第二話
「ご協力、お願いしまーす!」
声を張り上げるあたしの目の前を、来校したお客さんたちは無情に通り過ぎていく。
テーブルの上には山と積まれたTシャツ。あたしは頭を抱えた。
「なぜだ……なぜ売れない!」
楽女の文化祭では、毎年〈ボランティアTシャツ〉というものを販売している。
一枚一〇〇〇円で、その売上を被災地や貧しい国に寄付しようというものだ。
デザインは毎年変わるけど、基本的にはメキシコの民族模様風? なデザインで結構可愛いと思う。
現に初日には百枚近く売れたようだ。その二日目の販売を担当してるのがあたしなんだけど……。
「朝から二枚しか売れていない。このままではマズイ。あたしの沽券にかかわる」
誰かが冗談で言っていたように、メキシコから送られてきたポンチョだのソンブレロだのを着てもっと目立つべきだったかとも思ったが、十六歳になったばかりの乙女にそんなコスプレはないだろう。
ちなみに衣装はマネキンに着せて、スペイン語の看板と一緒に玄関口に展示してある。
朝から何回目かのため息をついたとき、正門のあたりが騒がしくなった。
――それだけで、あたしには誰が来たのかがわかる。
顔を上げるとやっぱりそうだ。母が正門から入ってくるのが見えた。
普段はジャージ姿のくせに、今日は派手なブラウスにサングラスで、有名人のオーラを振りまいている。
子供のころから何度も見ているが、こういうときの母は好きになれない。別世界に住んでいるみたいだ。
「おつかれ。どう、調子は?」
なんでそんな口調で話しかけてくるかなあ。親子だってバレちゃうじゃん!
あたしは一刻でも早く母に去ってもらいたくて、適当に大丈夫と答えた。
ところが母はその場を離れない。というより、離れられなくなった。
「……阿部真里亜さんですか?」
声をかけてきたのは三十ぐらいの男の人だった。学校にいる誰かの父兄さんだろう。
「あら、私を知ってるのね」
母はサングラスを外して微笑んだ。
「もちろんです! ずっと大ファンだったんです! あの、良かったらサインを……」
男の人は少年のような顔をしながら、自分のポケットをまさぐり始める。
紙とペンを探しているんだろうけど、そんなに都合よく持ち合わせているはずもない。
その視線が、あたしの目の前に積まれているTシャツにとまった。
「これにお願いします!」
男の人はお金をテーブルに放り投げて、勝手にTシャツとマジックを拾い上げた。
「もちろん、いいわよ。買ってくれてありがとね」
その言葉が合図になったのか、たちまち長蛇の列ができる。
Tシャツが飛ぶように売れ、あたしは対応に追われる羽目になった。
母は嫌な顔一つせず、サインをしながら一人一人と握手をし、写真を撮る。
その中に見たことある顔がいると思ったら、うちの先生だった。この忙しいのに何やってんの!
Tシャツは三十分もしないで売り切れた。校舎の時計台を見ると、もう一時半だ。
辰美たちのプロレスは二時から始まる予定だった。
「あっ、阿部さーん!」
最後のお客さんを相手しているところに、ポニーテールを揺らして辰美が走ってくる。
やはり緑のタンクトップをリンコスにしたらしい。
こうしてみると辰美もなかなかの美乳をお持ちで……って何考えてるんだあたしは。
「今日はありがとうございます! そろそろ準備を……舞依も来るよね?」
「あたしは……」
別に、と言いかけて辰美を見ると、潤んだ瞳でこっちを見ている。
そんな顔で見られたら断れないじゃない!
「い、行くわよ。せいぜい頑張ってね。それから……ありがと」
売上金の入った金庫を抱え、とりあえず母にお礼だけ言った。
母は一瞬きょとんとした顔をした。なんでそんな顔するかな、もう!
売上金を生徒会に預け、廊下から校庭を見下ろすと、試合の準備が進んでいた。
体操用の青いマットが敷かれ、並べたパイプ椅子にはお客さんが集まってきている。百人はいそうだ。
プロレスなんかに興味がある人がこんなにいることが信じられない。
もっとも辰美によれば、大きな試合には何万人も集まるというから、世の中どうかしてるとしか言いようがない。
玄関に下りてみると、例の衣装を着たマネキンが、誰にも振り返られることなく静かに立っている。
誰が悪乗りしたのか、覚えのないサボテンの鉢植まで置いてあった。
始まるまでまだ時間がある。そういえば実行委員の仕事に追われて、ゆっくり文化祭を見ていなかった。
文芸部の美子が同人誌を出すから来てくれと言っていたのを思い出した。二人の美少年が見つめ合うイラストの表紙だった。
内容がすごく、ものすごく気になる。
《ご来場のお客様にお知らせします。本日午後二時より校庭にて、プロレス同好会による学生プロレスが開催されます。ぜひお楽しみください。なお、本日はスペシャルゲストとして元プロレスラーの阿部真里亜さんを……》
放送を担当しているのは放送部の英子だ。あたしは文芸部の部室で、美子から同人誌を手渡されたところだった。
「校内、ガランとしてるね」
「みんなプロレスに行っちゃったみたい。あの阿部真里亜さんって人気あるんだね」
美子が眼鏡をかけ直して言う。
「えっ? そ、そうみたいだね」
母の名前が出たので動揺してしまった。あたしの親だって気づいてないだろうな。
「私も観に行きたいなあ。でも部室空けるわけにもいかないし」
「美子もプロレス好きなの? 意外」
「だって……プロレスって“受け”の美学なんでしょ?」
「……はあ?」
「辰美ちゃんが言ってた! 私も今回の作品は“受け”に力を入れてみたんだけど……」
なぜか美子の鼻息が荒い。とりあえず、あたしはページをめくってみた。
「うわあ。これって。うわあ」
「あとで感想聞かせてね」
あたしが返答に困っていると、また英子の声が聞こえた。
《さあ! 間もなく運命のゴングが鳴ります! 後楽女子初のプロレス大会、勝利の栄冠をつかむのは果たして誰か! 実況は私、放送部の英子がお送りします!》
ノリノリだ。英子もプロレス好きなのか?
《第一試合は一年の坂本辰美対、二年の倉田淳子さん! 柔道全国三位の実力者が巨漢をどう攻めるのか? 第二試合は二年の周防梨花さん対、三年の鏑木寛子さん! 周防さんはアマレス出身の実力者、対する鏑木さんはご存知のとおり、体育祭すべての種目で一位という天才! そしてそれぞれの試合の勝者が決勝で……キャアアアアアッ!》
英子の絶叫が聞こえて、あたしと美子は顔を見合わせた。
「え……何?」
「舞依ちゃん、あれ!」
美子が指さしたほうを見て、あたしは愕然とした。
――白い煙が校庭を覆っている。
「嘘でしょ……火事?」
あたしは同人誌を置いて部屋を飛び出した。
校庭に出ると、逃げてくるお客さんたちにぶつかりそうになった。
お客さんたちを避難させなきゃと思ったが、すでに誰かが正門から外に誘導している。
おそらく実行委員の人たちだろう。誘導は彼女たちに任せ、あたしは辰美たちのところに急いだ。
火の手は見当たらない。あたしは辰美に駆け寄ろうとして、思わず足を止める。
同好会のメンバーはマットで呆然としていた――その視線の先に見知らぬ女の人が、一人いた。
女は漆黒の衣装を身にまとっていた。黒いワンピースの水着が、バランスのいい体を際立たせている。
長い髪は桃色のブロンドで、人形のように美しい。
その顔は、獣のように尖った耳と、血のように赤い縁取りを施した黒いマスクで隠されていた。
「誰ですか……あなたは?」
鏑木先輩が不機嫌そうな声を出す。
「ここでプロレスをやると聞いたのでね……どの程度のものか、試しに来たのよ」
黒覆面の女が答える。ねっとりとした、背筋が凍るような声だ。
「ふざけるな! これはどういうつもりだ!」
周防先輩が手にしていた空缶を投げつけた。女が身をかわすと、缶はあたし目がけて飛んでくる。
危ないよ先輩! って言っても見えてないなあれは。
あたしは足元に転がった空缶を拾い上げた。
「発煙筒……?」
防災訓練でよく使われるやつだ。とりあえず火事じゃないならひとまず安心だ。
同時にちょっと腹も立ってきた――あの人誰? プロレス同好会が呼んだの? やりすぎじゃない?
「なんじゃなんじゃ、何事じゃ!」
勢いよく走ってきたのはクラスの担任、服部先生だ。
真っ白な長髪の、時代遅れな熱血教師タイプで、定年も近いはずなのに若い先生よりもよっぽど元気だ。
「服部先生! これ見てください。ちょっとやりすぎじゃないですか?」
空缶を手渡すと、先生の顔が曇った。
「むう……いくらプロレスの演出といっても、これはいかんな。注意してくる!」
服部先生は鼻息を荒くして、女のところに向かった。
先生は一分もしないうちに戻ってきた。
「先生、どうでした?」
「うむ。ああ素直に謝られるとなあ……今さら中止にするわけにもいかんし」
先生は渋い顔をしながら行ってしまった。ああもう役に立たない!
あたしが振り返ると、鏑木先輩と女は、今にもぶつかりそうな距離で睨み合っていた。
「男は単純ね。ちょっとしおらしい態度を見せれば、すぐに言うことを聞くんだもの」
女はあざけるように笑った。鏑木先輩が絞り出すような声で言う。
「いいか、十秒やる。その間に出て行け」
「出て行かないと言ったら?」
「叩き出す!」
言うよりも先に、先輩は女の左手をつかんで後手に絞り上げていた。
早いよ先輩! まだ二秒も経ってないよ!
先輩の早業に驚いていると、女はさらに驚く行動に出た。
マットを蹴り、前方に宙返りをする。尻餅をつくと、その反動で先輩の体が宙に浮いた。
「うっ?」
手を放す暇もなかった先輩の体は、一回転してマットに叩きつけられた。
「何しやがる!」
周防先輩が飛び出した。女の背中に蹴りを入れると、打撃音が校庭に響く。
「周防先輩! やっちゃってください!」
あたしが叫ぶと、先輩は得意気に親指を立てた。いや、そういうのいいから!
「この小娘が!」
女は先輩の両足をつかんで引き倒す。だから言わんこっちゃない!
仰向けに倒れた先輩の足に、女は自分の足を組み合わせていく。
プロレスに興味のないあたしでも知ってる、四の字固めとかいうやつだ。
「そらっ! そらっ!」
女は上体を倒しながら、マットを繰り返し叩いた。
「ホゲエッ! ホゲエエエエエッ!」
先輩がウシガエルのような悲鳴を上げる――本当にすごい美少女なんだよ?
周防先輩に夢中になりすぎたのか、女は背後から近づく影に気づかなかった。
「むっ?」
気づいたときには、倉田先輩が女を羽交い絞めにして持ち上げていた。
四の字は極まったままだから、二人分の体重を持ち上げていることになる。
こんなに力持ちだったの? 倉田先輩だけは怒らせないようにしなくっちゃ。
「そろそろ、おイタはやめにしましょうか?」
四の字を解こうとしているのか、倉田先輩が二人を上下に揺さぶり始めた。
「ブホギャアアア! アッコ! バカ! やめあいギャアアア!」
周防先輩がさっきと比べものにならないほどの悲鳴を上げる。
耳をふさぎたくなるほどの絶叫だったけど、おかげで四の字は解けたようだ。
自由になった周防先輩は軽く足を揉んでいたが、やがてゆっくり立ち上がった。
「よくやったアッコ! そいつを離すなよ! 絶対離すなよ!」
周防先輩は左腕を高々と上げて、気合いを入れるようにぴしゃりと叩く。
「今からその女を仕留める! 私のリカ・ラリアットでなあ!」
なぜだろう。嫌な予感しかしない。
「どぅおりゃあああ!」
水平に伸びた先輩の左腕が、女の喉元に叩きつけられる――寸前、女はするりと羽交い絞めから抜けてしまった。
「あっ!」
ラリアットは見事に倉田先輩の喉元をとらえた。
さすがに自慢するだけのことはある。倉田先輩は一発で失神した。
「アッコ! 大丈夫かアッコ!」
あわてて駆け寄る周防先輩の背中を、女が抱えこむ。
「危ない!」
あたしが叫ぶ間もなく、女の背中が弧を描いて、周防先輩をマットに叩きつける。
先輩は泡を吹いて失神した。
これなんて技だっけ? バックドロップ? なんとかスープレックス?
――ってそれどころじゃない。残っているのは鏑木先輩と辰美だけだ。
女が挑発するように指を曲げる。
「それで、次はどっちが相手してくれるの?」
「……」
鏑木先輩が辰美に何か耳打ちした。辰美は一歩下がったかと思うと、くるりと振り向いて走り出す。
――逃げた? そりゃないよ辰美! あんたはやる子だと思ってたのに!
「フン。可愛い後輩を逃がしたつもり? 感心ね」
女が鏑木先輩に近づいたとき――先輩まで背中を向けて逃げ出した!
「アハハハハ! 逃げるくらいなら、最初からプロレスをやろうなんて思わないことね!」
女の高笑いが校庭に響いた。
オーマイガッ……結局、プロレス同好会なんてこんなもんか!
まあこれで辰美も目が覚めて、くだらないプロレスなんか諦めるだろう。
とりあえず今は思いっきり下手に出て、あの黒覆面のお方にお帰りを……。
「辰美!」
「はいっ!」
辰美は立ち止まると、振り向きざまに両手を下で組んだ。
そこに鏑木先輩が跳び乗る。辰美の両手を踏み台にして、先輩は宙高く跳んだ。
「何っ!」
女は驚いたようだ。そりゃそうだ、あたしも驚いたもん!
先輩は相手の肩に跳び乗ると、頭を両足で挟み、時計の針のように回転する。
相当な力がかかったはずだ。女の体は宙に持ち上げられて、マットに叩きつけられた。
そこに辰美が倒れながら、相手のみぞおちにエルボーを落とす。
「グフッ!」
さすがに効いたようだ。おお辰美、あたしは最初っからやってくれると信じていたよ!
辰美はまだ攻撃をやめない。
相手の右腕を腕ひしぎにとらえようとする。柔道部のころによく使っていた技だ。
「むうっ……!」
女は手を組んで必死にこらえている。そこに鏑木先輩がゆっくりと近づいた。
女の両足の間に自分の足を差しこみ、巻きつけるようにして相手の右足首をひねる。
足首はありえない方向に曲がった。
「グアッ!」
女が組んでいた手も外れ、辰美の腕ひしぎが完璧に極まった。
――勝ったな。あたしが言うことじゃないけど。
ともかくこの騒動もひとまず終わり。お客さんを呼び戻さなきゃ。
――みんなどこまで避難させたんだろう?
そう思ってあたりを見まわしていたときだ。女が左手で胸元から何かを取り出すのが見えた。
女がそれを口に含んだかと思うと、真っ赤な霧を辰美の顔に吹きつけた。
「ううっ!」
辰美がうめきながらマットを転げまわる。
「ちょっと! 辰美に何すんのよ!」
あたしは思わず叫んだ。女は一瞬あたしを睨みつけたが、すぐに鏑木先輩へと矛先を向けた。
「辰美、大丈夫か……うっ?」
辰美に駆け寄ろうとする先輩を逃さず、女は蟹挟みで先輩を倒す。
さっきまでの余裕もかなぐり捨て、女は先輩を尖った爪先で蹴りつけた。
「アウッ!」
「このっ……このっ!」
背中を、脇腹を狂ったように蹴り続ける。爪先が体に食いこむ不快な音が響いた。
あたしの中に、怒りがこみ上げてくる。思わぬ言葉があたしの口から出た。
「……いい加減にしてよ!」
「なんか言ったか? そこの小娘」
女は足を止めて、再びあたしを睨みつける。
「いい加減にしろって言ったのよ、このクソ女!」
――言った直後に後悔した。女は先輩から離れ、真っ直ぐあたしに近づいてくる。
尖った耳を立て、口を真っ赤に濡らした姿は獰猛な肉食獣そのものだ。
こんなのに喧嘩売って勝てるわけがない。どうしてあたし、あんなこと言っちゃったの?
女は目前まで迫ってきている。あたしは固く目を閉じて、暴力を覚悟した。
一秒……二秒……しかし、何も起こらない。
かわりに聞こえてきたのは、覚えのある声だった。
「舞依。みんなを頼んだわよ」
「……?」
あたしはそっと目を開いた。派手なブラウスを着た母の背中が見えた。
母は真正面から女と組み合っていた。
両腕を大きく開き、頭と頭を突き合わせ、少しずつ女を押し返していく。
ああ、うん、娘の学校に来て、知らない人と喧嘩する母、ね。
――最悪だ!
とは言え、今は時間が必要なのも確かだ。あたしは辰美のところに急いだ。
「辰美! 大丈夫?」
「くそっ……目が!」
あたしはジャージの上着を脱いで、真っ赤に染まった辰美の顔を拭く。
近づいただけであたしの目までやられそうな刺激の強い液体だ。
こんなものを喰らったらひとたまりもない。改めて怒りがこみ上げてくる。
「舞依ちゃん、手伝ってくれ」
鏑木先輩はよろめきながら、気絶した倉田先輩の体を担いでいる。
消防士がやるような、両肩の上で体を横にする担ぎ方だ。
あたしも真似して周防先輩を担ぎ上げた……重ッ! 失礼だけど重いですよ先輩!
「とりあえず保健室へ! 辰美、つかまって!」
目が見えない辰美にTシャツの裾をつかませて、保健室に急いだ。
保健室には誰もいなかった。先輩たちをベッドに寝かせて、辰美を洗面台まで引っ張っていく。
「早く、顔洗って!」
「う、ううっ……!」
辰美が何度も顔を洗い始める。鏑木先輩はというと、フラフラと保健室を出ようとしていた。
「先輩! どこに行くんですか?」
「あの女に……借りを返す!」
そうは言っても、先輩は立っているのもやっとの状態だ。
「ダメですよ先輩! あの女はお母さんがなんとかします! 今は休んでください!」
「くっ……」
母の話をしたら、先輩も納得したようだ。
保健室から校庭の様子は見えない。先輩にこの場はまかせて校庭に向かった。
廊下ではみんなが窓の外を見ている。想定外の出来事に困惑しているようだ。
玄関にたどり着いたとき、ポンチョとソンブレロで着飾ったマネキンが目についた。
――あたしの頭の中に、ある考えが浮かんだ。
校庭ではまだ戦いが続いていた。母が女の両足を抱えこんで、背中からマットに叩きつけている。
「セヤッ!」
「ウウッ!」
女にさっきまでの勢いはなかった。
あたしが出る必要はないかなと思ったが、部外者の母にいつまでも暴れさせておくわけにもいかない。
そのとき、また女の手が胸元に伸びた。例の霧吹きをやるつもりだ!
母は見抜いていたようだ。女の手をひねり上げると、霧の元らしい小袋が落ちる。
「下手な毒霧ね。私が現役のころは、もっと上手な人がいたんだけど」
「フフ……」
笑いながら、女は足元の小袋を踏み潰した。赤い液体が飛び散り、母の顔を濡らす。
「!」
わずかに母の力がゆるんだ。女は腕を振りほどいて、一瞬で母の背後にまわりこむ。
女の両腕が、背後から母の首に巻きついた。母が苦しそうにうめく。
この女、よくも母を……。
あたしは女の後ろから近づいて――その頭にサボテンの鉢植を叩きつけた。
「グワッ!」
鉢植は粉々に砕けた。女が呻きながら母から腕を離す。
ちょっとやり過ぎとも思ったが、これぐらいやらないとあたしの怒りが収まらない。
女が怒りの形相で振り向いた。そして、あたしを見て目を丸くした。
――そりゃそうだ。ポンチョとソンブレロを着た女が目の前に立っていれば。
「誰だ、貴様は!」
女は母から離れて、あたしに近づいてくる。全身の血が凍るような感覚に襲われた。
だけど、ビビってる暇はない。あたしは全力で校門に向かって駆け出した。
「待てっ!」
女があたしを追いかけてくる。
追いつけるもんなら追いついてみなさいよ! 足には自信があるんだから!
もちろん、ただ逃げてるわけじゃない。あたしは校舎裏に続く狭い道に向かっていた。
創立以来、改築を繰り返したせいでその道は複雑に入り組んでいて、初めてうちに来た人は絶対に迷う。
そこに逃げこめば振り切る自信がある。あとは衣装を脱いで、何食わぬ顔で先生を呼んでくればいい。
――完璧だ!
あたしは予定通り校舎裏に続く道にたどりついて、愕然とした。
そこには道路工事なんかに使われる、鉄製のフェンスが立てられていた。
【文化祭期間中につき閉鎖】
そっかあ。お客さんが間違えて入っちゃったら大変だもんね。アハハハハ。
――絶体絶命!
体当たりしてみたが、ご丁寧に針金で壁に固定されたフェンスはビクともしない。
高さはニメートルくらいだ。なんとかよじ登れないこともないだろうと手をかけた。
「逃がさないわ……覚悟はできてるだろうな?」
背後から女の声がした。間に合わなかった……終わったな、あたし。
弾丸のように飛んできた女の膝が、鉄製のフェンスを紙のようにへこませる。
あたしは振り返ってぞっとした。無理だから! あんなの喰らったら死んじゃうから!
――って、ちょっと待って。
あたし追い詰められてたはずなのに、なんであいつがあたしの後ろにいるの?
女も理解できない、というようにあたしを見つめている。
「なんだ……今の跳躍は?」
そっかあ、あたしあいつを跳び越えて……ってええ? あたしが?
女は再び突っこんでくる。キックがあたしの顔面をかすめ、ソンブレロが宙に飛んだ。
同時にあたしはしゃがみこんだ。低い姿勢で回転しながら女の軸足を蹴る。
――なぜこんなことができるのか、自分にもわからない。
バランスを崩して倒れた女が素早く立ち上がり、あたしを睨みつけて言った。
「……そのマスクは!」
――マスク?
ああそうか。帽子が脱げても顔バレしないように、あの鳥のマスクをかぶってたんだっけ。
女は動揺していた。もう少しだ。できるだけ低い声であたしは言ってやった。
「……出て行くなら、今のうちだぞ」
「貴様、何者だ!」
あたしは脳細胞をフル回転させて、相手が怖がりそうな名前を名乗った。
「フクロウ仮面!」