出会った日々
私がまだ幼かった頃、母は空へと昇ってしまった。
当時の私は、それはそれは酷く落ち込み暗く寂しい毎日を過ごしたものだ。部屋に閉じこもって学校にも行けず、5歳の誕生日に母から贈り物としてもらったうさぎのぬいぐるみを抱きしめながら毎日泣いて過ごしていた。
父はと言うと、悲しみを忘れるかのように仕事に没頭しており私の起きている時間に家に居ることは少なかった。その為、母が亡くなってから父との会話はめっきりと減ってしまった。
その数少ない記憶の中、覚えていることと言えば…
♢♢♢♢
「桔梗、今日からお前の身の回りの世話をする使用人だ」
「しようにん…?」
休日の昼間に珍しく自宅に居た父。私室に来るように言われ、大和と共に部屋に入るなり唐突に言われたのを覚えている。
父は、手元の資料に視線を落としたまま、私の方を見ない。その姿に、また少し寂しさを覚えた。
「は、初めまして…!桔梗お嬢様。伊吹頼と申します!」
紹介された人物に目を向けると、そこにはまだ幼さの残る顔立ちをした一人の少年が立っていた。緊張ししているのか、震える声で挨拶をされたのを今でも覚えている。それが、頼との出会いだった。
「先月入った瀬月くんと同年代だそうだ。使用人としてはまだまだ未熟だが、お前と歳が離れすぎていないし、元気が有り余った瀬月くんよりも落ち着いた伊吹くんの方がお前の面倒を見れるだろ。私は、今後も仕事で家を空ける。なにか頼みたい事があれば彼か、大和くんにでも言いなさい」
突然の出来事に、私は思考が追いつかなかった。その頃は母の死から数年あまりが過ぎていたが、母が大好きだった私はまだその暗い悲しみから抜け出せていなかった。
元々大人しい性格だったのに、度を増して口数が減り、友人と交流も減っていた。その為の学校も休みがちになっていた。
そんな中、新人の使用人を傍仕えにするなんて。父はいったい何を考えているのか。私は、その状況を上手く呑み込めずにいた。
「専属の使用人がいたほうが、お前も何かと楽だろう。では、私は仕事に戻るから後は任せたぞ」
久しぶりに姿を見れたのに、目を合わせずに要件だけを述べる父。母が生きていた頃は、私の目を、顔をしっかりと見て頭を撫でてくれたのに…もう、顔をまともに見ることすらしなくなってしまった。
父が今見ている紙の資料のように、乾ききった関係になってしまった。
「わ、わたし…専属の使用人なんていらないわ」
私は父に反抗するように、そう言った。
「お前はまだ子供だ。面倒を見てくれる相手が必要だろう」
「大和がいるわ。それに、私はもう一人でなんでも出来るわ!」
「大和くんは私の仕事の管理もしてもらっている。それに、織宮家の人間として、側仕えの使用人も居ないだなんて体裁が悪い。閉じこもりがちなお前の世話を付きっ切りでしてもらうには、専属の使用人が必要だ。話は以上。後は任せたぞ、伊吹くん」
「は、はい!旦那様!」
父の冷たい言葉に、頼は震えを止めてピシッと背筋を伸ばした。
「大和」
「はい、旦那様」
父は資料をカバンに詰めると、大和に渡して素早く部屋を出て行ってしまった。大和は、そんな父の後を追い、部屋を出ていく。
(顔、見てくれなかったな…)
重たい空気の中、頼と二人きりになる。
お互いにかける言葉が見つからず、さっきの緊張と気まずさで口の中は水分を失いパサパサだ。
そんな重たい空気を優しく揺らすように、頼が口を開いた。
「き、桔梗お嬢様…いきなりの事で驚かれたかと思いますが…誠心誠意お仕えいたします。私のことは頼、と気軽に呼んでください」
「……」
「えっと、頼、とは頼りになる、の頼です。私の亡き父が付けてくださいました」
「…お父様、亡くなっているの…?」
私は絨毯を見つめていた顔を上げ、初めて頼の顔に視線を向けた。やっと視線が合った彼の眼たれ目ぎみの瞳は、どこさ寂しそうに見えた。
「父だけでなく、母もです。私が幼い頃に事故で…」
「そう…」
その言葉を聞き、私は少し親近感を覚えた。幼い頃に両親を亡くした頼と、母を亡くした私。だからこそ、父は母を亡くした私の気持ちが分かると思って、わざわざ頼を専属の使用人にしたのかもしれない。
そう思うと、いきなり専属の使用人を付けれたからと言って拗ねていた自分が恥ずかしくなってきた。
事情を考えずに、一時の感情で拗ねてしまうだなんて、織宮家の令嬢として恥ずかしい。
「ねぇ、お屋敷の中を案内してあげるわ」
「よ、よろしいのですか!?」
来たばかりだという頼を押し付けて、父も大和も居なくなってしまったのだ。ここは私がなんとかするしかない。
「お屋敷の中を知らないとなにも出来ないでしょう?」
「ありがとうございます。とても嬉しいです!」
頼は、胸に手を当てて深々とお辞儀をする。先ほどまで緊張していた顔も、少しだけ和らいだようにも見えた。
「お父様が決めてしまったのだから、しかたないもの」
父も頑固な性格だし、ここで使用人になることを勝手に断ったら、身寄りのない頼はどうなってしまうのか…それもあって、この頃の私はまだ完全に受け入れてはいなかったが無理矢理自分を納得させた。
そして、二人で書斎を出て向かったのは…
♢♢♢♢
「今の時間なら、庭に誰かいるはずよ」
頼を先導しながら、まずは庭へと向かう。頼は、この広く数々の絵画や調度品が並ぶ屋敷の内装が珍しいのか、ずっとキョロキョロとしていて落ち着きがなさそうだ。
「とても広いお屋敷なのですね…私…なれるまでに時間がかかってしまいそうです」
「そうね…なれるまでは迷ってしまうかも。そう言えば、頼はいくつなの?」
まだ幼さが残る顔立ちの頼。きっとそこまで歳は離れていないはず。
「はい、今17でございます。そう少しで18です。桔梗お嬢様とは…6つほど離れているとお伺いしております」
「…じゃあ、直也と同い年ね」
「なおや…私と同年代の方もいらっしゃるのですね。なんだか安心しました」
ほっとした表情を見せる頼。使用人と言えば、大和のように年配の男性を思い浮かべるだろう。だけど、自分と同い年の使用人も居ると知って少し安心してくれたらしい。
「直也は、このおやしきで一番にぎやかなの。直也もここにきてまだ一か月くらいだし、仲良くなれるんじゃないかしら」
元気だけが取り柄の直也と真逆の性格の頼だが…いい化学反応になってくれればいいのだけれど。
「直也もまだ見習いだから、今屋敷の事を一通り教わっているところなの。頼は側仕えだから、みんなと少し違うかもしれないけれど…」
「そうなんですね。先ほどの大和執事が私の指導者となるのでしょうか」
「そうね。そうなるかもしれないわ」
大和執事は、長くこの屋敷に努めているし、父の仕事の管理もしてくれている。主人の身の回りの世話をする使用人としての教育なら、たぶん彼に教わることになるだろう。
他愛もない話をしているうちに、表の庭へとたどり着く。たくさんの木々や花、噴水まである洋風の庭は、庭師のおじいさんが丁寧に管理をしてくれている。たくさんの植物が植えられた庭は、毎日庭師が手入れをしている。形もキレイに整えられ、季節に合わせて色んな種類の花も植えてくれる。
「直也はこの時間に庭の手入れを教わっている頃だと思うんだけど…」
休日の午前中は、庭にいるはず。そう思い、屋敷内の案内をかねてまずは庭に足を向けてみた。
緑が生い茂る広い庭を見渡していると、少し離れたところから何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「なにかしら」
「なんだか、怒鳴られているように聞こえますね…」
もしかしたら、お調子者の直也がなにかやってしまったのかもしれない。少し心配になるが、騒がしい声のおかげで探し回る手間ははぶけたみたいだ。
頼と二人で声のする方へと向かうと、なにやら怒っている庭師のおじいさんと項垂れている直也の姿が見えた。
「どうかしたの?」
「お、お嬢様!」
「お嬢さん!」
私の姿を見るや否や、顔を引きつらせる庭師と、キラキラと顔を輝かせる直也。正反対の二人の表情が、なんだかおかしく見えた。
「あぁ、お嬢さん!とんだお見苦しいところを…わざわざこんなことろにお出でなさって、どうされたんです?」
「声が聞こえたから…」
「あぁ、そうでやしたか…いやはや、実はこの野郎がこの花壇の花に、除草剤を巻きやがりましてね…」
「えぇ…?」
いったい何をどうすれば花壇に除草剤を撒いてしまうのだろう…思わず間抜けな声が出てしまった。
「いや、その…その機械がまさか除草剤だなんて知らなくて…俺はてっきり花に栄養をあげるもんだと…」
頭をガシガシとかき、唇を尖らせながらバツが悪そうにつぶやく直也。花の為にと思ってやったことが、まさか花を殺す事になっていただなんて思いもよらなかったのだろう。ここに来てまだ一か月ほどだが、涙目になっている姿は初めて見た。
「まぁ、やってしまった事は仕方がないわね…」
「へぇ…本当に申し訳ございません…て、お嬢様。そいつは?」
除草剤をかけられた花と同じように項垂れていた直也がやっと顔を上げる。すると、私の後ろに立っていた頼に気づいたのか今度は目をまん丸にして頼を見る。
「紹介するわ。伊吹頼、今日から入った使用人よ」
「は、初めまして!伊吹頼です。よろしくお願いいたします…!」
「瀬月直也だ。よろしくな!俺が先に入ったから、俺の方が先輩だな」
さっきまでの落ち込みようはどこへやら。後輩が出来たことが嬉しいのか、鼻を鳴らすように挨拶をし、手を差し出す。
「わしは庭師の…」
「お前、としいくつ?」
おじいさんが言葉をはさむ隙も与えずに、頼のてを握りぶんぶんと激しい握手をする直也。あまりの勢いに、頼はかなり戸惑っている様子で「あ、あの…」と情けない声が漏れている。
「まだ17ですが、もうすぐ、じゅ、じゅうはち…です!」
「へぇ、歳も同じなんだ」
「は、はい…!」
やっと握っていた手を離し、今度は舐めるように頼を上から下まで観察する直也。この二人…やっていけるのだろうか、と心配になってきた。…うん。あまりいい化学反応はおきないかもしれない。
「頼は私の身の回りの世話をする専任だから、直也が関わる事はあまりないかもしれないわ。今は屋敷の案内ついでに、挨拶に来ただけ……」
「な、なんですってぃ!?」
私が言い切る前に、屋敷のほうまで聞こえそうなくらい大声で驚く直也。項垂れたり、喜んだり、驚いたり、本当に落ち着きがない。
「まだここに来たばかりだってのに、なんでまた!?」
「お父様がその為に雇ったのだもの」
「旦那様が…」
花壇の花のようにまたがっくりと項垂れる直也。感情が忙しすぎて、着いていけない。
「それじゃあ、私は頼に屋敷の中を案内して回らないといけないから。その花壇、お父様に見つかる前に何とかしてね」
「へい!ほら、お前がやるんだよ!」
「お、お嬢様~!」
おじいさんに首根っこを掴まれながら、どこかに引きずられていく直也。当面は、庭の手入れから離れられないだろう。
「ずいぶんと、賑やかな方でしたね」
ホッと息を洩らす頼。初日からあんな慌ただしい同僚と遭遇しては、今後が心配にならないだろうか。まずは、もう少し落ち着いた使用人と会わせるべきだったかもしれない。
「初日からあの感じだったわ」
「さ、さようでございますか…」
「次、いきましょう」
♢♢♢♢
次に桔梗お嬢様が案内してくれたのは、図書室だった。
ここに来る途中にもいくつか部屋があったが、客室や応接間、ビリヤード台が置いてあったり様々なボードゲームが出来る遊び部屋があったりして、その部屋数の多さと屋敷の広さに頭がついていかない。必死にメモをしていたが、ぐちゃぐちゃになってしまいもう分からない。屋敷内の案内図がほしいくらいだ。
あまりの広さに頭の中もぐちゃぐちゃになっていると、今までの部屋とは雰囲気の違う扉の前で桔梗お嬢様が立ち止まった。
「ここが図書室よ。今いるかしら」
重たそうな、分厚い扉を開くと、本特有の香りがいっきに押し寄せ、学校の図書室くらいはありそうな広さの部屋があらわれる。天井も高く壁一面の本棚にびっしりと本が収まっていて、部屋の中央にも、学校の図書室顔負けな数の本棚が並んでいた。
「こ、これはまた広いですね…いったい何冊あるのでしょうか」
「さぁ、数えたことないから分からないわね。ひぃお婆様の代からずっと集めているらいから」
そうなると、一世紀近くは集めているのだろう。良くみてみれば、外国語の本も並んでいる。しかし、ごった返して並んでいるというわけでもなく、棚の側面に種別の名称が書かれたプレートが付いており、きちんと種類別に管理されているらしい。しかも、埃っぽくなく几帳面に清掃も行き届いている。これはもう、私立図書館並みの管理の仕方だ。
「昴ー?」
(物語は著者順に並べているのか…あとは、料理の本に、社会学や心理学に、外国語の童話と…すごいですね)
立派な図書室に圧倒されていると、お嬢様はこの本の森の中で誰かの名前を呼んだ。ここを管理している使用人だろうか。この量を管理するなら、いったい何人の司書が必要なんだろう。
「お嬢、ここです」
「わっ」
すっと本棚の影から現れたのは、長い前髪で片目を隠し長い襟足を一つに縛った、燕尾服に身を包んだ若い青年だった。その手には、なにやら分厚く毒々しい表紙の本を手にしていた。
(いったい、何の本なのかな…)
「そんなところに居たのね。紹介するわ。今日から入った使用人よ」
「伊吹頼です。桔梗お嬢様の身の回りの世話をするよう仰せつかっております。よろしくお願いいたします!」
「……相葉昴だ」
さっき会った瀬月さんとは一風変わった、かなり無口な方らしい。これはこれで、どう仲良くなればいいのか分からない。
片目しか見えないが、三白眼の鋭い眼光につい息を飲んでしまった。
「昴はここに16歳の頃からいるのよ。もう…3年は勤めているかしら」
「16?」
そんな年齢からここにいるだなんて。何か理由でもあるのだろうか。それよりも、手に持っている本がどうしても気になる。
「あの、その本は一体…」
「これか?あー、色んな術が書いてある本だ…です」
「術…?呪い、とかでしょうか」
そう言うと、分厚い本のページをぱらぱらとめくりながら相葉さんは少し沈黙する。この独特の間が、どうにもむずむずする。
相葉さんは、ぱらぱらと捲っていた手を止めると、ゆっくりと口を開く。
「そうだな…嫌いな奴を呪ったり、ちょっと不幸な目に遭わせてやったり…反対に、いい事が起こるようなやつも…あー、後は死者を生き返らせたり、なんてな」
死者を生き返らせる。ファンタジー物でよく聞く単語だ。でも、そういった類はだいたい禁忌の黒魔術。だけど、重たい独特の雰囲気を纏った相葉さんなら、魔術が使えると言われても信じてしまうかもしれない。
「へぇ、それはすごいわ。それなら、テストでいい点数が取れるようなおまじないでも載ってないかしら」
桔梗お嬢様は、相葉さんが持っている本に興味津々のご様子だ。僕は…正直ちょっと怖い。
「まったくお嬢は…それは、願掛け程度にしかならねー…です。魔術だと言っても、呪いと言うより願い、みてーなもんだ…ですから」
呪いではなく、願い。確かに、お嬢様が言うようなテストの点数が良くなるように、と言う思いも、嫌いな人が不幸な目に遭えばいい、自分にいい事が起きればいい、そう言う思いは或る意味呪いではなく願いだ。そう思えば、少しは怖くなくなる。
「それもそうね。点数が良くなるような術を勉強している時間があるのなら、普通に勉強した方が有意義だわ」
「そんなもんです、結局は」
つまり、普通の魔術でも黒魔術でも、あまり効果もなければ時間の無駄で、面白い読み物程度に思っていた方がいいということだろうか。
どこかとっつきにくそうが雰囲気を纏っていたし、黒魔術の本を持っていたから怖い印象を受けたが、中身は案外まともなのかもしれない。
「今日は顔合わせをさせる為に連れてきただけだから、またなにかお勧めの本があったら教えてね」
「はい」
それじゃあ、と言って桔梗お嬢様は図書室を後にする。何となく後ろを振り返ると、相葉さんは桔梗お嬢様が図書室を出て扉が完全に閉まるまでお手本のようなキレイな姿勢でお辞儀をしていた。
(口調はぶっきらぼうでしたが、16歳から3年も使用人をしているだけありますね…)
♢♢♢♢
その後も、屋敷を一通り案内していただき、その途中に厨房へも顔を出した。
そこには、筋肉自慢の宝崎奏斗さんと言う体の大きな使用人が、その見た目に反して宝石のように輝くフルーツタルトを作っていた。桔梗お嬢様はそれを一切れもらおうとしたが、昼食前だと言われ断られてしまっていた。
どうせティータイムにいただくのだから、今食べてもかわらないのに。と桔梗お嬢様は愚痴をこぼしていたが、聞き入れてはもらえなかったみたいだ。
「屋敷の中はどうだった?」
最後に桔梗お嬢様の私室へ案内され、ソファーに座り一息つきながらそう尋ねる。どう答えようか逡巡したが、素直な感想を伝えた方がいいだろう。
「そうですね…個性豊かな方が多いようですね…お屋敷もお庭も広くてとても立派ですし、早く色々な仕事が出来るように覚えて、誠心誠意頑張りたいと思います!」
「そう」桔梗お嬢様は、一言つぶやくと黙ってしまった。やはり、いきなり側仕えの使用人を付けられたことに納得がいっていないように見えた。まぁ、四六時中人に見はられているようなものだから、仕方がないのかもしれない…
「えっと、私もう少ししたら車の免許を取りますので、学校への送迎へもいたしますね!今は、どなたが送迎してくださっているのでしょうか?」
何か話題を振らなければ、そう思い、適当な話題を振る。
「今は相葉よ。私も学校には行ったり行かなかったりだけど…」
相葉さん。先ほど図書室で会った使用人。何やら訳ありな雰囲気を纏った怪しげな方…もしかしたら、自分がここに雇われなければ、彼が専属の使用人だったのではないだろうか。
「学校は…あまりお好きではないのですか?」
「……」
あまり触れない方が良かっただろうか。つい聞いてしまったが、まだ顔を合わせてほんの数時間。込み入った事情は言いたくないだろうか…
「申し訳ございません…あまり、仰りたくないですよね…」
桔梗お嬢様は、長いまつげをふせたあと、ゆっくりと口を開いた。
「あなたも織宮家の一員になったのだから、いつかは関わるかもしれないわね」
「関わる…?」
「我が家は見ての通り裕福な家庭だから、嫉む人も多いの。嫌がらせをしたり、逆にわざとらしくすり寄ってきたり。だから、偽りだらけの学校のクラスメイトと関わりたくないだけよ」
「そ、そうなのですね…」
富豪の家柄に生まれた一人娘ならではの悩みなのだろう。自分には想像出来ないが、まだ幼い桔梗お嬢様にとっては辛い出来事がたくさんあるのかもしれない。
一瞬悲しそうに見えたが、瞬きをした時にはすまし顔に戻っていた。自分の立場を受け入れているからか、それとも諦めているからか…だが、そんなお嬢様の事を思うと何故だか胸がざわついた。そのざわつきを潰すように、自分の胸をぽんと叩く。
「分かりました…では、何かあればこの私がすぐにお守り致します!もし、桔梗お嬢様に嫌がらせをする方がいらっしゃれば、私が成敗いたします。言い寄ってくる人がいれば、私が桔梗お嬢様にふさわしい相手なのか見定めます!」
「え……?」
胸を叩いたせいか、自分でも驚くような言葉が飛び出した。
「えっと、その…私は桔梗お嬢様の身の回りの世話をする事を仰せつかりましたから、快適な、穏やかな日常を送っていただきたいので…なので、その平穏を脅かす存在は、ですね…」
勢いに任せたものの、その後の言葉が続かずにじどろもどろしてしまう。これは、かなりかっこ悪い…
「ふ、ふふふ…」
「き、桔梗お嬢様…?」
なんとなく感情の読めなかった瞳が、三日月のように細められ上品に笑う桔梗お嬢様。
(やっと、感情が見えた)
「それは頼もしいわね。それじゃあ、私から目を離さないでね?」
「も、もちろんです!」
この時、自分はまだ桔梗お嬢様の抱えている闇に気づくことが出来ていなかった。
♢♢♢♢
今日も、変わらない日常だった。春先の優しい気候。色とりどりに咲き乱れる花。穏やかな表情を浮かべるお嬢様。
日記の一ページに、穏やかな日常が綴られる。ただ、それだけ。
両親を失ってからはモノクロで、冷たい日常を送っていた。だけど、このお屋敷に来てから、お嬢様と出会ってから、少しずつ色や温度を取り戻すことが出来た。
この日常だけは、絶対に失いたくない。
お嬢様。貴女は、僕と出会ってからの日々を覚えていますか?