第26話 懐かしい呼び名と偽りの神
ソフィアの記憶が失われてしまったアディア。
残念──その一言では言い表せない感情が、私の胸中に渦巻いた。
それでも――、
「……私はイヴリエースだ」
「あなたがあの悪名高い……?」
「ああ……その悪名通りの人間だ……」
「そう……なのかな。
あたしは死に神や悪魔って聞かされても、あなたの名前とはどうしてもイメージが結びつかなかったの。
本人を目の前にしても……仲間を殺された最初の時だけは恐ろしく見えたけれど、同時に悲しそうにも見えた……。
あなたは優しい人だよ。
何故かあたしには分かる。
そうでしょ、イヴ?」
「――!!」
やっぱりこの子はソフィアだ。
「イヴ……って呼んでくれるのか……」
そんな私の言葉でアディアは初めて違和感に気づいたのか、当惑顔になった。
「アレ……?
つい口にしちゃったけど、馴れ馴れしくて嫌……?」
「そんなことは……無い」
「わっ!?」
私は思わず、アディアの小さな身体を抱きしめる。
伝わってくる体温の温もりが無性に嬉しかった。
私が最後に抱いたソフィアの身体はあんなに冷たかったのに、今はこんなにも温かい。
私の目からつい涙が溢れ出す。
「私の方こそ……馴れ馴れしくて済まないな」
「ううん……そんなこと無いよ。
なんだか嬉しい」
私達は暫くお互いの温もりを感じていた。
それから私達は、アディアの仲間を捜す旅路の中で色々なことを話し合った。
アディアはいわゆる天才というやつなのか、私以上に沢山の知識を持っていた。
それらの大半は、本から得た知識なのだという。
そういえばソフィアも本が好きだった。
そんなアディアから聞いた話の中で特に驚いたのが、ハイの信徒達に関することだ。
彼らの組織は俗称で「ハイの信徒」と呼ばれてはいるが、正式な名称を持っていない。
私達はそれを不思議に思っていたが、それも当然だった。
彼らはハイの教えを持ってはいるが、それを信仰している訳ではないのだという。
その教えを各々がどのように受け止めるのかについても、特段のルールは無いらしく、教えを肯定するのも、否定するのも、それは自由なのだそうだ。
だから仮に教えを否定したからといって、それを悪だと誰かから罰せられることも無いのだとか。
むしろ、勝手な私刑による制裁こそが、ハイの教えの中では否定的に唱えられているそうだ。
こうなると教えというよりも、単なる「情報」だと言った方がいいのかもしれない。
それでも時には何らかの要素で人々が集まって、組織めいた物を作ることがある。
例えばアディアがいた集団も、彼女を神聖視した人々が自然に集まって形作られたものらしい。
それが傍目には、ちゃんとした宗教組織のように見えていたのだ。
だが、そこには組織的な活動は殆ど無く、それぞれが自主的に思い思いの行動を取っていたようで、少なくともアディア自身が誰かに対して指図をしたことは、ほぼ無いという。
彼らがアディアを守ろうとしていたのも、ただ彼女を敬愛するが故だったのだろう。
私だって、今なら彼らと同じ行動を取る。
つまり、私達のハイの信徒に対する認識は、根本的な部分で勘違いをしていたことになる。
少なくとも、異教の邪悪な組織だという事実は無かったのだ。
では、我らがワルダヴァオトゥの信徒が邪神として認識していた「ハイ」という存在は、一体何者なのであろうか。
それについてはアディアが最も詳しく知っていた。
彼女にはハイの声を聞く能力が有り、つまり巫女のようなものなのだとか。
アディアの話では、ハイは自らを神では無いと公言し、そして自らを信仰の対象とすることも禁じているらしい。
それがハイの教えの中で唯一絶対の戒律だという。
しかし、それは何故なのか。
その答えは、この世界に神が存在しないからだ。
「でも、この世界の創造主がワルダヴァオトゥであることは、間違いないようだけどね……」
私はアディアのその言葉の意味が分からなかった。
創造主ということは、即ちそのまま『神』という意味ではないのか?
だが、アディアがハイから受けた託宣では、こういうことらしい。
ワルダヴァオトゥとハイは、本来神に仕える天使のようなもので、同列の存在らしい。
だからハイは本来の神を差し置いて、自らを信仰の対象とすることを禁じたのだという。
だけどワルダヴァオトゥは違った。
彼はあまりにも偉大な神を羨むあまり、神が創造した世界からほんの小さな欠片を切り離し、そこを自らの都合のいいように造り替え、そして神のように振る舞った……。
そう、この世界は偽りの神によって創造されたのだ。
だから世界は本来の神が形作る完璧な姿からはほど遠く、そこには悪意が満ち、争いが絶えず、人々はもがき苦しんでいる。
そして、そんな人々の救いを求める強い祈りが、ワルダヴァオトゥに力を注いでいるのだ……と。
確かに言われてみると、ワルダヴァオトゥが本当に全知全能で完璧な神ならば、それに対抗する勢力――いや、「悪」という概念そのものには存在する余地が無かっただろう。
それにも関わらず「悪」が存在するということは、それはワルダヴァオトゥが完全な神ではない、あるいはワルダヴァオトゥが、「悪」の存在を容認していることの証明だ。
どちらにしろ、私達の苦しみの一端は、神に起因していると言っても良いと言う訳だ。
更にハイが言うには、私達はワルダヴァオトゥが創り上げた「世界」という名の牢獄に囚われた生け贄みたいなものなのだそうだ。
魂が何度も生まれ変わって、生の苦しみをワルダヴァオトゥに捧げ続けている上に、どうやら人質のような立場にもあるらしく、本当の神やハイも迂闊にはワルダヴァオトゥに手を出せないらしい。
「本当の神様やハイの能力はあまりにも大きすぎて、下手に動かすとこの世界を完全に消滅させることになりかねない……。
勿論あたし達の魂も。
そんな理由で、本当の神様やハイはあたし達のことを救うことはできない。
ワルダヴァオトゥに至っては、自らの所有物をどのように扱おうか、そんなのはその時の気分次第だもの。
多くの場合、救うどころか逆に苦しめるだけ……。
だからハイは、あたし達が自らの力でワルダヴァオトゥを倒さなければならない……と伝えてきたの。
そしてこの世界からワルダヴァオトゥを排除することができれば、この世界は本当の神様が創った平和な世界に復帰することができる……って。
もっとも今は、ワルダヴァオトゥの能力で酷く世界が汚染されているから、その汚染が抜けるまで何百年……あるいは何千年の間は無理だろうけど……」
私はアディアの話を聞いて愕然とした。
勿論、それを全部信じることは難しい。
だが、私はもうソフィアの――いや、アディアの言葉は疑わないと決めた。
彼女達は決して偽りを言わないことを、そして物事の善し悪しを見極める能力があることを私は知っている。
アディアの言葉なら、それは疑いようのない真実だと私も信じよう。
しかしだとすれば、私達の信仰は何だったのだ。
何億もの人々が財を捨て、地位を捨て、家族を捨て、時には命さえも捨てて信仰を貫いて来た。
それは救いが欲しかったからだ。
この世に生きていく上で身に降りかかる、ありとあらゆる苦痛・恐怖・悲しみ・絶望から逃れたい一心で、せめて死後は神の御許で心安らかに眠りたいと、あるいは新たな来世で少しでも平安に満ちた生を得たいという、ささやかな願いの為に全てを投げうってきたのだ。
それほどまでに、この世には苦痛が満ちていた。
だが、私達は欺かれていたのだ。
私達を苦痛に満ちた世界へ封じ込めた張本人に、いくら救いを求めたところでそれは無意味だ。
私は元々ワルダヴァオトゥの敬虔な信徒と言えるほど信心深くは無いが、それを差し引いても、アディアの話はワルダヴァオトゥを見限るのに充分な内容だった。




