第3話 初めての……
あたしは一瞬、お姉さんの顔に魅入りそうになった。
正直、これほどの美形な相手ならば、同性とかそういう細かいことはどうでもいいのではないかという気にさえなり……いや、細かくはないかな?
だ、だんだん訳が分からなくなってきた……。
いずれにしても、人生の最初で最後かもしれない接吻がこのような形になってしまうのは、なにやら非常に情けなことであるような気もするけれど、それよりも接吻への興味が勝ったあたしは、
「うん、うん、これは人助けだもの。
迷っている場合じゃないですよ!」
と、誰かに言い訳するように呟きつつ、カクカクと忙しなく頷く。
早速あたしは、お姉さんの為に用意したスープをスプーンですくい上げ、それを口に吹くんでからお姉さんの顔を覗き込むようにして顔を近づける。
しかしその時、視線を感じてあたしは動きを止めた。
お姉さんの胸の上に乗っていた黒猫が、責めるような目でこちらをじっと見つめていたのだ。
「うっ……!」
あたしの下敷きとなって潰された黒猫は、むしろお姉さんよりも危険な状態に陥ってしまったのではないかと思われた。
けれどその柔軟な身体構造が幸いしたのか、全く怪我も無く、お姉さんよりもいち早く意識を回復して彼女の胸の上に鎮座している。
それ以来、黒猫がそこから動こうとしない所を見ると、お姉さんにかなり懐いているようだ。
おそらくは彼女の飼い猫なのだろう。
そんな黒猫の視線を受け、あたしの決心は揺らぐ。
なんだか責められているような気分となって、酷く後ろめたい感覚になってしまった。
しかし今更後に退く訳にもいかない。
お姉さんを救う為には、どうしても何かを食べさせる必要があるのだから。
だけどこのまま黒猫の視線を浴び続けていては、どうにもやりにくい。
なので、あたしは手を「シッ、シッ」と振って黒猫を追い払おうとした。
でも黒猫は、全く動じないどころか、鳴き声の1つさえもあげなかった。
こんなに人間に対して警戒心の無い猫を、あたしは初めて見たような気がする。
あるいは主人のことを護るつもりでそこから動かないのかもしれないけれど、そう考えると力ずくで追い払うのは、なんだか可哀相だ。
仕方がないのであたしは、この黒猫の存在を無視することに決めた……が、1度邪魔が入ってしまうと、どうにも決心が揺らいでしまう。
あたしは顔が熱く火照るのを感じつつも、お姉さんの唇を凝視し、やるべきか? やらざるべきか? と、長い間葛藤していた。
でも、ようやく決心を固めて、彼女の顔に自らの顔を近づけた瞬間、
「!?」
こちらを見つめている黒猫以外の視線に気がついて、あたしは思わず口に含んでいたスープを吹き出しそうになった。
「ゲフンッ、ゴホッ、エフッ!」
必死でスープを呑み込み、なんとかお姉さんの顔にぶちまけることだけは避けられた。
ただ、ちょっと気管に入ってしまったようで……咳が止まらなひ……。
そんなあたしを気遣うように、
「……大丈夫か?」
お姉さんがゆっくりと身を起こしながら話しかけてくる。
「え、ええ、だ、大丈夫です」
あたしは取り繕うように笑った。
でも、物凄い勢いで顔が赤く染まっていくのを感じる。
勿論、その顔の赤さは今しがたむせた所為もあるのだけれど、どちらかと言えば羞恥心から来るものの方が大きいだろう。
まさか、いざスープの口移しを敢行しようとしたあのタイミングで、お姉さんが目覚めるとは思ってもいなかった。
あたしの動揺は凄まじく、それは傍目に見てもかなりの見物だったと思う。
それに自分の唇を奪おうとしているあたしを見て、お姉さんはどう思ったのだろう?
それを想像するとあたしは恥ずかしさのあまり、この場から猛ダッシュで逃げ出したい気分だった。
……うん、今なら何かの大会で優勝できそうなほど、速く走れそうな気がする。
いずれにしても、何か誤解があるかもしれないので、まずは状況説明を……というか自己弁護をしておくべきだろう。
「あ、あの、スミマセン。
あなたがお腹を空かせておられるようなのでスープを用意したのですが、なかなかお目覚めにならないので、その……口移しで食べさせて差し上げようかと。
いえ、その、別に変な下心とかは決してありませんよ、女同士ですし。
ある訳無いですよね? ハハ……アハハハハ」
と、必至に釈明したが、焦るあまり、なにやらいらぬことまでを白状してしまったような気がしないでもない。
けれど、それはそれで「正直な娘だ」と、相手に好印象を与えたかもしれない……という希望的観測にすがってみる。
実際お姉さんには、特に気分を害した様子は無かった。
「……そうか、手間かけさせて済まなかったな。
なんだか美味そうな匂いがしたから目が覚めてしまったよ」
「そ、そうですかぁ……」
あうあ……なんだか凄く顔が熱く感じるのですが。
今やあたしの顔は、真っ赤な完熟トマト状態だろう。
凄く恥ずかしいぃ……。
だってお姉さんは、つい先ほどまでスープの匂いに反応しなかった。
それにも関わらず匂いに誘われて目覚めたということは、もしかすると間近に迫ったあたしの口に含まれていたスープの匂いが、鼻から漏れて彼女の顔にかかってしまったからなのではないだろうか。
確かにちょっと興奮気味で、鼻息が少し荒くなっていた可能性も否定できないけれど……。
それを思うとあたしは羞恥心で悶絶しそうだった。
はうう……いっそのこと、墓穴があったら入ってそのまま朽ちていきたい……。
あたしはなんだか無性に溢れてくる涙を抑えることができなかった。
「……本当に大丈夫なのか?」
しかし、お姉さんは自分もロクに動けない状態なのに、あたしを気遣うような言葉を投げかけてくれた。
それによって、あたしは冷静さを取り戻す。
自分の立場と、そして何をすべきか、それを思いだしたのだ。
「い、いえ、大したこと無いです。
ちょっと……その、花粉症気味なだけですから」
言ってしまってから、もうすぐ秋も終わりで、花なんか殆ど咲いていないことを思い出した。
だけどお姉さんが、そのことに気づいた様子はない。
ふ~っ、なんとか騙せ……ああああっ!
神様、嘘を吐いてゴメンなさい。
今日は自主的に夕飯を抜いて悔い改めますので、許して下さい!
…………なんだかまた挫けそうになったけれど、とりあえず気を持ち直して、あたしは平静を装う。
「そ、それより、スープを召し上がりますか?
身体に力が入らないようでしたら、お手伝い致しますが?」
「いや……どうにか1人で食べられる。
……悪いな、こんな見ず知らずの者を相手に、食事の面倒まで見させてしまって」
お姉さんはゆっくりと頭を下げた。
その頭の上には彼女が起きあがったことで、結果的に胸の上から降ろされた黒猫がよじ登っている。
「いえいえ、困った時はお互い様ですから~」
微笑ましい光景を目の当たりにして、あたしは思わず笑みを浮かべつつ、スープを並々とと注いだお皿とスプーンをお姉さんに手渡した。
するとお姉さんは、遠慮無くスープを口へと流し込む。
明らかに食べるというよりも飲み干すような勢いだった。
やっぱり、かなり空腹だったのだろう。
というか、熱くないのだろうか?
「ああ、そんなに慌てて食べたら胃に悪いですよ。
ゆっくり食べても別にスープは無くなったりしませんから……。
おかわりはまだ沢山ありますよ?」
そう言った矢先に、「おかわり」とお姉さんはお皿を差し出して来た。
彼女はあたしの言葉を全く聞いてはいなかったようだけれど、倒れるほどお腹が空いていたのならば食べることに夢中になるのは無理もない……と、あたしは嫌な顔をせずにお皿を受け取って、そこにスープを注いだ。
「はい、どうぞ」
「スマン」
お皿を受け取ったお姉さんから、短い謝礼の言葉が返ってくる。
あたしは小さく微笑み、それから暫くの間、彼女の食事風景を幸せな気分で眺めていた。
お姉さんは食べるのに夢中で、あたしのそんな視線に最初は気づかなかったようだけれど、お腹が膨れて落ち着いてくると徐々に気になってきたらしく、食べるのを一段落させて語りかけてきた。
「……何がそんなに楽しいんだ?」
「いえ、その、あたしはトロいので、いつもはなかなか人のお役に立てなくて……。
それで、今日はお役に立てて良かったなぁ……と、思いまして」
そう、普段のあたしは不器用で要領が悪い所為か、なかなか人の助けになることができなかった。
いや、むしろ助けられていることの方が多いような気がする。
だからこそ誰かから感謝されるようなことができて、とても嬉しいのだ。
「ふう……ん。見上げた心意気だな」
「いえいえ、これも偉大なるワルダヴァオトゥ神のお導きの賜物です」
そんなあたしの言葉を受けて、何故かお姉さんはわずかに顔をしかめたように見えた。
……うん? あたし、変なこと言ったかな?