝生を踏む音が、近づいてくる。懐中電灯の光は、私たちを探すように蛇行していた。
(早く、早くいなくなって…!)
荒い呼吸を必死に押し殺しながら、頼と体を寄せて身を隠す。
「おい、いたか?」
「いや。いませんね。でも、敷地内から出てはいないはずです」
自分たちを探しにきた使用人の話し声が聞こえる。少し、面倒くさそうな雰囲気が感じられた。
「全く。こんなことして、あの新人の使用人…伊吹だったか?とんでもない事をしてくれたよな」
「そうだなぁ…でも、なんで逃げ出したんだ?」
「さぁ?俺は旦那様に逆らいたくないから従っているだけだし、知らないね」
どうやら、使用人達は何故私たちを探しているのかは分からないらしい。ただ、自分の主人の命令に従っているだけのようだ。
二人で息を殺し、使用人達が通り過ぎてくれるのを待った。
「あっち探してみるか」
「そうだな」
ざっざっ――
二つの足音と話し声は、少しずつ私たちから遠ざかっていく。
シン――と、夜の静けさが戻ってから、私と頼は同時に大きく息を吐いた。
「はぁ…危なかったわね」
「はい…ふぅ…あ、も、申し訳ございませんっ」
慌てて、私から離れる頼。さっきまで密着していた体が離れて、少し名残惜しく感じてしまう。
「いいのよ。それより、早くここを離れないと」
「そ、そうですね。隠れ家とは、どこにあるのですか?」
「こっちよ。案内するわ」
立ち上がり、軽くドレスの裾を払う。そして、今度は私が頼の手を握った。頼は、一瞬驚いたような表情を見せる。
「なに?今更でしょう?」
「そ、そうなのですが…本来は、使用人は主人に触れてはいけませんから」
「もうあれだけ触れたのに」
「そ、そうですけどっ」
いつも穏やかな頼が、今日は大胆になったり慌てたり、今まで見たことのない姿をたくさん見せてくれて慌ただしい。
だけど、私はそんなこと気にせずに手を握ぎり、歩き出す。
さっき走ったからか、胸が高鳴って体が熱くなったからか、手が温かい。いや、どっちの手の温度かも、分からなくなってきた。
「こっちよ」
周りを見渡しながら進むが、先ほど探しに来た使用人以外人は見当たらなかった。まだパーティーは開かれているだろうから、給仕の方に人員を割いているのだろう。わざわざ私たちの後を追わなくても、どうせ家出するわけでもないから、また明日にでも咎めればいいと思われて諦められているのか…
(まぁ、今逃げても結局この現実から逃げられるわけでもないのよね…)
ただの、その場しのぎでしかない。でも、壇上に上がって婚約発表?お父様の、あまりにも身勝手な考えに、お腹の底から怒りがわいてきた。
今まで、これと言って反抗してこなかったが、今夜、頼のおかげで初めて反抗することが出来た。
「頼、ありがとう」
「い、いえ…!私、使用人としてとんでもない事をしていまいました…」
「そんなことないわ。あの場から連れ出してくれて、ありがとう」
「桔梗お嬢様が…私の袖口を掴んでくださったとき、今が逃げ出す時だと思いましたので」
「ふふ…分かってくれてありがとう」
屋敷から漏れる僅かな光を頼りにしながら、目的の場所へと足を向ける。
肌寒い夜の空気が、走ったり緊張して火照った体を優しく包み込み、宥めてくれる。それが、とても心地よかった。
周りを警戒しながら向かったのは、屋敷の敷地内の一番端にある、小さな古い小屋。
「着いたわよ」
「ここは…?」
「庭師のおじいさんが昔使っていた小屋よ。私がまだ小さかった頃は、おじいさんはここに住んでいたんだけど、老朽化しておじいさんが住むには危ないからって、今では他の使用人と同じように宿舎に住むようになったの。だから、今は倉庫として使っているのよ」
「そうなのですね」
「まぁ、本当は私の隠れ家になるようにって適当な事を言って残してくれたの。だから、ここもたまに掃除してくれているから、まだ使えるのよ」
本当は、見栄えが悪いからと言ってお父様は取り壊そうとしたけれど、庭師のおじいさんが必死に取り繕ってくれてなんとかこのまま残してくれたのだ。
幼い頃、お父様に叱られてはのこ小屋に逃げ隠れていた事を知る、数少ない使用人だったから。
「怖そうな方ですが、桔梗お嬢様にはとてもお優しいのですね」
「そうね、頑固者だし顔も怖いけれど、植物が大好きで本当は優しいのよ」
いつも眉間にしわを寄せているし、頑固者で口数も少ないから勘違いされることが多い。だから、取り壊す話をした時も全く譲る気がなかった庭師に根負けして、お父様もあきらめたのだ。
小屋の扉の前に立つと、優しい木の香りがした。懐かしく、ひんやりとした優しい穏やかな香りが優しく迎えてくれる。この香りを嗅ぐと、とても安心して心地よい。
「誰も、付いてきていないわよね…?」
そっと後ろを振り返るが、人影も懐中電灯の光も見えない。講堂からも離れたから、あの賑やかだったパーティー会場の声も届かず夜の静寂だけが広がっていた。
(まるで、私と頼しかいないみたい)
ぎぃ・・・
軋む扉の音が、静まり返った空気に振動して遠くまで響いてしまいそうだった。
誰かに見つかるかも。そう思うと、急に怖くなって頼の手を引いて、急いで中に入った。
「き、桔梗お嬢様っ」
頼を押し込み、急いで扉を閉める。さっきの使用人達に音が届いていないか心配になり、扉に耳を当てるが、庭の芝生を踏みしめる音は聞こえなかった。
「はぁ…大丈夫みたいね」
「もう、みなさん諦めたのでしょうか」
「まぁ…屋敷の敷地内から出ないことくらい、分かっているでしょうから」
扉から離れ、真っ暗な室内を見渡す。たまに手入れをしているとは言え、肥料の置き場所としても使っているので、埃と土の匂いがする。そして、ちょっと湿っぽい。
(でも、嫌いじゃない…)
本当は明かりを付けたかったが、誰かに見つかってはここまで逃げてきた意味がない。私は、暖炉に近づき、月明かりを頼りに蝋燭を探す。
幸いにも、銀の燭台がキラキラと月明かりに照らされていたので、すぐに見つけることが出来た。燭台の隣には、マッチ箱もある。
「こういった物も、きちんと用意されているのですね」
頼はマッチ箱を手に取り、しゅっと擦ると手際よく蝋燭に火を灯してくれた。
ゆらゆらと揺れる炎は温かくてキレイで、気持ちを落ち着かせてくれた。
♢♢♢♢
(こんなこと、あっていいのでしょうか…)
勢いで逃げ出し、今は庭師の方が昔住まいとして使っていた古い小屋に身を潜めている。それも、桔梗お嬢様と二人きりで。
勢いでここに逃げ込んだとは言え、桔梗お嬢様と二人きりで密室に居る方が使用人としてあるまじき行為なのでは…と、今更ながら不安にかられた。
部屋の真ん中にあるテーブルの上に蝋燭を置き、不安と緊張を誤魔化すように小屋の中を見渡してみる。暖炉のほかには、小さなキッチンや二人掛けのソファー、ベットに本棚もある。それから、倉庫代わりにもしているのか、シャベルやバケツ、肥料の入った大きな袋もいくつか積まれていた。
木と土の香りに満たされた小屋は、どこか懐かしくて私たちを優しく迎え入れているように感じられた。
「おや、ギターも置いてあるのですか?」
シャベルと一緒に、アコースティックギターが並んでいるのが見えた。
「ああ、あれはね相葉の物なの」
「相葉さんの?」
「ええ。確か、亡くなったお父様の形見とか言っていたわ。本当は私室に置きたかったみたいだけど、狭くて置けないからここに置かせてもらっているんですって」
相葉さん。独特のミステリアスな雰囲気を纏った使用人。彼が道を作り、裏庭へ誘導してくれたから今こうして身を潜める事が出来ている。
いつもは取っつきにくいし、図書室にいらっしゃるので顔を合わせる事も言葉を交わすことも少ないので、あまり相葉さんの事を知らないが彼にも何やら悲しい過去があるみたいだ。
「そうなのですね…実は、私も親を亡くしていて…私の父も音楽が好きだったので、ギターも少し教わったんですよ」
「頼も、親を亡くしているの?」
「はい。桔梗お嬢様と同じですね」
どうやら、ここには親のいない人が集まってくるらしい。でも、もしかしたら若くして独り身になってしまった人たちの働き口として受け入れてくれているのかもしれない。
「私や、相葉だけではないのね」
「そのようですね。もしかしたら、だから私や相葉さんが桔梗お嬢様のお側でお仕えしているのかもしれません。寂しいというお気持ちが、誰よりも分かりますから」
ソファーにゆっくりと腰を落とす桔梗お嬢様。暗く湿っぽい空気の小屋にいるせいか、なんだかしんみりとしてしまった。
「あ、そうだ。頼、パーティー会場から連れ出してくれてありがとう。ここに着いたら気が抜けてすっかり言うのが遅くなってしまったわ」
「い、いえ!私こそ、急に引っ張ってしまって…どこかお怪我とかしていませんか?その靴で走っていては、靴擦れとか…」
「平気よ。でも、足が疲れたからちょっと靴を脱がせてもらうわね」
桔梗お嬢様は優しく微笑むと、パンプスを脱ぎ、軽く足をほぐす。靴擦れ等をされていなかっただけ、良かった。
「明日は、きっと旦那様にしかられてしまいますね。あと、大和執事にも…」
「頼は悪くないわ。最初にけしかけていたのは私なんだもの。それに、あのまま壇上に上げられて婚約発表なんて、絶対に嫌だもの。これで破棄できた…なんて思わないけれど…でも、少しでもお父様に伝わっていればいいわ」
「旦那様が言葉で聞き入れてくれるとはなかなか思えないですものね…行動で示すのが、一番分かりやすいのかもしれません」
いつだってそうだった。旦那様に勝手に決められてしまうことに対して、桔梗お嬢様はいつも頑張って反論していた。でも、旦那様の圧力に負けてしまい言葉も感情も押さえつけられて、桔梗お嬢様はたくさんの事を我慢されてきた。
そんな、鳥かごのようなこの環境から、少しでも逃げ出せるような――桔梗お嬢様が、心から楽しんでくれたり、穏やかに過ごせたりするような環境をお作りしてあげたい。
それが、桔梗お嬢様の側仕えの使用人として、出来る事。
(私にしか、出来ないことがあるはず)
ソファーに腰かけている桔梗お嬢様の元へ近づき、燕尾服の裾を後ろに跳ねさせるとその足元に跪いた。
「よ、頼?どうしたの?」
左手を後ろに、右手を胸に当てて真っすぐに桔梗お嬢様のお顔を見上げる。
「桔梗お嬢様。あなたは、私の全てです。今後、何があろうとも必ずあなたをお守り致します。誠心誠意尽くし、決して裏切らないと誓います。ですから、生涯あなたの傍にいさせてください」
その言葉に、大きな目を見開きながら、瞳が揺らぎ、驚きと戸惑いの色が浮かんだ。
言葉に詰まっているのか、口を少し開いたと思ったら、何も言わずにきゅっと結ぶ。それを数回繰り返したかと思うと、一つ息を吸ってなにやら覚悟を決めたように見えた。そして、ポケットから何かを取り出した。
取り出した小さなそれを私の手のひらに乗せ、見せる。
「これは…?」
「これはね、桔梗の花をモチーフにしたピンバッジよ。昔お母様から頂いたの。あなたが、本当に信頼出来ると思った使用人に渡しなさいって。このピンバッジは、私の、私だけの使用人であることの証なのよ。だから…これを、あなたに」
「よ、よろしいのですか?」
銀色の、桔梗の花のピンバッジ。桔梗お嬢様専属の使用人の証。今まで渡さなかったのは、まだどこか警戒していたからなのでしょう。でも、そんなことよりも、こうやってお許しをいただけた事が何よりも嬉しかった。
「渡すのが遅くなってごめんなさい。疑っていた訳じゃないのだけれど…どの使用人もお父様のいいなりでしょう?だから、そうじゃないって分かるきっかけがなかなかなくて。でも、今日あなたは私のためにこうやって連れ出してくれたわ。他の使用人には、なかなか出来ないことよ」
「そんな…私は、桔梗お嬢様のお気持ちを何よりも優先しておりますから」
「ふふ…ありがとう。いつかは渡さなくちゃ、って思っていたのよ…だから、今日試すことにしたの。このピンバッジを授けるのにふさわしいかどうか」
「試す?」
「そう。今日、私が逃げ出したいって話してから頼は否定せずに手伝ってくれたわね。それに、本当に一緒に逃げでくれたわ。だから、合格なの。でも、遅くなってしまってごめんなさい」
「そうだったのですね…」
桔梗お嬢様の育った環境では、きっとそう思うのも仕方がない事なのだろう。
裕福な家庭環境であるがゆえに、それを理由に近づいてくる学友の少なくない。それに、使用人たちは基本的に旦那様の指示を優先している。本当に、自分の味方になってくれる人が少ない環境にずっといたのだ。
(でも、こうして許してくれた。それだけで、私の心は満たされていくのです)
「伊吹頼。あなたを私の使用人として認めます。その証として、このピンバッジを授けます」
そう言うと、燕尾服の胸元にピンバッジを付けてくださる。月の光に反射して、輝くそれは今まで見てきた全ての物の一番輝いていた。嫌、桔梗お嬢様の瞳のように美しく光っている。
それが本当に嬉しくて、姿勢を正すと改めて誓いの言葉を結ぶ。
「私、伊吹頼は、出会ったあの日、あの瞬間から、桔梗お嬢様の忠実な使用人でございます。崖から落ちようとも、海に沈もうとも、天に昇ろうとも…どこまでもお供いたします。悲しみや、苦しみの感情は私にください。そして、穏やかな日々をお過ごし頂けるよう私は、生涯お仕えすることを誓います」
「ありがとう…私の忠実な使用人、頼。この先、何があっても私の傍を離れないでね」
私たちの誓いを見届けてくれる者はいない。知っているのは、私たち二人だけ。
でも、それだけで良かった。
桔梗お嬢様の側仕えとして認められた。この屋敷に来て数か月ほどしか経っていないが、この慌ただしい日々の中で今日のこの瞬間が一番幸福で喜びに満ちていた。
それだけは、はっきり覚えている。
桔梗お嬢様。私は、あなたの呼吸が止まるその日まで――
否。その先も、あなたの、あなただけの使用人です。