第七話
「それじゃあ、行くわよ」
ある日、学校から帰ってくるなり母に言われた。
「どこに?」
「強くなりたいって、言ったじゃない」
ああ、あれか。もちろん、その言葉は嘘じゃない。一週間前は確かにそう思っていた。
でも今は戦う理由もない。それにようやく体が動くようになったばかりだ。
「そりゃ確かに言ったけど……」
「じゃあ、ぐずぐずしない。着替えは用意してあるから、車に乗りなさい」
「でも……」
「舞依……あの言葉は嘘だったの?」
「うっ……」
「お母さんに嘘をついたの?」
母の目がギラリと光った。ブラウスが筋肉で盛り上がり、胸のボタンが弾け飛ぶ。
あたしは本能的に危険を感じた。
「ううう嘘なんかついてないよ! なりたいよ! 強くなりたい!」
「そう。よかったわ、あの言葉が嘘じゃなくて」
母はニコリと微笑んだ。あたしは制服のまま、母が運転するバンに乗せられた。
「……誰かと喧嘩でもした?」
運転しながら母が聞いてくる。
「えっ?」
「突然、強くなりたいだなんて言い出して」
「してないよ、喧嘩なんて!」
「じゃあ、どうして?」
――先日の無様な敗北が頭の中を駆け巡る。
あたしは試合に負けた。マスクを剥がれそうになって、這うようにして逃げ帰った。
デコちゃんたちの嘲笑が、辰美の叱責が今も頭から離れない。あまりの惨めさに大声で叫びたくなる。
そんな衝動を抑えてあたしは言った。
「たとえば……たとえばの話だよ。誰かを助けてあげたいのに……力がなくって、ただ見てるだけしかできないなんて……そういうの、悔しいじゃん」
「……」
母はそれ以上聞かなかった。車は夕暮れの町を走り続けた。
――そして着いたのが、ここ〈ファイティング・フィメールズ〉だ。
「な、何これっ! お母さんがいたプロレス団体じゃない!」あたしは叫んだ。
「あたし別に、プロレスなんてやるつもりは……」
「だって、どんな風に強くなりたいか言ってくれないんだもん。だったらお母さんここしか紹介できないわよ」
「うぐう……」
言われてみればそのとおりだ。漠然と強くなりたいとしか言わなかったあたしが悪い。
このピンチをどう切り抜けるか考える暇もなく、建物のドアが開いた。
「阿部さん! お久しぶりです!」
出てきたのはTシャツ姿の、髪を真っ赤に染めた女の人だった。
一目でプロレスラーだとわかる、逞しい腕と太もも。
それでも女らしさを失っていないのは、大きな瞳で愛嬌がある顔のせいだろう。
その人があたしを見て微笑んだ。
「舞依ちゃんも、大きくなったなあ!」
「……えっ?」
「私だよ私! お母さんの付き人をやってた、早乙女茜!」
ああ、なんとなく思い出してきた。
まだ小学校に上がる前、母の側にはいつも一人の女の子がいた。
母がいない間は、親切にあたしの面倒を見ていてくれたもんだ。
記憶の中のその子は、黒髪のあどけない少女だったはずだ。
――それがどうして、こうなった!
「無理もないか。最後に会ったときは、舞依ちゃんこんなに小さかったもんなあ」
そう言いながら、指先で小さなコの字を作ってみせる。
いくらなんでもそんな消しゴムみたいな大きさはないでしょ!
「とりあえず中に入ってください。他の連中もじき帰ってきますから」
早乙女さんがあたしの肩に手をまわす。太い腕があたしの首をガッチリつかんでいる。
もう逃げられないとあたしは思った。
建物の中は意外に広かった。
錆びたシャッターの内側が練習場になっていて、その真ん中にリングがある。
壁際にはサンドバッグやら、どう使うのかもわからない謎の器具の数々。
そして、なぜか長いロープが天井からぶら下がっていた。
「驚きましたよ。先輩から『娘を鍛えてほしい』って言われたときは」
早乙女さんがあたしの顔を見つめて言う。
「そっかあ。舞依ちゃんもついにプロレスを……」
「やりません。プロレスは」
あたしはハッキリと言った。
「それじゃあ、どうしてここに?」
「その……体を鍛えたいんです。……そうだ、護身術的なものとかできれば」
――護身術! われながらいい答え! これなら無茶なことはやらされないだろう。
「つまり……一〇〇キロの巨漢にチェーンで襲撃されても、返り討ちできる強さになりたいってことか」
「そんな強さはいりません」
「考えていても始まらないわ。とりあえず舞依は早く着替えて」
母は乱暴に、着替えの入ったバッグを投げつけてくる。
「でも、着替えるって……どこで?」
「ん? ああ、そのへんで」
早乙女さんがぶっきらぼうに言う。雑ゥ! やっぱりプロレスラーってどうかしてる!
「それじゃあ、まずは基礎体力から見てみますか」
一時間後。Tシャツに短パンのあたしは、汗でズブ濡れになって床に倒れていた。
「おお~。初回でスクワット百回とは、やるねえ」
感心する早乙女さんとは対照的に、母はがっかりした声で言った。
「そのかわり腹筋は十回、腕立ては七回。私の育てかたが間違っていたのかしら……?」
「いやいや、最初はこんなもんですって」
早乙女さんがフォローしてくれているとき、表で車の音がした。
「戻りました!」
ドアを開けて入ってきたのは、目つきの鋭い金髪の子だった。
いかにも元ヤンといった雰囲気で、街で見かけたらまず避けるタイプだ。
その彼女が倒れているあたしを見て、大きな声を上げる。
「おおっ! 練習生ッスか?」
「何々、新人ちゃん?」
そのあとに入ってきたのは、髪をツインテールに結んだ中学生ぐらいの可愛らしい子。
ひょっとしてこの子もプロレスラーなの?
「アホ。阿部さんの娘さんだよ」
「阿部……さん?」
早乙女さんに言われて、二人は初めて母に気づいたようだ。
「は、初めまして! 〈FF〉新人の喜屋武きよみです!」
金髪の子が深々と頭を下げる。ツインテの子がそのあとに続けた。
「私は、あのっ……」
「百瀬モモさんでしょう。試合観たわよ」
母が笑顔で答えると、もう一人背の高い女性が入ってきた。黒髪の真面目そうなお姉様だ。
とてもプロレスラーには見えないが、ここにいるということは、やはり。
「は、初めまして。〈FF〉三年目の加藤千代子といいます。お、お会いできて……」
「そんなにかしこまらなくても。私なんてとっくの昔に辞めた人間なんだから」
「いえ、そんな……」
「そうそう。こんな奴に礼儀正しくする必要ないさね」
野太い声がした。最後に現れたのは、視界をふさぐほど巨体の女性だった。
とにかく、デカイ。ウチの倉田先輩よりも大きいから、一九〇ぐらいはあるだろう。
贅肉でダブついた感じはなく、カールした茶髪からは精悍な顔がのぞいている。
彼女を見た瞬間、母が少女のような笑顔になった。
「アンジー! 元気か!」
「おかげさまで……って言いたいとこだけどね。もうだいぶ体にガタがきててね」
アンジーさんは若いレスラーのほうを振り返った。
「こいつらがもっとシャキッとしてくれりゃ、あたしも安心して引退できるんだけどね」
「安西さんに今辞められたら困ります」
早乙女さんが眉間に皺をよせる。なるほど、安西さんだから、アンジーか。
「それで、この子が阿部ちゃんの娘さんかい」
安西さんが、倒れているあたしを見下ろした。
「立派な娘さんじゃないか。しっかりとお母さんを支えて」
二階の応接室で、安西さんがコーヒーを飲みながら言った。
「ありがと。ほら、舞依もちゃんとお礼を言いなさい」
母も優雅にコーヒーをすすりながら、あたしを見る。
「あ……ありがど……ございまず……」
そう。あたしは今、母を支えている――物理的に!
母が腰かけているのは、首でブリッジしているあたしのお腹の上だ。
「ほら、そんなにプルプルしないの。コーヒーがこぼれるでしょ」
「ぞんなごど……言われでもっ」
もう、首も背筋も限界に近い。なんでこんなことしなきゃいけないの!
「舞依……プロレスで何が危険かっていえば、頭を打つことなの。頭を守るのは首よ。強くなりたいなら、首だけは徹底的に鍛えなさい」
「だがらあだじ、プロレスなんがっ……」
「阿部ちゃん、今日はそのくらいにしときな」
安西さんの言葉で、やっと母が立ってくれる。あたしはその場に崩れ落ちた。
「あたしらは一日でも早くデビューしたくて、体作るのに必死だったけどさ。舞依ちゃんは別にプロレスラーになりたいわけじゃないんだろ?」
「は、はい……」
「だったら、ゆっくりと鍛えればいいんだよ
「だけど……」
何か言いたそうな母に、安西さんが続けた。
「あたしらのころは有名になりたい、金を稼ぎたいと思ったら、プロレスは悪い選択じゃなかった。今は違う。本当に好きじゃなきゃ厳しいトレーニングなんか耐えられないさ」
安西さんは建物の奥を見た。応接室から続く廊下にドアが並んでいる。
選手たちの部屋になっているらしく、帰ってきたみんなはそれぞれのドアに吸いこまれていった。
「昔は一部屋に四、五人ザコ寝なんてザラだった。今じゃ一人一部屋さ。時代が違うんだよ、阿部ちゃん。あんたはいいときに辞めたよ」
「それを言われると、耳が痛いわね」
「それでも自分はここを満杯にしたいですね。選手を増やして、バンバン興業も打ちたい」
グラスを片手に早乙女さんが言う。酔っているのか、顔がほんのり赤い。
「あ~あ。どこかにいい子はいないかなあ。若くて、そこそこ可愛くて、プロレスが好きな」
そう言いながら、あたしのほうをチラチラと見てくる。
――何よ。
確かに若くてそこそこ可愛いけど、プロレスなんて全然好きじゃないし!
「まあ、今日のところはこれで。舞依ちゃんも学校あるだろうし、来週また来なよ」
「あ、ありがとうございました」
痛む首筋を揉みながら、あたしは立ち上がった。早く帰ってシャワーを浴びたい。
外に出ると、すっかり暗くなっていた。
着替えもせえずに車に乗ろうとしたあたしを、早乙女さんが呼び止める。
「舞依ちゃん、これ」
――渡されたのは、二枚のチケットだった。
「月末に試合があるんだ。よかったら観に来てよ。友達誘ってさ」
そう言って、愛嬌たっぷりの笑顔を見せる。まさか断るわけにもいかないだろう。
学校でチケットを見せると、当然のように辰美が食いついてきた。
「辰美も行く?」
「行くに決まってんじゃん! このチケット、どうしたの?」
「あ……うん。お、お母さんがね」
面倒なことになりそうなので、〈FF〉に行ったことは内緒にしておいた。
「うおおA席! こんないい席で観たことねえよ……ところで舞依、その首は?」
首の後ろに貼ったシップを見て、辰美が聞いてくる。
「ちょ、ちょっと寝違えて……」
「そうか……へへッ」
目を細めて辰美が笑う。
「どうしたの?」
「だって、舞依とプロレス観に行くなんて初めてじゃん? 楽しみでさ」
――そう言われれば、あたしは観客としてプロレスを観に行ったことがない。
まだ物心つく前に、母に会場へ連れて行かれたことはある。
母はスター選手なので、会場で一緒にいられることはまずなかった。
覚えているのは、控室で見知らぬ女性にかこまれて泣いている自分のことだけ。
正直、あまりいい思い出とは言えない。
だけどまあ、一度くらいは観ておいてもいいかもしれない。一度くらいなら。