第六話
――あたしは無力で、一人ぼっちだった。
左足にはナイフが突き立てられ、全身が動かない。
そんなあたしを、〈ジャガーの戦士〉が取りかこんでいる。
その間に仲間の〈鷲の戦士〉たちが、祭壇に寝かされている辰美を救い出した。
これでいい。少なくとも辰美は助けられた。
あたしは嬲り殺しにされるだろう。それでも最期まで抵抗してやるつもりだ。
足に刺さったナイフを抜く。血がほとばしり、全身の力が抜けていく。
最後の力を振り絞り、目の前にいる〈ジャガーの戦士〉にナイフを振り下ろした。
ナイフは、相手のマスクをかすめただけだった。
ジャガーのマスクが真っ二つに切り裂かれ、地面に落ちる。
その下に現れた素顔は――あたしの想像とは違っていた。
「……誰? 誰なの!」
自分の声で目を覚ました。
あたしはウインドブレーカー姿のまま、部屋のベッドに寝かされていた。
「ぐうううううっ!」
全身を切り刻むような激痛が襲う。
汗でベトベトだ。シャワーを浴びたいが体が言うことをきかない。
せめて着替えだけでもしたい。あたしはべッドから転がり落ち、暗い部屋の中を芋虫みたいに這った。
どうにかタンスまでたどり着くと、Tシャツと短パンに着替える。
それだけでマラソンを完走したくらいの体力を消耗したような気がした。
タンスに寄りかかって呼吸を整えていると、ノックの音が聞こえた。
「……舞依、起きてる? 入るわよ」
返事も待たずに母が入ってくる。明かりがついて、あたしは眩しさに目を細めた。
「大丈夫なの? 舞依が具合悪そうだって、辰美ちゃんが送ってきてくれたけど……」
「……」
あたしは答えなかった。どう答えていいかわからなかったし、答える気にもなれない。
「黙ってちゃわからないでしょ。何かあったの?」母はなおも尋ねてくる。
しつこいなあ、もう! あたしは全身の気力を振り絞って、叫んだ。
「なんでもない! なんでもないから、出て行ってよ!」
「そんなこと言ったって……」
「もうほっといてよ! あたしが何したってあたしの勝手でしょ!」
母の顔がゆがんだ。無言でドアが閉まり、遠ざかっていく足音が聞こえる。
部屋の中は再び静かになった。あたしはわけもわからず泣き出した。
――あたし、なんで泣いてるんだろう?
辰美たちがミリ女に殴りこみに行った件は、不問になりそうだ。
試合で決着をつける機会まで手に入れた。泣く理由なんてどこにもない。
だけど、涙が止まらない。
――違う。理由はわかってる。それを認めたくないだけだ。
悔しい……負けたことが! 恥ずかしい……泣きながら逃げたことが!
そんなみじめな自分を、母に八つ当たりしただけだ。あたしは最低の負け犬だ……。
考えるのもつらい。寝よう。寝て忘れよう。
着替えたときと同じくらいの体力を使い、明かりを消してベッドに戻る。
ほとんど気絶するように眠りに落ちた。
次に目が覚めたのは夜中だった。目を凝らして時計を見ると午前三時だ。
どんなに体がボロボロでも、生理現象は避けられない。あろうことかトイレは一階だ。
あたしは力を振り絞って立ち上がり、暗い廊下に出る。
そこで何かにつまずいて倒れた。その何かはあたしの体を柔らかく受け止めた。
「……お母さん?」
母は二階まで椅子と毛布を運んできて、廊下で寝ていたらしい。
「舞依、大丈夫なの? トイレ?」
相変わらずこれだ。デリカシーがない。年頃の娘にトイレかどうか聞かないでよ。
「なんでもないよ……ほっといてって言ったのに!」
あたしは起き上がろうとしたが、体は動くことを拒否した。
柔らかな毛布に顔をうずめながら、あたしは尋ねた。
「どうして……こんなとこに?」
「心配だからに決まってるでしょ。余計なことかもしれないし、無駄なことかもしれない。それでもここにいるべきだと思ったの。もしも舞依に何かがあったとき……そこにいなかったら、お母さんきっと後悔すると思うの」
「……」
せっかく渇いた涙が、また溢れ出して毛布を濡らす。
ひとしきり泣いたあと、あたしの口から自然に言葉がこぼれ出た。
「お母さん……あたし、強くなりたい。強くなるには、どうしたらいいの?」
それから学校に行けるようになるまで一週間ほどかかった。
久しぶりに教室に足を踏み入れると、辰美がいきなり抱きついてきた。
「舞依ー!」
「ぎゃあああ!」
歩けるようになったとはいえ、筋肉痛は治りきっていない。あたしは悲鳴を上げた。
「あっ、ゴメン! まだ治ってない?」
「ううん、へ、平気……」
あたしが席に着くまで、辰美が肩を貸してくれる。その間も辰美はご機嫌だった。
「で、結局原因はなんだったの? 風邪? インフル?」
「う、うん。そんなとこ。もう大丈夫だから……」
「ところで舞依、聞いた?」
「何が?」
「ミリ女との試合ですよ!」
英子と美子が割りこんできた。
「そうそう、ウチのプロレス同好会と、ミリ女プロレス部との試合。今年のクリスマスに」
「へえ……それじゃあ、活動停止は解けたんだ?」
あたしが話を合わせると、辰美が得意気に笑う。
「ああ、服部先生が頑張ってくれたんだよ。もう練習は再開してる」
「でもでも、どうしてこんな話になったの?」
英子が尋ねると、辰美は声をひそめた。
「実を言うと……ミリ女に直接話をつけにいったんだよね。アタシたちだけで」
「ええっ!」
「シッ! ……みんなも知ってるだろ。今度の件にミリ女が絡んでるかもしれないって。どうしても我慢できなくって乗りこんだんだ」
「それで、話がついたの?」
「まさか。お互いに手が出る寸前だったよ。だけどそのとき、変な邪魔が入ってさ」
「邪魔?」
「ああ、ウチの文化祭にも乱入してきた、白覆面をかぶった奴さ」
あたしは心臓が止まりそうになった。
「ミリ女の人だったの?」
「どうも違うみたい。あいつも黒覆面がミリ女の人間だと思ったんじゃないかな……で、そいつがミリ女の部長と試合を始めてさ。まあボコボコにされてたけど」
あたしは苦笑する。
「そのせいで、うちらはすっかりシラケちまった。ミリ女も同じだったみたいで、文句があるなら正式に試合しようってことになったわけ」
辰美は少し説明を省いた。まさか服部先生にバレたところに、あっちから提案してきたとも言えまい。
「それじゃあ、結果オーライじゃない」
「ああ……そう考えると、助けられたのかもしれないな。あの白覆面の奴に」
そっか。あたしのやったことも、満更無駄でもなかったわけだ。少し気が楽になった。
「それで、試合形式はどうなるの? タッグ? シングル?」
英子が食いついてくる。この子、そんなにプロレス好きだったっけ?
「時間無制限のイリミネーション・マッチさ。相手四人を全員フォールするか、ギブアップさせたほうが勝ち」
「絶対観に行くよ! もうあんな奴ら、ボコボコにしてやって!」
興奮する英子たちの表情を見て、あたしは思った。
――これでフクロウ仮面の役目は終わったんだ。
あとは辰美たちが鬱憤を晴らしてくれることに期待しよう。
――それなのに、あたしはなんでここにいるんだろう。
母の運転する車に揺られること三十分。
着いたのは畑でかこまれた中に建つ、倉庫を改造した建物。
誰も見向きもしないような色褪せた看板には、こう書かれていた。
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