穏やかな日々
毎晩のように、海の夢をみる。
冷たい海の底に沈んでいく夢。
身体中が冷たくて、重たくて、動かなくて。頭の先から指先まで、まるで氷像になってしまったかのようで。
だけど…
何故だか体や呼吸よりも、心が苦しくて重たい。
胸の中のなまりが、私を海底へと導いているようにずんと沈んでいく。
暗くて、冷たくて、孤独…
(このまま…死ぬのかな…)
(――――――!!)
薄れゆく意識の中、誰かの声が聞こえたきがした。
海の中なのだから、聞こえるはずもないのに。
でも、その声は確かに私を呼んでいる。
(誰…?でも、呼ばれても無理よ…)
うっすらと瞼を持ち上げるが、周りを見渡す気も起きないほどに、体に力が入らない。
声の主が分からぬまま、ゆっくりと目を閉じようとした時・・・
視界に、かすかに揺れる黒い影が見えた。
それは、幼い頃から見慣れた…ひらひらとした…黒い尻尾のような…
(あれは…)
見慣れたそれに、手を伸ばすが、冷え切った手に感覚は無い。その為、手を伸ばせているのかも分からない。
届きそうで届かない手。私は、そのまま錘のような心を抱えながら、深く、深く、沈んでいくーーー
1 ・穏やかな日常
朝目覚めると、全身が汗でびっしょりと濡れている。長いこげ茶色の髪が縄のように首に纏わりついて鬱陶しい。
寝ぼけた重たい身体を起こし、髪を払った。ふと自分の手のひらを見ると、手も汗ばんでおり気持ちが悪い。私は手のひらを反対の肩に押し付け、不快感ごと拭った。
コンコンッ
「…はい」
ぼんやりする頭に、扉をノックする音が響いた。私は、寝起きの掠れた声を絞り出すように返事を返す。
「おはようございます、桔梗お嬢様。伊吹でございます。起きていらっしゃいますか?」
ドアの向こうから、聞きなれた優しい声がする。声の主は、私の側仕えの使用人だ。優しくて心配性。だが、たまに変に拘りの強いところも見せる、私が一番信頼している使用人だ。
心配性の彼の声は、私の返事に力が無かったからか、どこか不安そうな色が感じ取れる。
「入りますね。失礼致します」
中の様子を伺うように、扉がゆっくりと控えめに開く。その隙間から『伊吹』と名乗った、真っ黒な燕尾服に身を包んだ青年が顔を覗かせた。
少し垂れ目で、ショートヘアーを綺麗に整えた、穏やかな顔立ちをした二十代半ばの使用人だ。
「…おはよう、頼」
「おはようございます。…桔梗お嬢様、お顔のお色が優れませんね。どうかされましたか?」
「うん…また、変な夢をみたから…」
額の汗を、手のひらで拭いながら答える。べったりと張り付いた前髪が鬱陶しい。
「また、ですか…?」
部屋に入り、俯く私の顔を覗き込む頼。汗ばんだ寝起きの顔を見られたくなくて、つい顔を逸らしてしまう。一瞬だけ合った瞳は、心配そうにこちらを見つめていた。
「うん…」
夢を見ている最中は、あんなにはっきりとしているのに、起きるとぼんやりとしか覚えていない。ただ、不快感と苦しさだけが残っている。
「同じ夢を何度も見るって、変よね」
「そんなことないですよ?私も、同じような夢を繰り返し見たことがございます」
「例えば?」
「そうですね…」
頼は、ベットから離れると窓の方へ行き、淡いピンク色のカーテンを開けた。今日はよく晴れており、キレイな青空が見える。
「桔梗お嬢様と、お茶をする夢です」
「お茶?」
「はい。使用人がお嬢様と一緒にお茶など、あってはならない事なのですが…何度かそのような夢を見ました」
カーテンを開け、振り向く頼。申し訳なさそうな、嬉しそうな。どちらとも取れるように、眉尻を下げながら微笑む。
「別に、夢なんだからいいじゃない。それに、私はお父様と違って、使用人と一緒にお茶をしない。なんて事は言わないって言っているのに」
私のお父様は厳しい人で、主従関係をきっちり分けるタイプの人間だ。もちろん、それは悪くないのだがこの二十一世紀にそんな考え古くない?とも思う。
「ふふ…桔梗お嬢様はお優しいですね。旦那様に知られたら、叱られてしまいそうです」
「人の夢にまでケチつけるなんて、失礼よ」
夢くらい、自由に見させてほしい。
私がそう言うと、頼は柔らかく笑う。
その微笑みに、さっきまでの不快感は和らいでいた。
頼が窓を開けると、爽やかな朝の空気が部屋の中に流れ込んでくる。気持ちの良い風を浴びて、じっとりと汗で濡れた顔も、ほんの少しだけマシになった。
「桔梗お嬢様。本日も、良い天気でございますね。本日は何を致しましょうか」
「そうね…庭で読書をしてもいいし…そうね。あなたの歌が聞きたいわ」
頼は、ギターと歌が得意な使用人。何でも、亡くなったお父様が得意だったらしくて、遺してくれたギターを大切に持っているのだとか。
「ふふ。かしこまりました。では、桔梗お嬢様のお勉強が終わりましたら、お聞かせ致しましょうね」
「う…」
嫌いな勉強と言う単語に、思わず顰めっ面をしてしまう。一方で頼は、そんな私の表情が面白いのか、イタズラな笑みを浮かべてた。
「はぁ…それより、シャワーを浴びたいわ」
「そうですね。寝汗をとてもかいていらっしゃるようですし、すぐに支度いたします」
「うん。お願いね」
シャワーを浴びれば、少しはこの不快感も和らぐかもしれない。
浴室へと向かう頼の後ろを歩く。頼が歩くたびに、ひらひらと燕尾服の裾が軽やかに踊る。それがなんだか好きで、ついじっと見てしまう。
これが、いつもと変わらない私の穏やかな日常の始まり…
シャワーを浴び、支度を済ませ食堂に向かうと、香ばしいクロワッサンの香りが漂っていた。
「おはようございます、お嬢様!」
「おはよう、シン」
朝食の乗ったワゴンを押しながら、元気いっぱいに挨拶をしてきたのは、御友シン。使用人の中では一番若手で、元気がいい。ふわふわの髪が特徴的で、小柄な事もありトイプードルに似ている。
「お嬢様、今日の朝食は焼きたてのクロワッサンに、コーンポタージュ、生野菜のサラダ、それにハムエッグですよぉ!どれも出来立てで、とぉってもオイシそうですねっ」
朝食の説明をし、ニッと、チャームポイントの八重歯を見せ笑う。いつでも無邪気なシンを見ていると、こちらまでつられて笑顔になれる。
「今日も美味しそうね。ありがとう」
「お嬢様、椅子をお引き致します」
すっと、音もなく私の背後に周り椅子を引くのは、私の世話役で一番偉い使用人。大和弘明だ。
モノクル眼鏡をかけ、執事だけが着用を許されるモーニングコートときっちりと結ばれたネクタイがいかにも”執事”と言った風貌だ。
そしてその胸には、私の名前でもある桔梗の花をモチーフににした銀のピンバッジをつけている。これは、執事長の大和と私の身の回りの世話をする使用人の六人にのみ与えられた特別な物だ。
「お嬢。今朝の紅茶は…フォートナムアンドメイソンの…あー、ダージリン?最近目覚めが悪そうだから、少し濃いめに淹れておいた…おきました」
「ありがとう。昴」
少しぶっきらぼうなしゃべり方をする彼は、相葉昴。使用人としては、頼やシンよりもやや歴が長いが、歳は一つ下。でも、いまだに立ち居振る舞いは少々ぎこちない。長い襟足をうなじの辺りで一つに結び、顔の片方を覆うほどの長い前髪が少々うっとおしそうな青年だ。
「おいおい!昴は相変わらず暗いなぁ!せっかくの俺が入れた紅茶がまずくなっちまうだろうが!」
「うるせぇよ…奏斗」
奏斗と呼ばれた使用人は、この場にいる誰よりもおおらかな性格でとにかく声の大きい青年だ。名前は、宝崎奏斗。おおらかな性格の為、不器用に思われてしまいがちなのだが、意外と繊細で紅茶が淹れるのが得意。さらには、スイーツ作りが得意でよくキッチン仕事をよく任されているのだ。
しかし、やや短気なところがあり、よく昴とこうして喧嘩になるのだ。体格も性格も真逆の二人。頭ひとつ分くらいは背の低い昴が、ギロリとを睨みつける。
「二人とも!お嬢様の前ですよ。落ち着きなさい」
大和の一言で、言い争っていた昴と奏斗はピタリと止まった。
そして、ふいっとお互いそっぽを向いて壁際に、少し離れて並ぶ。
「全く…あの二人はいつも騒がしいですね」
「賑やかでいいじゃない」
テーブルに食事を並べる頼が、耳元でぼそりと呟く。
「ふふ…桔梗お嬢様がそうおしゃるのであれば、なによりです」
頼は柔らかく微笑むと、軽く会釈をし、二人と同じように壁際に控える。
穏やかで、賑やかな、いつもと変わらない朝だった。
◇◇◇◇
目覚ましが鳴る数分前に目を覚ます。
使用人は、まだ夜が明け切れてもいない内に起床するのが基本だ。主人よりも後に眠り、主人よりも先に起きる。それが、使用人だ。
まだ布団に包まっていたい気持ちを抑えながら、身体を起こす。
「うぅ…寒い…」
今は三月と言うこともあり、朝はまだ肌寒い。
布団から出ると、部屋の冷えた空気に全身がさらされ、寝ぼけた体に染み渡る。
さっきまで温かい布団の中にいたから、つい身震いをしてしまう。
りりりりり…
身体を震わせるのと同時に、目覚ましのベルも震えた。
織宮家に努める事になった際に、旦那様にもらった目覚まし時計だ。『これから使用人として娘に仕えるのだから、時間はきっちりと守ること』そう言って頂いた大切なものだ。
努めてから七年も経った為、少々古くなってきた。そんな、大切な目覚まし時計をいつのもように慣れた手つきで止める。
時刻は、早朝の五時半を指していた。
(桔梗お嬢様はまだ、夢の中でしょうか…)
使用人の朝は、とても早い。主人が起きてくる前に支度を済ませ、一日のスケジュール確認をし、それぞれが持ち場につく。
朝食を作る者、食堂の掃除をする者、花壇の手入れをする者…
自分、伊吹頼は、この屋敷の主、織宮桔梗お嬢様の側仕え。使用人の中でも、特別な役目を仰せつかっている。その為、他の使用人よりもほんの少し早起きをしなくてはならない。
だがそんな眠気よりも、今日もこの世で最も大切な主人の傍にいられる。それが、自分にとってどれほど幸せなことか…その幸福感が得られるのなら、早起きなんてなどうってことないのだ。
自分たちが今いる屋敷は、織宮家が所有している別荘の一つで、都会からも、この土地の住宅街からも離れた海が見える丘の上に在る。
お仕えしている桔梗お嬢様は現在高校2年生。この春から三年生へと進級なされるのだが、先日春休みに入ったこともあり、長期休暇を利用してこの別荘へと訪れている。
織宮家は、桔梗お嬢様のお爺様がホテル事業で財を成し、不動産業にも手を伸ばしているかなりの富裕層だ。その為、別荘もいくつか所有しているし、本邸はとても豪華なお屋敷で、かかえる使用人の数も数えきれないほど。
本邸では、主の住まう屋敷と使用人宿舎は分かれているが、ここは一つ屋根の下で、主人も従者も寝起きをする。
しかし、フロアは分かれている。二階建ての建物の地下が、使用人の住まうフロアになっているのだ。各自の部屋も風呂場や洗面台、トイレ、キッチンまで備え付けられた、まるで地下の宿舎のような作りだ。
主人と同じ場を使うなど、もっての外。まるで、切り離されたような空間が地下に広がっている。
自室から出ると、共用の洗面台に向かい顔を洗う。
いつもなら、桔梗お嬢様の側仕えの自分しかいない時間なのだが、今日はどうやら先客がいるらしい。
「ふんふふふん」
洗面所に近づくと、何やら鼻歌が聞こえる。早朝だと言うのに、ずいぶんご機嫌な使用人がいるようだ。朝から鼻歌を歌う使用人は、一人しか思いつかない。そっと中を覗くと、大柄な背中が見えた。
(やっぱり。宝埼さんだ)
鼻歌の主は、宝埼奏斗身長は190センチ以上もあり、筋肉質でかなり体格がいい。しかし、その見た目とは裏腹に、スイーツ作りや料理が得意で、キッチンを任されることが多い使用人だ。
作るスイーツも、繊細で可愛らしい物が多く、桔梗お嬢様は毎回「かわいい」と言って喜んでくださる。
「おはようございます。宝崎さん」
「おお!オッス、伊吹」
髪の毛を櫛でオールバックにセットしていた宝崎さんは、手を止めてこちらを振り向いた。
「ずいぶんと早いんですね」
「ああ。朝食の用意があるからな」
「そうでしたね。こちらのお屋敷にいる間は、基本的には宝崎さんが担当でしたね」
伊吹、瀬月、宝崎、御友、大和、相葉。六人の中では宝崎さんが一番料理が得意なので、三食だけでなく、おやつ作りも担当する。
顔を洗うために、宝崎さんの隣に並ぶ。朝、洗面所が混まないように二つ用意された洗面台。宝崎さんの隣に並び、ふと鏡を見る…
(身長差が、すごいですね)
特別背の高くない自分の身長と比べると、頭一つ半程の差があった。さらには、筋肉質と言うわけでもなく、やせ型の体質の為、なんだか貧相に見えてしまう。
(宝崎さんほどの筋肉があれば、桔梗お嬢様をお守りする際に困らないのでしょうね)
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもございません。まだ…少々寝ぼけているようです」
体格の良さを羨ましく思うが、お嬢様のお好みだろうか、とも考えてしまう。大柄な男性が苦手だったら、きっと側仕えにしてもらえないだろう。もしかしたら、自分のような華奢な男性が好みかもしれない。などと、自分の都合のいいように考えを変える。
(でも…いざという時に、非力な自分に出来ることは、殆どないのも事実で…)
消せないネガティブな考え。その考えを洗い流したくて、冷たい水で勢いよく顔を洗った。
身支度を整え、使用人の食堂へ向かう。すると、そこには大和執事がすでに居て、今日のスケジュールを確認していた。
「おはようございます。大和執事」
「おはようございまっす。大和執事」
「おはようございます。伊吹くん、宝崎くん」
早起きなのは自分と宝崎さんだけかと思いきや、さすがハウススチュワード。すでに完璧な身だしなみでそこにいた。
「春休みですが、お二人もきちんと起きてこられましたね。桔梗お嬢様に合わせて、寝坊するのではないかと思っていましたよ」
「主人の規則正しい生活を管理するのも、我々の役目ですから。例え春休みでも、桔梗お嬢様にもいつも通りの時間に起きてもらいますよ」
「立派な心掛けです」
本当は「春休みくらい、ほんの数時間寝坊させてよ」と、言われていたが、そこはなんとか言いくるめていつも通りに起きてもらうように交渉済みだ。その代わり、眠たくなったらお昼寝をさせたり、桔梗お嬢様からご要望を頂けば、すぐにでも得意な歌とギターをお聞かせする。と言った条件付きだが…
「では、早速ですが本日のスケジュールですが…」
大和執事が一日のスケジュールを読み上げ終わると、宝崎さんはキッチンへ。自分は、桔梗お嬢様の私室へと向かう。
地下から、お部屋のある二階へ登る途中で、昨夜見た夢を思い返していた。
それは、本邸の庭で行われた小さなお茶会の夢だった。
夢の中の桔梗お嬢様は、今よりも幼くおそらく10歳ほど。出会って間もない頃のお姿だった。その頃は自分はまだ新米で、桔梗お嬢様のお世話をすることも、話しかけることも許されてはいなかった。
芝生の上にレジャーシートを敷き、パティシエが作ったクッキーを頬張る桔梗お嬢様。その姿が小動物のように愛らしくて、そして可憐で。つい目じりが下がってしまったのを覚えている。今と同じくらいの季節…いや、もう少し温かくなった頃だろうか。心地よい春の日差しと、柔らかな風が気持ちの良い、とても穏やかなティータイムだった。
自分は同期の瀬月と少し離れたところに並び、その様子を眺めていた。いつか、自分も桔梗お嬢様にお給仕できる日を幾度となく想像したあの日。
懐かしい、穏やかな日々だった…
◇◇◇◇
朝食を済ませ、少しだけ屋敷の中を歩く。
今は春休みで、学校も長期休暇中。その休みを利用して、実家が所持している海の見える別荘に滞在しているのだ。
いくつか所有している別荘の中でも、この別荘は亡くなった母のお気に入りの場所だった。春になると、この屋敷の近くで見れる桜が好きだったようで、春休みになると必ず訪れていた。この屋敷がある丘から、さらに登ったところにある桜は、数は少ないが、しかし都会から離れているので花見客も少なく、ゆっくりとお花見ができた。
お弁当を持参し、レジャーシートを広げ、使用人たちも連れてよくお花見に行ったものだ。
母は、私が11歳の時に病気で亡くなってしまった。この別荘…屋敷にも、その周りにも、母との思い出がたくさん詰まっている。私にとっても、大切でお気に入りの場所だ。
頼と廊下を歩きながら、壁に飾っている絵画に目をやる。童話の、不思議の国のアリスをモチーフにした絵画だ。アリスと、帽子やと三月うさぎがお茶会をしているシーンが描かれている。なんでも、母が若い頃に海外旅行に出かけた際に気に入って買ってきた物らしい。
青年の画家が路面販売していたそうなのだが、その青年に声をかけられたのだとか。母は、青年のハツラツとした、夢と希望に満ちた眼差しに惹かれてそのまま話を聞いたらしい。
青年は、自分の絵に興味を持ってくれた女性が現れたことが嬉しかったのか、絵や自分の夢についてたくさん語ったらしい。彼の話を聞いて、少しでも彼の力になれるのならと祖父に頼み込んで購入してもらったと、昔聞いたことがある。
母のお気に入りの絵画は、いつしか私もお気に入りになっていた。
「この絵を描いた青年は、あの後どうなったのかしら」
壁に飾られていた絵画から、頼へと視線を移す。すると、すぐに目が合い、頼はにこりと目を細めた。
「そうですね…きっと、今でも画家を続けているのではないでしょうか」
「そうだといいわね」
「ええ。まだ駆け出しのころに、気に入って購入してくださった方がいると思うと、励みになるものです。きっと、その後も画家として頑張れたと思いますよ」
頼の言う通り。無名で路面販売をしている頃に、通りがかりの若い女性、しかも外国の人でも気に入ってもらえるたと思うと、どれほど嬉しかっただろうか。
名前も分からないけれど、その後も活躍しているといいな。
「そうだ、桔梗お嬢様。丘の上の桜がとても綺麗に咲いておりますよ。よろしければ、見に行きませんか?」
「そうね。天気もいいし、行ってみようかしら」
母のお気に入りの桜が咲き誇る丘。天気もいいし、散歩がてら足を延ばすことにした。
「では、身支度を済ませたら向かいましょう」
「そうね。そうだ、せっかくだから他にも手の空いている人を連れて行きましょう」
「…他にも、ですか」
気のせいだろうか。いつも、穏やかな表情をしている頼が、わずかに眉をひそめたきがした。でも、それはほんの一瞬で、いつもの表情に変わる。
「ええ。ダメ?」
「い、いえ!では、直也に声をかけてみましょうか。彼は、今日は大きな仕事を任されておりませんし、きっと喜んでついてきますよ」
「そう。じゃあ、私は一度部屋に戻るから、直也に言っておいてね」
「かしこまりました」
お辞儀をすると、頼は直也を探しに下の階へと向かい、私は自室へと向かった。
◇◇◇◇
瀬月を探しに行く前に、キッチンに寄り宝崎と大和執事に出かける旨を伝える。宝崎は、すぐにお茶の用意をしてくれるとの事だった。大和執事は、午後はきちんとお勉強をなさるのなら、お出かけをしてもいいと、条件付きではあったが外出の許可をしてくれた。
二人にお礼を言い、キッチンを出る。それと同時に、思わずため息が出てしまった。それもそのはず…
(はぁ…二人でお出かけ出来ると思ったのに。残念です)
桔梗お嬢様と、亡き奥様のお気に入りの桜の丘。そろそろ見ごろでもあるので、お散歩に誘ったところ、案の定お嬢様は良いお返事をして下さった。でも…
(瀬月も一緒だなんて)
瀬月直也は私と同期で同い年。その為か、よく二人セットで色々な執務を任されることが多いのだ。
でも、今回は本当は二人っきりが良かったのに、さすがにそう上手くはいかなかった。
渋々、屋敷内の掃除をしているはずの瀬月を探す。今の時間は…玄関付近のはず。の、はずだが…瀬月は少々さぼり癖がある。お嬢様に関する仕事ならば、すぐに引き受けてこなしてしまうのだが、屋敷の掃除はどうも苦手なようで大和執事の目を盗んではすぐに姿をくらましてしまう。おかげで、同期の私が尻拭いをすることもしばしば…
いつもならさぼられると困るのだが、今日はいつも通りさぼってくれていたらいいのに。と願う。それもそのはす。玄関に居なければ瀬月を散歩に誘うことは出来ないので、桔梗お嬢様と二人きりで出かけられるからだ。
「さて、今日は…」
玄関に着き、その姿を探す。室内から見渡すかぎり姿は見えない。またか、と呆れつつも、少し安堵する。でも、もしかしたら表の掃き掃除をしているかも知れないので、一応そっと玄関の扉を開ける。
「瀬月さん?」
玄関から顔を出し、名前を呼ぶ。しかし、返事はない。そのまま一歩踏み出し、辺りを見渡す。やはり、姿はない。
「いない…良かった」
まだ執務が始まったばかりの時間だというのに、今日も早々に姿を消したらしい。これで、桔梗お嬢様と二人きりで出かけられる。そう思うと、一気に心が明るくなった。瀬月に見つかる前に、早く桔梗お嬢様を呼びに行こう。そう思って、中に戻ろうと振り返った瞬間…
「何してんだ?」
「わっ!」
いつの間にか、自分の真後ろに瀬月が立っていた。
「お、驚かさないでくださいよ!」
「はぁ?俺は別に驚かしてなんていねーよ」
「急に声をかけられたら驚きますよ!」
「何だよ。ただ、ちりとりを忘れたから取りに離れてただけだっての」
ほれ。と言って、瀬月はちりとりを掲げて見せる。よく見れば玄関の階段横に、落ち葉が溜まっていた。
「はぁ…」
「なんだよ。溜息なんてついて。で、俺になんか用か?」
溜息だってついてしまう。適当な事を言って誤魔化してしまおうか…つい邪念がよぎる。しかし、桔梗お嬢様からのお願いを無視するわけにもいかない。
「桔梗お嬢様が、あの丘に桜を見に行かれるそうです。だから、ついでに瀬月も誘ってはどうかとの事でしたよ」
「まじで!?行く行く行く!」
瀬月は、ちりとりを放り投げ、両手を挙げながら喜んだ。その大げさなリアクションに、さっきとは違った溜息が出てしまう。
「はぁ…では、桔梗お嬢様を呼んできますから…それ、片づけておいてくださいね」
「よっしゃ!こんなのちゃちゃっと片付けてやるよ!」
いつもなら、だらだらとして全然掃除なんてしないのに…わかりやす人だ。
鼻歌交じりに、軽やかに階段を降りていく瀬月に背を向け、桔梗お嬢様の私室へと向かった。
◇◇◇◇
部屋の窓から、外を覗く。屋敷の周りに建物が無いので、私室のある二階からも丘の桜は少しなら見える。
(本当は、頼とふたりでもいいのだけれど…)
他の使用人に何か言われては面倒なので、直也も誘うことにした。
私の傍に仕えている六人の使用人は、とてもありがたい事に私に忠実で執心だ。私の言うことには絶対に従うし、否定もしない。もちろん、私が間違っていれば教えられる事もあるけれど、基本的に否定はしない。何があっても、絶対に味方をしてくれるし、裏切らない。もしも私が死ねば、一緒に死ぬか覚悟もある。そんな使用人たちだ。
だから、変に一人に偏ってしまうと…
でも、そんな使用人達だからこそ、私の幸せを祈って応援してくれるかもしれない。どんな時でも忠実で、どこまでもお供をしてくれる。この世で最も信用出来る、私の使用人達。
(そう、どこまでも共に居てくれるから、私が死ねば一緒に…)
「いたっ」
ふいに、チクッとする痛みが目の奥に響いた。ぼんやりしながら窓の外を眺めていたから、光が響いたのだろうか。その痛みはほんの一瞬で、すぐに治まった。
気に留めることもないだろうと思い、私は小さめのポシェットを持ち、その中にスマホとハンカチなど最低限のものを入れる。
それから、クローゼットにかけていた赤色のストールを手に取る。春先とは言え、まだ三月。海辺の丘でもあるので肌寒いだろうが、着こむのも暑いかもしれない。春用のトレンチコートを着て、ストールも持っていくことにした。
コンコン
そうこうしているうちに、部屋の扉がノックされる。
「桔梗お嬢様。伊吹でございます」
「今行くわ」
頼に呼ばれ、扉を開ける。そこには、胸に手を当て丁寧にお辞儀をする頼が立っていた。背筋は一直線に伸びており、お辞儀の角度は45度。まるでお手本のような完璧なお辞儀だ。
頼はゆっくりと顔を上げ、にこりとする。
「お待たせいたしました。あ、そちらのストールは持っていかれますか?私がお持ちいたしますね」
「ありがとう」
手を差し出してくる頼に、流れるようにストールを手渡す。
その瞬間、頼の暖かな指先が触れた。それだけで、体温が一度上がったような気がして、頬が熱を持つ。僅かに触れ合った指先から伝わっていないか心配になり、私よりほんの少しだけ背の高い頼の顔を上目遣いでちらりと見上げる。すると、わざとらしく目じりを下げて微笑んだ。
「いかがなさいましたか?」
「な、なんでもないわ。それより、直也はどうしたの?」
動揺を悟られないようにあえてゆっくり手を離す。離れてしまった指先が、少し名残惜しい。
誤魔化すように話を切り出して視線を落とすと、ストールから覗く頼の指先が目に入った。私は、頼の手元が好きだ。男性にしては華奢な彼だが、手元は男性らしく骨ばっており、長くしなやかな指先が好きなのだ。
頼はギターが得意で、歌とともによく聞かせてくれる。その時も、頼の顔よりも手元を見入ってしまうほどだ。
「瀬月でしたら、玄関先を掃除しておりました。お散歩の事を伝えましたら、付いて行くと意気込んでおりましたよ。今頃片付けも終わっていると思います」
「そう。ありがとう」
部屋の扉を閉め、玄関へと向かう。頼は、エスコートするように私を先導しながら歩く。足の長さも歩くペースも違うのだが、やはり使用人。時折振り返りながら、私の歩くスピードに合わせてくれる。
そんな彼の後ろ姿は、しっかりと背筋も伸びており、美しい。華奢ではあるが、肩幅はしっかりしているので格好よくも見える。
(つい観察しちゃうな…)
後ろ姿も、指先さえも愛おしい、私の使用人。
玄関に向かうと、窓ガラスに映る自分の姿を見ながら髪型をチェックしている直也の姿があった。直也はどの使用人よりも身だしなみに一番気を使っており、よく髪型をチェックしている。そのせいなのか、掃除などの汚れ仕事がどうも苦手らしい。
「おまたせ」
「あっ!お嬢様!お待ちしてましたよ~。この瀬月をお供に選んでくださり、ありがとうございます!」
直也は、燕尾服の襟元を正しながら頭を下げた。
「瀬月さん。掃除と片付けは終わりましたか?」
「ああ!もちろんだぜ。お嬢様が通られる玄関だ。ぬかりはないぜ」
自信満々に、ぱちっとウインクをして見せる直也。頼はと言うと、いつもの事なのか特にリアクションもなく流していた。そんな二人のやり取りは、心を和ませてくれる。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい」
「はい!」
頼と直也は正反対の性格をしているが、同期で同い年な事もあってか、とても仲がいい。お互いにない物を補ってるようで、とても相性のいい相棒なのだと思う。それに、直也も音楽が好きで、ピアノが得意だ。その為、時折ふたりで演奏をしている。
玄関を出て、少し離れた門へと向かうと昴が立っていた。
「お嬢…お出かけですか?」
「ええ。頼と直也と、桜の丘に行ってくるわ」
「…あまり遅くなるんじゃ…ねぇです、ぞ」
敬語が苦手な昴の、変な言葉遣いにくすりと笑ってしまう。もう8年も仕えていると言うのに、敬語がどうも苦手らしい。
「大丈夫ですよ。私が一緒ですからね」
「おいおい。俺もいるからな?」
「……」
昴は、特に興味がないのか表情を変えずにお辞儀だけした。どうやら、見送りの挨拶をしてくれているようだ。
「行ってきます」
不器用な昴。しかし、不器用だからこそ素直で、まっすぐで。そして、誰よりも仲間思いな使用人。そんな昴を、私も皆も、とても信用している。
◇◇◇
屋敷から歩いて約十五分。緩やかな坂道を登りきるとひらけた場所にでる。さほど広いわけでもない、こじんまりとした広場のような場所だ。そこには、数本の桜の木が並んでいた。
その広場の端に、ポツンと一つベンチがある。桜を背に、丘の上から海を見下ろすことも出来るように置かれている。
「さぁ、どのあたりにしましょう、か…」
持参したピクニックセットを持ち直しながら、桔梗お嬢様に尋ねる。私が持っているのは、レジャーシートにクッション、日傘などが入ったカバン。一方瀬月は、クッキーや紅茶が入った水筒が入ったバスケットを持っている。
桔梗お嬢様は、広場を見渡した後、一本の桜の木の元へと向かった。まだ八分咲きの桜の木。ひらひらと舞う桜の花びらと春風に揺れる桔梗お嬢様の長い髪が、一つの絵画のように美しい。その立ち姿に、思わず息を飲んでしまう。
「おい、なぁに見とれてんだよ」
「み、見とれてなんておりませんっ」
肘で小突きながら、瀬月が耳打ちをしてくる。それに驚き、つい荷物を落としそうになってしまったが、何とか持ち直すことに成功した。
「動揺してるじゃねーか」
「う…」
カバンの取っ手を強く握りながら、これ以上動揺を悟られないように平常心を装う。しかし、瀬月はにやにやとしながらこちらを見てくる。
「お、お嬢様!そのあたりにレジャーシートを敷きましょうか!」
「ええ、そうね。ここなら海も良く見えるし。お願い」
瀬月の視線から逃げるように、桔梗お嬢様の元へと向かう。
(瀬月には、困ったものです…)
同期の為、殆どの時間をともに過ごしてきた瀬月。お互いの考えも、からかい方も、嫌になるほど把握している。
(それはもう…嫌になるほどに…)
レジャーシートを敷き、クッションを置く。桔梗お嬢様は、靴を脱ぎレジャーシートの上に上がるとスカートの裾を整えながらお上品に座った。
「クッキーと紅茶もありますぜ。昨晩、宝崎が焼いていてくれたそうです」
バスケットの中から、クッキーが入った缶を取り出す。花やウサギ、ネコなど様々な形に作られたクッキーは、大柄な宝崎が作ったとは想像も出来ないほどに可愛らしい。
「紅茶もございますよ。本日の紅茶は、セカンドフラッシュのアッサムだそうです。昨年のものだそうですが、品質も良くて…えーっと、コクがあるとかなんとか…」
ステンレス製の水筒から、持参したマグカップへと紅茶を注ぐ直也。きっと、奏斗からあらかじめ聞いていたのだろうが、説明が少々曖昧のようだ。
「ふふ…ありがとう、直也」
「へい!あ、熱いので気をつけてください」
直也からマグカップを受け取り、桔梗お嬢様は香りを楽しまれた。傍にいる自分のところまで漂うアッサム特有の香ばしい香りが、鼻を抜けた。
香りを楽しんだ後、一口口に含み、飲み込む。
まだ屋敷を出たばかりだが、すでに体は冷えていたのかその温かさにほっと息をつくその姿さえ、愛おしいと感じてしまう。
「いかかですか?お口に合いましたでしょうか?」
「ええ。とても美味しいわ」
「ふふ。それは良かったです。桔梗お嬢様、お寒くないですか?ストールをお掛けしましょう」
預かっていたストールを、そっとお膝にかける。と、その時一枚の桜の花びらが、桔梗お嬢様の髪にひらひらと舞い降りてきた。
「あ、花びらが髪に…」
桔梗お嬢様の髪についた花びらを、丁寧に取る。花びらだけに触れたつもりだが、その細い髪に触れたような気がして指先が震える。
(お、お嬢様の御髪に触れるだなんて…使用人としてはあってはならない事です)
瞬きをする程度の時間でさえ名残惜しく感じてしまい、自分がどれほど桔梗お嬢様に心を乱されているのかと実感してしまう。
今は春休みと言うこともあり、いつもより一緒に過ごす時間が多いから余計に乱されてしまうのかもしれない…しかし、些細な事で乱れていては、傍仕えとしてやっていけない。もっと気をしっかり持たなくては。
(落ち着け…ただ、花びらをとっただけだ)
桔梗お嬢様に、否。瀬月に気づかれないように細く静かに深呼吸をした。