144 マルース公国③
マルース公国の、外国との唯一の玄関口である港町ザンは、左右を険しい岩山に守られていて、湖側には高さ二十メートルを超える城壁が築かれていた。
湖をやって来た船側の方から見ると、町の風景などは一切見えなくて、ただ一面に城壁が見えているだけである。そして城壁の地上部の中央辺りには、上げ下げ式の城門が一か所だけ見えていて、その城門の前には、三か所のローブ湖へ突き出した桟橋が見えていた。
商船の上では、これから酒樽を警護運搬する役の破落戸が、ぞろぞろと甲板に出て来て、近づいて来た桟橋を見詰めている。その中にはゲイルとエンゲルの姿もあった。
噂には聞いていたが、マルース公国の出入口はこの港町ザンだけしか存在しないので、国内にはほとんど野盗や盗賊などの犯罪者が居ないのである。
罪を犯した者は、外国に逃げる訳にも行かず、いくら逃げ回っても、最終的には捕まってしまうのである。
「凄えな……こりゃあ、犯罪を犯したら逃げられっこねえ。……俺たちゃ警護で来ているが、酒を盗もうって思う奴など居ねえだろうな」
城壁を眺めながらエンゲルが呆然としてつぶやいた。
ゲイルも同じ気持ちであったが。
「まあな……だが、弱い魔物は出ると聞いているぞ。……マルース公国では酒は至上の嗜好品で、貴族でも滅多に口に出来ないそうだ。それを大判振る舞いで、即位式に国民全員に配るんだから、人気取りの為にも、無事に下々の民にまで配りたいんだろうな」
「……そうなのか?……簡単に酒が飲めねえ国なんて……俺はこの国に生まれなくて良かったぜ」
酒好きのエンゲルらしい発想である。
彼らがそんな風に話している間にも、商船は桟橋に近づいて行った。良く見ると三か所ある桟橋の内、二ヶ所の桟橋には小舟が泊まっていて、大型の商船が着ける桟橋は一か所しか無かった。
左右に一隻ずつ停泊して酒樽を降ろすことになる。酒樽を降ろした商船は順番に帰路に就き、最後の一隻が、仕事を終えたゲイルらを乗せて、帰路に就くことになるのであろう。
幅の広い大型船の着く桟橋には、多くの荷駄車の列が見え、荷降ろしを行う人足の姿も見えたのである。
背の高い城壁の上には、二十人ほどのマルース公国の兵士の姿が見える。
彼らは護衛の兵士であり、兵士の中心には、彼らの護衛の対象である、シフ教の教主であるラビナー教主と、右腕として働くエムブラ神父の姿があった。
「商船は予定通りに到着いたしましたな」
エムブラの言葉に、ラビナーは満足そうにうなづく。即位式には田舎の町や村まで、確実に届けられることであろう。
二人を護衛している兵士たちも、興味津々の顔で商船の様子を見ている。彼らは当然ながらその船に酒が積載されていることを知っていて、唾を飲み込む兵士たちが何人もいた。
彼らのほとんどが、これまでに酒を飲む機会は僅かしか無くて、中には飲んだことの無い者も居た。
「ラビナー様」
護衛の兵士の中の一人が教主に声を掛けた。実は彼は護衛の兵士でなくて、城壁の方の責任者であるレオン大隊長である。
「この度は高価な酒を、国民全員に振舞って頂きまして、誠にありがとうございます」
「四代目マルース公の目出度い即位式でございますからな。出来る限りのお祝いを、したまでのことでございます」
ラビナーは大隊長に顔を寄せると。
「ここザンの城壁は国防の要。大隊長殿は即位式には出席できぬと思いますので、当日は私から大隊長殿は元より、兵士の方々、そしてザンの住民に、別の慰労の品を用意しておりますので、楽しみにお待ち下さい」
「そのような物まで頂けるとは……感謝いたします」
顔をほころばせたレオン大隊長は、深く頭を下げた。
教主らが城壁の上から見降ろす中で、桟橋に着いた商船から酒樽が運び出され、それらは待機していた荷駄車に山のように積まれると、順番に城門を潜ってマルース公国内へと入って行くのであった。
「そこの二人! こっちだ!」
整理係の男に呼ばれ、ゲイルとエンゲルは、酒樽が山のように積まれた荷駄車の横に付いた。他にも六人の警護の男たちがいた。
その場で名前を書いた入国証が製作され二人に渡された。
「お前たちは荷駄車を十台警護して、首都ニルガナの北にあるハーブラ町へ行くんだ。御者はハーブラ村の者なので道に迷うことは無い。……魔物はまず出ないと思うが警戒は怠るなよ。町で酒樽を降ろしたら、首都で集合することになっている。即位式の日は酒が配られるから好きに呑んで良いぞ」
「その時は、たっぷり頂くぜ」
思わずエンゲルがつぶやく。
「帰りの船は即位式の三日後だ。遅れるなよ。次の船など無いからな」
整理係は連絡事項を伝えると、次の荷駄車の列に行ってしまった。
「では出発します。道中、よろしくお願いします」
先頭の荷駄車の御者が挨拶すると、列が動き始めたのであった。
(それにしても……)
ゲイルは首を振る。
酒の代金だけでなく、これだけの警護まで付けて、いったいどれほどの大金が、この事業に投じられているのであろうと思えた。
お膝元の首都はともかく、末端の町や村など、酒を配ってまで機嫌を取る必要があるのかと、彼には理解できない行いであった。
「止まれ!」
ゲイルらが警護する荷駄車の、先頭を行く御者が荷駄車を止めて叫んだ。港町ザンを出て、街道を北方へ二時間ほど進んだ頃であった。
何ごとかと警護の者が集まると、御者は自分たちがやって来た街道の後方を指差した。
見ると騎馬の兵士と白い馬車が遠くに見えた。
「港町ザンへ、シフ教のラビナー教主が視察に来ておられると聞いていましたが、あれがそうと思われます。荷駄車を脇に寄せて、先に行って頂こうと思いますので……皆さまも脇により、頭だけ下げてお待ち下さい」
御者は他の荷駄車にも脇へ寄るように指示を出している。
「イール。お前はシフ教を知ってるか?」
エンゲルが尋ねたがゲイルは首を振った。
「知らん」
「まあ、無理もねえな。シフ教はマルース公国の国教だ。今の教主であるラビナーが、二代目のマルース公に気に入られて興した宗教さ。……教主はもう、良い歳で、百歳くらいって噂だぜ」
「ふうん……」
興味なさげに相槌をうつゲイルである。
前後左右を騎馬兵に護衛された白い馬車は、本来四人乗りであるが、今乗っているのはラビナー教主とエムブラ神父の二名である。
エムブラは馬車の窓から、道の脇に寄って馬車の通過を待っている荷駄車を見降ろした。
視線をラビナーに移すと。
「ラビナー様。こう言っては何ですが、たかが酒に物々しい警備でございますなあ」
口元がほころんでいる。
「まあ、な。滑稽と笑えるかも知れぬ。だが、私の長い時間を掛けた仕上げの行事だ。最後まで油断なく行って、酒は『確実に国民全員』に、行き渡らねばならないからな」
……酒は新国王の即位を、国全体で祝う為のものであるはずなのであるが、何となく二人の会話のニュアンスが違っている。
エムブラと同じく、謎の笑みを浮かべるラビナーであった。
酒を警護するゲイルらの荷駄車の列は、港町ザンから首都ニルガナまで二泊。そこから三泊野宿して、目的地であるハーブラ町までやって来た。
一度だけ、深夜、魔物らしき集団に周りを囲まれたのであるが、篝火の火を取り出して威嚇に振るうと、簡単に諦めて去って行った出来事があった。
ハーブラ町は話に聞いた通り、外囲いなど無い町であった。魔物の少ないマルース公国ならではの景色である。
酒樽の見物に現れた町の人々を引き連れて、荷駄車の列は町の中心部にある広場へとやって来た。
そこには別に空荷の荷駄車が多く待っていた。ここで降ろされた酒樽を、更に辺境の地にある村に運ぶ為の荷駄車であった。
ゲイルらの警護はこの町までなので、酒樽を降ろしたあとのことは関係が無い。
広場に入ると早速、酒樽は降ろされて別の荷駄車へ積み替えられている。
「イールよう。即位式まで、あと五日もあるぜ……俺は酒が飲みたくて、もう我慢できそうにねえ」
「エンゲル! 馬鹿なことは考えないことだ。マルース公国から出られなくなるぞ」
冷静に告げたゲイルは、エンゲルの手を見ると、彼の指が震えているのが見えた。彼は、いわゆるアルコール依存症なのかも知れない。
「分かってる。分かってるって。畜生! 早く飲みてえな」
脂汗を顔に浮かべ、震える手を押さえるエンゲルを見て、なぜか嫌な予感がしたゲイルであった。
今日は暑かったですね。
夕方から書き始めて、晩飯で飲んでしまいました。今夜も酔筆で申し訳ありません。
ですが、書き終わった後は、読み返しもしました。
さて、不死教団の話は、暗い話なので、出来るだけ早く書いて、次の章へ移るつもりです。
前回に続き、今回も多くの人が死んでしまう章です。死んだ人は無念の気持ちが強いほど、怨霊となって、この世に残るそうです。
怨霊と聞けば、ただ怖い気がしますが、学問の神様の菅原道真も、日本三大怨霊の一人だそうです。受験の祈願に行って、呪われないように注意してくださいね。
日本最恐の怨霊は、崇徳院と言う人だと聞きました。
崇徳院さんの和歌は百人一首にもあって、日本最恐の怨霊の方が詠んだと思えば、暑い夜も涼しく感じる気もします。
『瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思う』
わあ! 何か執念が感じられる気がしますね。
寝る前に怖い話を読みたい方は、拙作『新・魔風伝奇』を検索して下さい。




