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お望みならば

作者: 富樫祈里

 娘の授業参観に出席した際に、(そら)は不意に、ある記憶を思い出した。


 「僕はそいつの首を絞めて殺したくなった」。士郎の作文はそこで終わりだった。彼は原稿用紙を畳むと視線を黒板の方へやり、一拍空けて席に座った。夕暮れ時の教室の中、誰の拍手も無い。生徒全員が全員、血の気が引いているのだ。かく云う宙も怖くて目を見開き、強張り、両手で頭を抱えながら前を見ていた。でも、士郎は隣の席に座っている友達だ。入学以前から付き合いがある。それ以上に、恩人……。拍手をしてやらなければ。それでも、手は、いや、腕すら動かなかった。隣から伝わる士郎の落ち着きようが、何か、何か。言葉に出来ない。まるでドライアイスの彫刻をそこに座らしているよう。凍傷を負いかねない程の冷たさであった。士郎は作文を読み終えたと云うのに教室が無音であったのが面白くなかったのだろう。彼は無表情で宙の机の脚を蹴って、正方形の中に納められた小さな四角達の列を乱した。しかし、宙の混乱に比べれば、角の一席が音を立てた事なんて。突如の振動の結果、上半身が机に叩きつけられた。宙は士郎を見ると、不恰好な笑みの下に狼狽と憂惧と不安とを全部隠そうと試み、そして掌で音を作った。宙の遠慮がちで乾いた拍手が教室の静寂の中でひたひたと響く。宙の笑顔とは対照的に、士郎の笑みは自信に満ち、煌々としており、そして自然であった。

 それ以外でも、宙は士郎の笑みを見ては不安を覚えることが何度あったことか。高校に入学してからもそうだ。何が運命をそうさせるのか、小学校からずっとずっと、彼らの通学路は殆ど似たような物であったから、自然と登下校で士郎と宙は時間を共有した。

ある日の事だ。朝、宙が士郎を追うようにして家から出ると、士郎の方は途中の家の生垣で休んでいる猫の顔を撫でている所であった。夏服の清々しさより際立つ、士郎の笑顔の美しいこと。容貌がどうこうではなく、士郎という人間が笑えば、それに美しいという言葉が付加されるのが当たり前の様であった。

そしてその帰り道。猫は死んでいた。その猫が、士郎が撫でたあの猫が死んでいたのだ。慰安場所としては荒々しい石の道で、その猫は身を任せている。宙は小学校から続くよう、臆病で情けない性格のままであった。なんて不憫な猫だろう。朝にはああも自由に身をくねらせ魅力的であったのに。この不自然な死は車に轢かれでもしたのだろうか。士郎の方はすぐに動いた。彼は猫の側に躊躇なしに移動し、そして屈んだ。何をする気でいるのだろう。彼は猫の方に手を伸ばした。そして、今朝と変わらぬ様子で頭を撫でてやったのだ。勿論、あの美しい笑顔を輝かせながら。宙はその笑顔を見て、士郎の感覚をひとつ知り、硬直した。肩から下げていた鞄が落ちる。ドサリと音が立った後、長いこと何も聞こえなかった。

 猫の事と言えば、宙が二十四になった頃、彼は家に戻ろうと夜道を歩いている時に黒猫が前を横切ったために、士郎の事を思い出したことがある。その記憶と言うのが、まだ中学だった時分に、士郎に強引に手を引かれて墓場で遊んだ物である。士郎は祟りなど一切信じてないかのようであった。やはりこれも、士郎の死生観に拠るものなのだろうか。宙の方は怯えて怯えて仕方なかった。正直な話、今現在も墓場で具体的にどう遊んだのかは、宙は鮮明には思い出せない。しかし、問題はない。思い出す隙も与えず、この記憶は自然と別の着地点に意識を導くのである。

 宙は士郎の祖母から、彼は実は凄く寂しがりやなのだという話を聞いていた。それでも、あの日のお昼時、どうしても士郎の行動に耐えきれなかった。

「士郎なんて嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ」

 そこは神社に続く長い石階段で、小僧の自分たちはその中腹にあった。士郎がやはり、宙の腕を引っ張っている。それにしても、この時の自分たちの表情の大きな違いといったら。宙自身は涙やら鼻水やら、汚せるだけ顔中を汚していた。丸々と膨らんだホッペに比べ、眉根や閉じた目元には皺がよっている。一方の士郎は。やはり、奴は無表情のままであった。膨らみも窪みもない。宙の脛に乗った真新しい傷なんて、士郎には意識に入ってないかのよう。宙はまた声を上げた。

「士郎なんて、嫌いだ、大ッ嫌いだ、嫌いだ」

「そう」

 簡潔、そして冷淡。士郎が口を開いた。

 士郎の言葉に誘発され、宙もようやく水圧でしっかりくっ付いたその瞼を開いた。予想外の反応だった。少なくとも、他のお友達とであったら、到底考えられない反応だ。宙は士郎を見た。宙は士郎のこの落ち着きようが、自分と同じ歳の子供が持っているものとは思えず、人間とは別の物を相手にしているように思えた。真っ直ぐ此方を見てくるその目に飲み込まれそう。

「う、嘘だよ士郎。大好き、士郎大好きだから。大好き、大好き、士郎、大好き」

 宙は大きな涙を垂らしながら、士郎にそう喚いた。何度も何度も、体の奥から声を引きずり出した。本心のはずなのに、嘘を吐いた時よりもその先が恐ろしかった。

「そう」

 士郎の目からは彼が何を思っているか読める物ではなく、宙の上に覆い被さる奴の影が一層と不安を招いた。


 そんな経験があるからだろう。宙は自分の娘達が幼児期にあがる頃に、「嫌い」や「好き」という言葉には一際注意をして反応してやった。

「せらね、ぱぱのことだいすき」

「うん、パパも世羅の事大好きだぞー」

「すきすきー」

 勿論、今や成長した彼女たちはこのような事は言わない。学生服を与えられ、彼女たちの行動様式も変わった。今では周りの友人達と同じように父親に接しているのだと言う。宙は若干の厄介者扱いがあるとはいえ、娘達のこの成長には満足していた。自分は彼女たちを普通に育てられたのだ。よく笑い、よくふて腐れ、自分の意見を言えている。自信が無かったが、俺にしてはよく育てたものではないか。今は自分の金で買った一軒家だってある。妻の事だって大切にしているし、家庭内での暴力など無縁の状況だ。

 そう、宙自身の幼少期と比べたら、よくここまで整えたものだ。


 宙はその日、窓辺で蹲って横になっていた。いや、記憶が飛んでしまい、幼い体をそこから動かせずにいたのかもしれない。背中周辺が特に痛む。父さん、早く帰ってこないだろうか。船が出たために、もう何日も家を空けている。この薄汚れた部屋に新しいおもちゃのお土産なんて要らないから、早く帰ってきて。

「ま、まぁ……。大、すき……」

 家の外の方で、女の人と子供の声が聞こえた。部屋の気温は厳しいくらい暑い。子供は、宙と同じくらいの歳だと思われる。この二人は親子じゃないだろう。それにしても、カーテンの無い部屋で外から刺す日差しが目を眩ませる。さっきから二人は言い争っている様に聞こえる。大量に汗が出てきた。貴重な水分を涙で使う訳にはいけない。あんなに大声なのに、どうして近所の人は誰も何も言わないのだろう。あぁ、僕が大声で泣いてしまう日と何も変わらない理由なんだな。

 遠のく意識の中で、宙はこの二つの声は自分がよく知っている物なのではないかと思った。これから先長いこと恐れる事になる声と、これまで恐れてきた声の二つである。程なくして、頭の中が真っ白になった。脱水症状でそうなったのは今度のが一回。もう一つは、何年も経った後、行方不明の捜索の件で泣く宙を、士郎がやはりあの面で強く殴った時である。宙の何が気に入らなかったのか。後で聞いた話、自分の功績を汚すような行為が許せなかったと言うのだ。


 スーツのボトムにワイシャツを着ると、宙は寝室を出て一階に下りた。食卓には妻が用意した朝食が、温かな湯気を立てている。次女の瑤子が軽く「おはよう」と返事をし、そして直ぐに朝食を食べ終えシンクに向かった。妻の方は宙が席に着いたのを確認すると、自分もエプロンを取って食事に移った。

 何の変哲もない日常では、妻の朝の行動はこうやって行われる。掃除の行き届いた家の中で、幸せの規則に従順した流れ。宙も無意識にそれに慣れていた。

しかし、その日妻が違う形式を取ったとき、宙は不意に、また士郎を思い出したのである。


 それは士郎が近隣に越してきて二ヶ月程経った頃だった。漁港と畑ばかりのあの村落で、子供は外で遊びさえすれば友達が出来そうなところを、宙も士郎も家族以外の親しみを知らないようである。そんな中で、士郎の方がとうとう宙を訪ねて来たのだ。宙は知ってはいるが今まで言葉を交わした事の無いこの少年を奇妙に思った。そいつが腕を引っ張って、自分の家の石垣に座らした時など、心臓が引き裂かれるかと思った。

「ぼく、大原士郎。きみ、なぐらそら、だろ」

「え、あの、うん……」

「ぼく、とうきょーにすんでたけど、今はじいちゃんちにすんでる。そらのいえのちかく。とうさんが、そのほうがいいんだって。ぼくはむこうでもんだいをおこすから。ぼくのきょうだいはね、みんなむこうにすんでる」

「あの、その、すごいね……」

「でも、おじいちゃんが本当に来てほしかったのは、ぼくのおねえちゃんのほうなんだ。おねえちゃんはぼくと年が一回りはなれている。おねえちゃんは、おじいちゃんのおきにいりだから」

「じゃ、じゃぁ、しろうくんもやさしくしてもらえるよ」

「ぼくは、おねえちゃんがおじいちゃんにされているのと同じことをされるのは、いやだ」

 宙は士郎を見た。

「でも、ぼくにもその日が来るか、ぼくにはわからない。おにいちゃんもかあさんも、何もしらないんだ」

士郎の言葉は嫌に重々しく、後が気になるが、もうここで終了らしい。彼はどうして、祖父からの愛情を拒むのだろう。宙の本能は、自身の純粋性を守るためにも、何も尋ねられなかった。士郎はきっと、その本能が強い運命によって傷つけられた被害者なのだ。

 これは後になって知った話で、幼き宙が大原家の歪んだ痴情など知る余地がなかった。

「そらは、じしんがないんだね。おどおどしてる」

「う……うん。だって……」

 宙は自分の半袖の裾から痣が士郎に見えていないか心配であった。士郎は宙の方には目を向けず、小石を摘んで遠くに投げた。

「ぼく、かあさんとやくそくしたんだ。さいてい、だれか一人、ともだちをつくるって。そしてそのこを大切にしなさいって。だから、そら、きみじゃだめかな」

 だめなかな、と聞かれても、宙はどう返事をすれば良いか分からなかった。自分も、友達を持つのがこれが初めてなのである。従兄弟と友達とじゃ、何か違いはあるのだろうか。従兄弟とだったら、話したことはあるんだけれどな。でも、友達ってのは、もっと大切に扱わなければならない気がする。見捨てられない為に。

「い、いいよ。うん……。ぼくも、うれしい……」

 八の字の眉毛の下、宙は目をきょろきょろさせ言った。

「そう。ありがとう、そら」

 これが宙が初めて見た、士郎のあの、綺麗な笑顔であった。


 ここまで思い出したが、妻は電話の相手をして席に着かない。朝方の電話とは珍しい。それで、宙はまた、その続きを思い出すのであった。


「そら、ぼくがお礼に、そらのねがいごとをかなえてあげるよ」

 太陽が雲からまた顔を出した時、士郎がそう言った。宙は士郎を見るが、士郎への不信と良心の呵責とが、宙の口を黙らせた。願い事が無いわけではなかった。士郎も、初対面でありながらそれを知っているようである。

「そらがそのねがいごとを言わなくてもいいよ。ぼく、しっているんだ。だって、きみがよくないているの、ぼくのへやからきこえているもん。それって、おとうさんがいない日だけ、なんだろう」

 士郎が宙に横目をやった。宙は何も言えない。士郎は、きっと。確信は持てないが、僕の願いを知っている。


 これ以上はもう物が考えられなかった。妻がエプロンを外し、こちらに歩いて来たのである。そして珍しく、朝方の教育番組を切り替えた。CMが流れているが、多分妻はニュースをつけたのだろう。

「ねぇ、あなた。今、お義父さんから電話がありましたよ。何でも、あなたに直接言いづらい事だから、ニュースを確認してくれって。何でも、昨日あなたの実家にね、警察が来たみたいなのよ」

 実家と警察。宙にはこの二つの単語の組み合わせは初めてでは無かった。あの歳の離れた男女の声が言い争った後、確か三日以内には……

「ニュースをお伝えします。昨日午後四時頃、二十五年前に殺害された名倉美春さんの事件の加害者が警察へ連行されました。容疑者の大原士郎氏は当時小学生で、」

 宙の意識は、記憶に飛ぶ前にニュースの声に引き寄せられた。画面には知っている顔が二つ、恐れなければならない声の持ち主と、恐れていた声の持ち主が映っていた。二つとも、本当に、よく知っている顔だ。

「ねぇ、あなた。あなたの行方不明になったお義母さんのお名前って、確か……」

 青ざめた妻の顔がこちらを向いている。宙は画面をじっと見ていた。「あぁ」と声を漏らしたが、少しの間を開け、「士郎……」と、懐かしき恩人の名を呼んだ。

 いや、実際に士郎を恩人だと確信したのは、この瞬間であった。士郎は確かに僕の願いを叶えてくれていたのだ。あの作文でもしかしたらと思っては居たが、やはり。心のどこかで、士郎を信じていて良かった。あの理不尽に耐えていた長い時間が、ここでようやく正解という言葉を得られたのである。

 妻はきっと、この高揚とした気持ちを知らないだろう。彼女は同じ母親の立場として、あるいは板倉宙の妻のしかるべき態度として、テレビ画面に映し出された女性に同情し、夫に掛けるべき言葉を並べている。


「宙。僕の母さんが、父さんを殴り倒したよ。浮気をしていたらしいんだ」

 高校に上がるころ、士郎が宙に笑ってそう言った。やはり爽やかな帰り道で、士郎のシャツが夏の風に揺れる様は、新緑のそれより美しかった。

「僕はやっぱり、母さんの子供だったみたいだね。人の死で誰かの幸せが作れるって信じたんだよ。ねぇ、宙」

 士郎がまた宙の方を見た時、一陣の風が宙の首元の汗を拭い、清々しさが溢れた。

「宙は、母さんが居なくなって幸せになっただろう」

 今度は、宙が笑って見せた。


「問題となるのは小学生時代の彼が友人の母親を殺したという事実で、我々は道徳教育をまた問題視する必要が」

 ニュースの言葉がどうあれ、宙は今や確信を、恐怖が完全に感謝へと変わった。有難う、士郎。愛しているよ。


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