第九話
早乙女さんは相変わらず笑顔のままだった。
「おいおい! 何を言い出すかと思ったら……」
「本気です。プロレスを教えてください。強くなりたいんです」
もう一度言うと、早乙女さんの顔から笑顔が消えた。
「阿部さん……お母さんは知ってるのか?」
「いえ……」
「じゃあダメだ。筋トレと護身術くらいなら教えてもいいが、プロレスは教えない約束だ」
「でも、それだけじゃ強くなれません!」
「プロレスを覚えてどうするつもりなんだ? 喧嘩にでも使うのか?」
「あたし、喧嘩なんかしませんよ!」
「じゃあどうして?」
「どうしても、勝ちたい人がいるんです――プロレスで!」
「ほう?」
早乙女さんが、ニヤリと笑った。
「……話を聞こうじゃないか」
二階の事務所で、あたしはある程度、本当のことを言った。
文化祭が誰かに台無しにされたこと。その件に、ミリ女のプロレス部が絡んでいるらしいこと。
罪を認めないミリ女と楽女の間で、プロレスで勝負をつける話になったこと。
もちろん、あたしがマスクをかぶって乱入したことは伏せておいた。
「……なるほどね。学生プロレスの対抗戦か。でも今の話だと、舞依ちゃんの出番はなさそうだけど?」
早乙女さんが言う。
「だから……あたしも技を覚えて、試合に出してもらうつもりです!」
「そんな簡単に覚えられるか! 格闘技の経験もないんだろ?」
早乙女さんの口調は厳しかったが、あたしは食い下がった。
「どんな練習にも耐えます! このまま何もできないのが、悔しくって……」
「ふむ……」
早乙女さんが頭を掻いた。しばらく考えこんでから、立ち上がって言った。
「着替えて階下に降りな。リングに上がるんだ」
体操着に着替えたあたしは、靴を脱いでリングに上がった。
「何々、どうしたの?」
いつの間にか〈FF〉の他の選手もリングのまわりに集まってきている。
早乙女さんもリングに上がって、あたしに聞いた。
「舞依ちゃん。受身はできるか?」
「受身……?」
「見本を見せてやる。きよみ、ロープを」
「ウッス!」
天井からぶら下げられた太いロープを、早乙女さんが指さした。
壁際にはもう一本、細いロープが張られている。
喜屋武さんが細いロープを引くと、太いロープがリング中央に移動してきた。
早乙女さんはロープをつかむと、あっという間に五メートルほどの高さまで登る。
上空で体を揺らしながらあたしに言った。
「舞依ちゃん、よく見とけ。これがプロレス受身の基本……フラットバック・バンプだ!」
早乙女さんはロープから手を離した。
――あたしが声を上げる間もなく、早乙女さんの体が背中からマットに落下した。
「……!」
あたしは目の前に横たわる早乙女さんを見つめたまま言葉を飲んだ。
今、とんでもない事故が起きたんじゃないか!
あたしはうろたえてあたりを見まわしたが、誰も慌てた様子はない。
そのとき、早乙女さんがむくりと起き上がった。昼寝でもしてたみたいに首をコキリと鳴らす。
「……プロレスってのはな、一歩間違えれば死んでもおかしくない技の連続だ。まずは自分の身を守れない奴にプロレスは教えられない。あの高さからとは言わないが、ロープから飛び降りて受身ができるようになったら……まあ、基本の一つくらいは教えてやる」
「や、やりますっ!」
「真ん中に赤い線が引いてあるだろう? そこがマットから三メートルの高さだ……ちょうどトップロープに立ったくらいの高さだな。とりあえずそこまで登ってみろ」
あたしうなずいてロープを握ると、両手に力をこめて登ろうとした。
「うんっ……!」
――登れない。登り棒は得意なのに、揺れるロープだとまるで力が入らない。
「技をかけるには、相手の体をコントロールする力が必要さ。それには“引く”力が肝心さ。ロープ登りは、その力を鍛えるんだ。それもこみでの練習だよ」
安西さんが言う。たった三メートルが果てしない高さに見えてきた。
あたしは必死にロープにぶら下がって――落ちた。
手のひらに縄目がくっきりとついて、縄文式土器みたいになっている。
「ニヒヒ。頑張ってね、舞依ちゃん」
百瀬さんが無邪気に笑う。
「登れるようになったら呼んでくれ。ほらみんな、行くよ」
早乙女さんたちは二階に上がっていった。
あたしは三十分ほどロープと格闘したが、揺れるばかりで十センチも登れない。
手にマメができ、つぶれて、血が滲む。握力もなくなり、あたしはマットに倒れた。
そのタイミングを見計らっていたみたいに、早乙女さんが二階から降りてくる。
「舞依ちゃん、今日はもう帰んな。それから、明後日は休日だったな?」
「はい……?」
「私たちはその日試合があるから、道場が空いてる――良かったら、同好会の連中に使わせてやんな。どうせまともなリングで練習してないんだろ?」
そう言って、倒れているあたしの胸元に、道場の鍵を投げてよこす。
あたしはお礼を言うと、制服に着替えて道場をあとにした。
「それで、ロープは登れたの?」
食卓に着くなり、母が切り出した。あたしは味噌汁を吹き出しそうになった。
「ななななんで知ってるの? 早乙女さんから連絡あったの?」
「当たり前です! 黙ってプロレスを教えたりしたら、お母さんが許しません!」
くそう。教えてもらえるまでは内緒にしておこうと思ったのに。
「どうなの?」
「……登れなかった」
「ロープ登りか。お父さんもよくやったよ……懐かしいな」
父が笑いながら言う。
「お父さんはレフェリーだったんでしょ。それでもやらされるの?」
「最初はプロレスラーだったんだぞ? デビューしてすぐ腰をやっちまって、レフェリーに転向したけどな」
「それで〈FF〉に来たのよね」
懐かしそうな顔をした母に、父が苦い顔をした。
「まったく、あの頃のおまえらときたら……リングの中でも外でも喧嘩ばかり」
「それなりに理由はあったのよ。今思えばバカみたいな理由だけど。我慢できないことがあったら、体でぶつかっていくしかなかったの。他にやり方も知らなかったし」
「そのたびに俺が止めに入って、社長に頭下げて……おまえらの愚痴を聞かされて」
「感謝してるわ。それで、あなたと出会えたんだもの」
「ば、バカッ! 何を言ってる!」
父が顔を赤くする。娘の前で、こんな話するかね普通?
父は誤魔化すようにご飯をかきこむと、あたしに聞いた。
「舞依はどうするんだ? その……学校の対抗戦に出るつもりなのか?」
「……まだ、わかんないよ」
「出るなら出るで、ちゃんと辰美ちゃんたちに相談しなきゃダメよ?」
「そんなの、わかってるよ! だけど……そんなこと言ってダメだったら、あたしが恥かくだけじゃん!」
「あのなあ、舞依」
父が箸を置いて、あたしを見た。
「恥をかくってことは、何かに挑戦した証拠だ。辰美ちゃんはそんな舞依を笑うような友達か?」
「……」
あたしは部屋に戻ると、フクロウのぬいぐるみを蹴飛ばした。
「人の気も知らないで! これ以上恥なんてかきたくないってのに!」
加賀の冷めた視線が、デコちゃんの嘲笑が、辰美の怒声が頭の中を駆け巡る。
あたしは恥ずかしさでベッドの上を転げまわった。
「いっそのこと、またフクロウ仮面になって乱入してやろうか……」
そこまで口にして、あたしは思い直す。
「……いや、そんなことしたらまた話がこじれる。それに、今のままじゃフクロウ仮面になっても……加賀には勝てない」
握りしめた手が痛んだ。すりむけた手のひらに血がにじんで染みる。
あたしはその手をさらに強く握った。
この痛みはあいつらのせいだ。文化祭を台無しにして、みんなを泣かせたあいつらの。
――この借りは必ず返してやる。
「マジで? 〈FF〉の道場を?」
翌日、体育館で練習中の辰美たちに話を持ちかけると、目の色が変わった。
無理もない。体育館は他の運動部も使っていて、プロレス同好会が使えるのは奥にある舞台の上だけ。
ボールがたびたび飛んできては、仕切っているネットを揺らす。これで練習に集中できたら驚きだ。
「うん……みんなちゃんとしたリングで練習していないでしょ」
「ありがとう……舞依ちゃん、助かるよ!」
鏑木先輩があたしの手を握って言った。
「これって、やっぱり鳳さんのお母さんのお口添え?」
倉田先輩が聞いてくる。
「いえ、〈FF〉の早乙女さんから……」
「ちょ、ちょっと待ったぁ! 早乙女さんと知り合いなのか?」
周防先輩があたしの肩を揺さぶる。唾が飛んできた。
「知り合いというか……あたし今、〈FF〉の道場に通ってて」
「はあっ?」
辰美が目を丸くする。
「どういうことだよ舞依……そんな話聞いてねえぞ?」
「黙っててごめん! でも、あたしも……何かしたくって」
「何かって、何をさ?」
あたしは一息ついてから言った。
「……あたしも出たいの。ミリ女との試合に!」
みんなが息を飲んだ。ネットの向こうで、ボールの跳ねる音がした。
「いや、舞依ちゃん。悔しいのはわかるけど……」
鏑木先輩が優しく言う。
「そう簡単じゃないぞ。私たちは格闘技の経験があるけど、舞依ちゃんは……」
「そうですよ~。プロレスが好きなら、私たちと基礎から練習を~」
「だから黙ってたんです。今のあたしが入っても、みんなの足を引っ張るだけだし……だから、時間をください。月末まで。それからみんなで判断してください。試合に出すか出さないか。ダメならダメで、あきらめます」
「さて、どうするか……」
鏑木先輩がみんなの顔を見まわした。
「これがシングルなら、絶対に反対するところですけど……」
辰美が口を開く。
「今回はイリミネーション。アタシたち四人で、あいつら全員ブッたおせば文句ないですよね」
「だけど、ただリングにいるだけじゃ、鳳も面白くないだろ」
周防先輩が言った。倉田先輩も心配そうに続ける。
「それに万一、鳳さんが攻撃を受けたら……」
「自分の身は、自分で守ります! 受身だけでも取れるようになります。だから……」
「……」
鏑木先輩はしばらく考えていたが、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「ミリ女の部員は二十人近くいる。その中で叩きのめせるのがたったの四人……というのは、どうも物足りないと思っていた。ウチの人数が増えれば、あっちの人数も増える」
「それじゃあ、先輩!」
「ただし、だ。舞依ちゃんを守りながら試合はできない。さっき言ったように、自分の身を自分で守れるならば、私に異存はない。みんなはどうだ?」
鏑木先輩が、改めてみんなの顔を見る。誰も何も言わなかった。
「異存はないようだな。じゃあ月末まで待とう。それまでに受身を覚えろ。そのうえでミリ女に話をつける」
「……ありがとうございます!」
あたしが頭を下げると、辰美が肩に手をまわしてきた。
「おーし、それじゃあ舞依、早速練習だ」
「え? だから、今あたしが入ったら邪魔に……」
鏑木先輩が首を振る。
「受身の基礎だけでもやっておけ。ちょうど交代でスパーリングしていたところだ。手の空いてるほうで面倒を見てやる。おまえら、それでいいな?」
「ウッス!」
「……」
あたしはもう一度頭を下げると、体操着を取りに教室へ走った。
その日は夕方まで、受身の基礎をみっちり仕込まれた。
次の日の朝。〈オオトリスポーツ〉に集合した同好会は、母の車で〈FF〉に向かった。
道場に着いてドアを開けると、われ先にと辰美たちが中に駆けこんでいく。
道場を見まわして、辰美がため息をついた。
「おおっ! 先輩、コシティがありますよ! 腕立て用のバーも!」
コシティというのは野球のバットを太くしたような木の棒で、〈FF〉の選手たちがよく振りまわしている。バーを使った腕立てというのも、あたしはここに来て初めて見た。
「あそこにあるものは、使ってもいいんですか?」
鏑木先輩が母に聞いた。
「器具は自由に使っていいって聞いてるわ。でも、ここに来た一番の目的は?」
「それは……」
「リングで練習できる時間は少ないわ。まずはリングの感覚に慣れなさい。それと、あなたたちの実力も見たいし」
「えっ?」
「私が練習を見るわ。早くアップを済ませなさい」
母がジャージの上着を脱いで、首をコキリと鳴らした。