第五話
「謝れ、と言われてもな……」
リングに立つ背の高い人が、戸惑うように言葉を発した。
短い髪から男かと思ったが、ジャージの上からもわかる立派な胸は、まったく男のものではない。
神様空気読めよ! ボーイッシュな女子なら胸もボーイッシュであるべきでしょ?
あたしが怒りの視線を向けたとき、ふと気づいた。
――あいつだ! 記事に載っていた、二年の鷲崎って奴だ!
「……やってもいないことを、謝る道理はないんでな」
「とぼけんな! その新聞を見ろよ。ウチで売ってたシャツを着た客がそんなにいるのは、どう考えても不自然だろ?」
辰美の声だ。倉田先輩が、珍しく強気の口調でそのあとに続ける。
「もう一枚の写真も見てください。防犯カメラに写ってるの、ここの生徒じゃないの?」
「こんなぼやけた写真じゃ、証拠にならないわね」
ミリ女の部員から、気の強そうな子が前に出てきた。
カチューシャで前髪を上げているので額が広く見える。あたしはその子にデコちゃんと名付けた。
「姉さんの言うとおりだ。それにあなたたちの学校から、うちにお客さんが来ることがそんなに不思議かな」
もう一人はデコちゃんの妹のようだ。
頭にバンダナを巻き、ノースリーブのシャツから盛り上がった腕の筋肉が見える。
「何しろあなたたちのプロレスは、散々な結果に終わったと聞いたからね」
「この! 誰のせいだちょ思ってった!」
周防先輩、もっと落ち着いて話してください。
「まあまあ、落ち着いて。何かの勘違いじゃないすか?」
別の声がした。姿は見えない……いや、よく見ると辰美の影に、背の低い子がいた。
「それとも、うまくいかなかった腹いせに喧嘩を売りに来たとか?」
「ハハッ! 面白いねえ。おチビさんはどいてな。アタシたちはジャガー魔人とやらに用があるんだ」
「ハハッ! こりゃいいや! 他所の学校に乗りこんで、オレをチビ呼ばわりか!」
辰美の言葉に、背の低い子の口調が変わった。
「先輩! こいつら殺っちゃっていいすか?」
「下品な言葉はおやめなさい、天童さん」
凛とした口調でそう言ったのは、赤いアマレスのユニフォームを着た、背の高い女子だ。
遠くからでもわかる美貌。盛り上がった肩と太ももの筋肉が、全身のプロポーションをまったく損ねていない。
新聞で見たミリ女プロレス部の部長――加賀翔子だ。
「リングを降りたら淑女であれ。それこそがミリオン女子プロレス部の理念です!」
「すみません部長! あまりに失礼だったもんで。では改めて……この方々を、殺らせていただいてもよろしいでしょうか?」
天童と呼ばれた子のかしこまった態度に、部員たちから笑いが起こる。
あたしは笑う気にはなれなかった。
白黒の新聞写真ではわからなかった、加賀の髪に見覚えがあったからだ。
桃色がかったブロンドの髪――魔人のマスクの下からのぞいていたものと同じ色だ。
「部長の加賀だな。ウチの文化祭を邪魔した奴も、そんなふざけた髪の色をしていた」
鏑木先輩が鋭い視線を向ける。加賀は長い髪を掻き上げ、鏑木先輩に触れんばかりの距離まで近づいた。
「この髪は母から受け継いだもの……それをバカにするものは、誰だろうと許しません」
「許さなければどうだというんだ?」
マズイ。一触即発だ。あたしはそっと扉を閉めると、トイレを探した。
――あ、別にもよおしたわけじゃないからね?
あたしはトイレに入ると、ウインドブレーカーを脱いで用具入れに放りこんだ。
水着とレガースの姿になり、マスクを頭からかぶると、洗面台の鏡に白い覆面レスラーの姿が映った。
「行くわよ……名前、なんだっけ?」
《ケツァルコアトルだ》
例の声が答えた。
「呼びづらいわ。“ケツ”でいい?」
《女の子がそんな言葉を使うんじゃない》
「じゃあ“アル”で。どうでもいいでしょ! 頼りにしてるからね!」
場内に戻ると、同好会とミリ女の部員が入り乱れて騒然としていた。
あたしは堂々と扉を開けたけど、誰も気づかない。
「待て!」
あたしは口調を変えて叫んだ。とたんに全員の視線があたしに集中する。
すっごい恥ずかしいが気にしている場合じゃない。階段を下りて、先輩と加賀の間に割りこんだ。
「おまえは、あのときの……」
鏑木先輩が、困惑した顔であたしを見る。
「なんなのです、あなたは……この人たちのお仲間?」
加賀も眉をしかめる。あたしは言ってやった。
「彼女たちとは全然、まったく、なんの関係もない! ただ、あなたのやり方が気に食わなくてね……ジャガー魔人さん」
「ジャガー魔人……? さっきからなんですの、それは?」
こいつ、まだシラを切るつもりか!
「どうやら、ミリ女の人間ではないようですが……あなたには関係ない。これは私たちの問題です」
鏑木先輩の言葉に、辰美が続ける。
「ああ、アタシたちでその女に土下座させてやんねえと」
「それ以上は求めません。弁償しろとも言いません。ただ謝ってほしいだけです」
倉田先輩も言い切った。
「その姿を写真に収めて、待ち受けにしてやるぜ!」
周防先輩がスマホを取り出した。先輩、それすごくカッコ悪いです。
「いい加減にしろ!」
リングから鷲崎が降りてきた。端正な顔に怒りがみなぎっている。
「黙って聞いていればいい気になって……土下座しろだと? ふざけるな! どうやら、力づくで帰ってもらうしかないようだな」
「上等だ。こっちも最初っから、ただで謝ってもらえるとは思ってない」
今度は鏑木先輩と鷲崎の睨み合いだ。なんなのこの戦闘民族どもは!
このままじゃあたしが出てきた意味がない。あたしははっきりと言ってやった。
「あなたたちは活動停止中の身でしょう。ここで問題を起こせば、ただでは済まないわ」
「……どうして、そのことを?」
「あらあら、そんな身分で喧嘩を売りに来たの?」
デコちゃんが嘲笑う。そして続けて言い放った。
「これだから、三流高校は……どうしようもないわね」
「なんだと……もう一ぺん言ってみろ!」
辰美がキレた。今にもデコちゃんに殴りかかりそうな辰美の前に、あたしは立ちはだかった。
「邪魔すんな! てめえもブッ飛ばすぞ!」
「やめなさい! ここで暴れたら、あなたたちは停学……いや、退学になるかもしれない」
「楽女をバカにされて黙ってられるか! 退学? 上等だ!」
「バカッ!」
思わず素で叫んでしまった。あたしは声を作り直して、辰美に言う。
「あなたはそれで満足かもしれない。だけどよく考えて。あなたの家族や友達が、そんなことを喜ぶと思うの?」
「うっ……」
辰美は落ち着いたようだが、まだ納得いかない様子だ。
「黒羽さん。今のは言い過ぎです」
そこに意外な言葉が響いてきた――加賀の声だった。
「この方たちがどんなに無礼でも、学校に罪はないはず……お謝りなさい」
「ですが!」
不満そうなデコちゃんを、加賀は有無を言わせぬ顔で睨みつける。
「……悪かったわ。今のは取り消すわ」
デコちゃんが渋々頭を下げる。加賀には相当な威厳があるようだ。
あたしもこの機を逃さずに鏑木先輩に言った。
「あなたもみんなを下がらせて……大丈夫、あなたたちの敵は私がとる」
鏑木先輩は何か言いたそうだったが、無視してあたしは加賀に言った。
「リングに上がれ。あなたに試合を申しこむ。私が勝ったら、この場でみんなに謝罪してもらおう。彼女たちの文化祭を荒らしたことをね」
「何度も言うが、私たちは何もしていない! 試合する理由も、謝る必要もない!」
声を荒げる鷲崎を、加賀が制した。
「構わないわ。試合がしたいというのなら」
「ですが、部長!」
「どのみち、おとなしく帰っていただけないようですし……このままでは時間の無駄です。いいでしょう。私に勝てたら、あなたたちの気の済むようにいたしましょう」
加賀は口元に笑みを浮かべて言う。
「……そのかわり、あなたにもそれ相応のものを賭けていただきます」
「相応の……もの?」
「あなたのマスクを賭けるのです。数奇者のその素顔、見てみたくなりました」
――全身の毛穴からどっと汗が噴き出した。
《どうする?》
アルが聞いてくる。どうするったって、今さら引っこむわけにいかない!
「いいだろう。私のマスクを賭けよう」
「決まりね。天童さん、ゴングを用意して。レフェリーは鷲崎さん、お願いするわ」
「おい、そっちがレフェリーを用意するのか!」
あたしは周防先輩の抗議を制して言った。
「心配ない。レフェリーの必要もないくらい、叩きのめすから」
「気に入りました……そう言えば、まだお名前をうかがってなかったわね」
加賀が満足気に笑う。あたしは名乗った。
「……フクロウ仮面!」
リングに先に上がった加賀が部員に声をかける。
「リングに階段を……」
「その必要はない」
全身に力がみなぎっている。あたしは助走をつけて跳び上がり、空中を一回転してリングに入る。
あたしの動きにミリ女の部員たちがざわめいた。
《舞依。体力を無駄に使うな。それだけ戦える時間が短くなる》
(初めて名前で呼んだわね。いいでしょ。こういうのは相手をビビらせたもん勝ちなのよ)
しかし、加賀は向こう側のコーナーで余裕の表情をしていた。
鷲崎はあたしのボディチェックをを済ませると、リングの中央に呼び寄せる。
「通三秒間のフォール、またはギブアップを奪ったものが勝者。拳による打撃、凶器による攻撃は禁止。リングアウトは二十秒以内に戻らなければ失格」
一通り説明を終えると、加賀が手を差し出してきた。
――握手? 冗談じゃない!
あたしは無視してコーナーに戻った。加賀は微笑を浮かべたままだ。
ゴングが鳴った。同時にあたしは飛び出した。
「ハチャ・ピエルナ!」
あたしの左足が、加賀の喉元目がけて弧を描く。
加賀はわずかに上体を反らしただけで攻撃を避けた。
足を踏み変え、今度は右足で後まわし蹴りを放ったが、それもかわされてしまった。
「すごい蹴りね……首を持っていかれそうだわ。当たればの話ですが」
「このっ……!」
あたしは続けて二発、三発とキックを放ったが、どれも当たらない。ほとんど動いていないのに!
「ひょっとして、蹴り技しかないのかしら……しょっぱいのね、あなた」
――しょっぱい? しょっぱいって何よ?
意味はわからないが、バカにされていることだけはわかる。頭に血が上ってきた。
あたしがもう一度ハチャ・ピエルナを打とうとしたとき、アルの声が聞こえた。
《待て! やけになっても当たらんぞ。体力を消耗するだけだ!》
(じゃあ、どうしろってのよ?)
《呼吸を整えろ。戦える時間は短い。少しでも体力を回復させるんだ》
そこで初めて、肩で息をしている自分に気がついた。それに比べて、加賀は汗一つかいていない。
「休ませないわ」
両手を広げて、加賀が迫ってくる。
あたしは正面から組んだ。全身に力をこめ、額を合わせると加賀の動きが止まった。
いける! このままマットに押し倒して、三秒間抑えこめば勝ちなんでしょ?
あたしはさらに力をこめた。両椀がはち切れそうなほど筋肉が膨れ上がる。
――次の瞬間、加賀が視界から消えた。
「……えっ?」
組んでいた手を離されたのだ。前につんのめったあたしは頭を抱えこまれた。
「ううっ!」
ヘッドロックっていうやつか! 見た目よりキツイ技だ。頬骨が割れそう!
《舞依、バックドロップだ! 腰をつかんで後ろに投げろ!》
(そ、そんなの、やったことないよ!)
《やるしかない。行け!》
こうなったらヤケだ。あたしは加賀の腰を背後から抱え、背筋に力をこめる。
「フンッ!」
一瞬、加賀の体が宙に浮いた。だが、そこまでだった。とてもじゃないが持ち上がらない。
あたしは背中からマットに倒れ、加賀の体に押しつぶされた。
「もう終わりなの? あっけないのね」
加賀は体を入れ替えてあたしを抑えこみにかかる。すぐさまカウントが入った。
「ワン! ツー!」
必死でもがくと、スリーカウントの前に肩が浮いた。
それでも加賀はしつこくあたしを組み伏せようとしてくる。
どうにか逃れようとしていると、右手がロープに触れた。
「ブレイク!」
加賀は素早くあたしから離れる。そうか、ロープに触れると“待て”なのか。
あたしが立ち上がると、呼吸を整える暇もなく、再び加賀が頭を抱えこんでくる。
またヘッドロックか――と思ったら違った。あたしの頭を膝に固定して、足を高く上げた。
「セヤッ!」
加賀が上げた足をマットに振り下ろす。
着地の衝撃があたしの頭を揺らし、さらに反動であたしの体が回転して、マットに叩きつけられた。
ロープにつかまって、あたしはかろうじて立ち上がる。
次の瞬間、喉に加賀の左足が食いこんでいた。
「ゲホッ!」
「どうかしら、自分の技でやられる気分は?」
ハチャ・ピエルナ――レッグ・ラリアット。
やろうとしていた自分が言うのもなんだけど、とんでもない技だ!
目の前に星が飛ぶ。呼吸ができない。首の筋肉が悲鳴を上げる。
それをもう一発喰らわせようと、加賀が構えた。
どう避けたらいいのかわからない。
頭の中が真っ白になったとき――あたしの体が無意識に動いた。
喉元を狙ってきた加賀の足を、しゃがみこんで避ける。
攻撃が空振りし、加賀が無防備な背中を向けた。
その間にあたしは、電線に停まる鳥のように、ロープの上に立っていた。
「なっ……!」
《舞依、行け!》
あたしは跳んだ。背後から相手の頭を両足で挟み、振り子のように回転する。
加賀の体は宙に浮いて、背中からマットに落下した。
そこに前方宙返りをしながら、全体重を乗せた右足を振り下ろした。
「シエラ・シルクラ!」
また聞いたことのない言葉が口からこぼれる。マットを揺らす音が、場内に響く。
だが、手ごたえはない。加賀は間一髪で体をかわし、あたしは尻餅をついていた。
「……!」
唖然とするあたしをよそに、加賀は喜びの表情を浮かべている。
「コルバタからの、回転式ギロチンドロップ……見事だわ! そうでなくては、そのマスクを剥ぐ価値がありません……さあ、最後まで試合を楽しみましょう!」
加賀が指を曲げて挑発してくる。
あたしは立ち上がった――その膝が再びマットに崩れ落ちた。
「……えっ?」
見えない何かに押さえつけられているみたいに、体が重い。足に力が入らない。
この感覚、前にも経験したことがある――まさか!
《舞依。残念だが……ここまでだ》
アルが重い声で言う。そして、あたしの全身を激痛が貫いた。
「うああああああっ!」
まるで手足をもぎ取られるみたいだ! あたしはマットの上を転がった。
加賀は何が起きたのかわからない、という顔であたしを見ている。
《舞依! 体が限界だ! すぐにマスクを脱げ!》
そう言われても、ここで正体をさらすわけにはいかない。
あたしは転がりながら場外に落ちる。落ちた衝撃が苦痛を倍増させた。
「ウグッ……!」
這うようにしてあたしは出口に向かう。早くここを出なきゃ!
「ファイブ……シックス……セブン……」
「どうしたのです! 早くリングに戻りなさい!」
鷲崎のカウントと、加賀の激昂した声が聞こえてくる。
知るか! これ以上つき合ってらんない! マスクを脱がないと!
あたしは四つん這いになりながら階段を登る――そこで辰美と目が合った。
辰美の顔は怒りに震えていた。目には涙が浮かんでいた。
「おい、ふざけんな! あんなデカイ口叩いて、逃げんのかっ! これじゃあ、アタシたちがバカみたいじゃねえかよっ!」
――それは今まで聞いたどんな言葉よりも、あたしには一番こたえた。
それでも情けないことに、あたしはこの苦痛から逃れることで頭がいっぱいだった。
「ナインティーン……トゥエンティ!」
ゴングが鳴らされ、試合は終わった。
――あたしは、負けた。
でも今はそんなこと、どうでもいい。早くマスクを脱がないと気が狂いそうだ!
必死で階段を這い上り、出口まであと少しというところで、あたしは取りかこまれた。
顔を上げると、意地の悪そうな笑みを浮かべたデコちゃんが目の前にいる。
「さあ、約束よ。そのマスクを脱いでもらわないと」
「ひっ!」
そんな! 嫌だ! ここで正体がばれたら、辰美に会わせる顔がない!
容赦なくマスクをつかんだ手から、あたしは必死でマスクを抑えた。涙が溢れてくる。
「何よ、泣いてんの? 情けないわね」
「おやめなさい!」
リングから加賀の声が飛んできた。
「こんなしょっぱい試合で剥いだマスクなど、なんの価値もありません。その無様な小鳥さんを逃がしてあげなさい」
デコちゃんが渋々、マスクから手を離す。
「フン……何がフクロウ仮面よ。これからはシオカラ仮面とでも名乗りなさい!」
ミリ女の部員たちの笑い声が響く。もういい! なんとでも言ってくれ!
あたしは出口のドアに手をかけようとした。それよりも早く、ドアは外から開いた。
入ってきたのは、良く知っている顔だった。
「おまえたち! ここで何をしている!」
「……服部先生!」辰美たちの表情がこわばった。
「鍵をかけておいた部室のドアが開いておった。まさかとは思ったが……」
拳を握りしめた先生の後ろには、見たことのない二人がいた。
一人は上品なスーツを着こなした四十代の男。粗削りだが掘りの深い顔立ちは、俳優と言われてもおかしくないだろう。
もう一人は上品なブラウスを着た白人の女性だ。アップにまとめた髪は、加賀に似た桃色のブロンドだ。
「これはどういうことですかな。他校の生徒が、無断でわが校に入るとは!」
スーツの男が険しい口調で言う。地面につきそうなくらい、服部先生が頭を下げた。
「本当に……申しわけない!」
「正式に抗議しますぞ。そちらの生徒さんには厳重な罰を――」
「お待ちください。理事長」
男の声をさえぎったのは、加賀だった。
「連絡に行き違いがあったようですわ。この方たちをお呼びしたのは……私です」
辰美たちだけでなく、ミリ女のプロレス部員からもざわめきが起きる。
「どういうことだ、翔子」
「ここでは加賀とお呼びください、理事長。別に変なことはありませんわ。同じプロレスを愛する者どうし、交流を深めようと思っただけのこと。それが何か問題でも?」
そう言えば新聞には、加賀は理事長の娘と書いてあった。
ひょっとしたら、隣の白人女性は奥さんかもしれない。それなら加賀のあの髪にも納得がいく。
「しかし、あの子らは活動禁止の身で……」
服部先生もあわてているようだ。その様子を楽しむようにリングを降りた加賀が言う。
「そうなのですか? それは、知らなかった私の責任です。罰を受けるならこの私が」
そう年齢の変わらない女の子が、大の大人を手玉に取る姿に、あたしは底知れない何かを感じた。
「ど、どうしますかな」
「むう……」
服部先生も理事長も、どうしたらいいのか考えあぐねている。加賀は笑っていた。
「問題はなさそうですわね。では……正式に、彼女たちに試合を申しこみます。日時は三ヵ月後、ミリオン女学園のクリスマス・パーティーで!」
再びざわめきが起こった。側にいるデコちゃんが、納得したようにうなずく。
「なるほど、そういうことですか。これは大勢呼ばないとですね」
「そのとおりです。みなさんにはっきりと見ていただかないと……わが校と後楽女子、どちらが上か」
この言葉に、服部先生が反応した。
「……いいじゃろう。そこまで言うのなら、うちも黙ってはおれん。三ヵ月後じゃな!」
「しかし、そんなことを勝手に決めては……」
「いいじゃありませんか、あなた。生徒の自主性を重んじる。この学園の気風ですわ」
白人女性が流暢な日本語で言う。どうやら悪いことにはならなそうだ。
――安心したとたん、全身の痛みに耐えきれなくなった。
《早くここを出ろ! すぐにマスクを脱ぐんだ!》
場内の視線は、加賀と理事長に向けられている。あたしは気づかれずにホールを出ることができた。
壁に手をつきながら廊下を進み、トイレに入る。
《……大丈夫か?》
答える気力もない。引きはがすようにマスクを脱ぐと、少しだけ楽になった。
「ううっ……」
それでも痛みがなくなったわけじゃない。体に無理やり言うことをきかせ、ウインドブレーカーを着る。
マスクをポケットに入れ、ふらつきながら外に出た。
正門までの道が果てしなく続いているように思えた。
陽も暮れて、シャッターを下ろした店の列が、なおさらあたしをみじめな気分にさせる。
「おつかれさまです。練習、厳しかったみたいですね」
能天気に声をかけてくる守衛を無視して正門を出ると、隠してある自転車に向かった。
胃がムカムカする。自転車が停めてある木の根元で、あたしは吐いた。
胃をからっぽにしたところで自転車にまたがると、バランスを崩して倒れた。
ダメだ。ペダルを漕ぐ力もない。
しかたなく押して帰ることにした。家まで五キロ以上……気が遠くなるような距離だ。
自転車が、荷物を積んだリヤカーみたいに重い。頭がボーッとする。
全身の痛みが限界を通り過ぎたのか、何も感じなくなってきた。
誰かが、あたしを呼んでいるような気がする。
ついに幻聴まで聞こえてきたか。冬山で遭難するって、こんな感じなのかな。
いや、確かにあたしの名前を呼ぶ声がする。あの声は……。
「舞依!」
辰美だ。プロレス同好会のみんなと、服部先生が駆け寄ってくるのが見えた。
「どうしたんだよ舞依、こんなところで!」
「ああ、辰美……」
「しっかりしろよ! すごい汗だぞ……舞依……聞こえるか……」
あたしは辰美の腕に倒れこんだ。目の前が暗くなり、辰美の声が遠ざかっていく。
――あとはもう、何も覚えてない。