第22話 言えなかった言葉
ここから第2章が終わるまで、作中で最も重い展開が続きます。でも読んで欲しいです。
私の言葉を受けて、女の顔が怒りに歪む。
それはソフィアと似た顔でも、まるで違う生き物のように見えた。
彼女の卑屈な内面が滲み出ているからだろう。
「な、なんで関係の無い他人に、そんなことを言われなくちゃならないのよ!!
私はお腹を痛めてこの子を産んだのよ。
母親らしいことなんてそれだけで十分じゃないっ!!」
と、女はヒステリックな声を上げて私に噛みついてきた。
それをソフィアは、
「お母さん」
静かだけれど、どことなく逆らいがたい口調で女に語りかける。
「イヴは同じ孤児院で一緒に育ったあたしの姉です」
その言葉に女は一瞬固まった。
ソフィアの言葉には確かな拒絶の響きがあったからだ。
「私にはお母さん達の記憶が有りません。
正直、捨てられたことを恨みがましく思ったことも有ります。
それでも、お母さん達への思慕の念が消えたことはありません。
いつか会えたらいいと、何度もそんな夢を心に描いてきました。
それほどまでに親と子の血の絆は、強いものなのだと私は思います。
だからなおのこと、そんな血の絆も無い赤の他人の子であるはずのあたしを、実の子供のように育ててくれた孤児院の神父様や、家族として接してくれたイヴ達にはお母さんに対する以上の恩を感じます」
「……!!」
その言葉に女は絶句した。
ソフィアは実の親よりも、私達を選んでくれたのだ。
私は胸の内にジ……ンと染み渡るように、温かいものが拡がっていく感覚を抱いた。
そんな私の感動を余所に、ソフィアの言葉が続く。
「だけどそんな神父様達に対して、あたしは大した恩返しもできていません」
そんなことはない。
私はソフィアに命を救われた。
それだけでも充分過ぎる程の恩を受けた。
むしろ恩を返さなければならないのは、私の方だ。
それに故郷の孤児院だって「聖女様が育った場所」として有名になり、以前とは比べものにならないくらい寄付金が増えて、みんなの生活はかなり楽になった。
……無論、今この場では口にしないが、ソフィアにはいくら感謝してもし足りないくらいだ。
だけどソフィア自身は、まだ恩返しができていないつもりらしい。
「確かに今のあたしには地位がありますから、その気になれば神父様達に高い地位や大金を与えることも不可能ではないでしょう。
しかしそれは何処かに大きな歪みを生むと思うのです。
あたしの権限で思うままに地位を与えていたら、その結果、元々そこにいた誰かの地位を奪うことになります。
あたしが勝手に教団の資金を動かせば、その資金を納めた者、本来それを受け取るべきだった者に不利益が生じます。
そんな何かを犠牲にするような汚れた恩の返し方をすれば、それを受けた者は何者かの悪意までも受けることになりかねないと思うのです。
だからあたしは聖女という地位に頼ることなく、少しずつ自分だけの力で恩を返していきたいと思っています。
それはささやかで、必ずしも満足して貰えるようなものではないかもしれませんが……。
それでもそれが、あたしにできる最良の恩返しだと思っています。
そんな訳で、お母さんの希望には添えませんが、別の形で精一杯恩を返して行くつもりです。
ですから今日はお引き取り下さい。
連絡先を教えて頂ければ後日改めて面会を──」
「うるさいっ!!」
ソフィアの言葉を遮るように、女はソファーから立ち上がって叫んだ。
女のあまりの剣幕に、ソフィアも思わずたじろいだようだ。
「お……お母さん!?」
「お母さん!?
お母さんだなんて呼ばないでよ!!
あんたみたいな薄情者なんて、娘じゃないわっ!!」
「薄情だなんて……そんな」
そうだ、この女はソフィアの話の、何を聞いていたのだろうか。
ソフィアは彼女なりのやり方で、精一杯恩を返そうとしているのだ。
それが自身の望む形と違うからと言って、娘のことを薄情者扱いし、あまつさえ「娘ではない」と言ってしまう女の方がよっぽど薄情者だと私は思う。
いや、それは女がソフィアを捨てた時点で、分かり切っていたことだけれども。
だが女には、そんな自身を客観視できるだけの冷静さは残っていないように見えた。
もっとも、冷静な時でもその言動が大きく変わるような人間ではないと思うが、いずれにしても冷静さを失った女はまくしたてるように叫ぶ。
「なにが聖女様よ!
母親に対して恩返しもしないなんて、なんて非道い子なんだろう!!」
「そんな……お母さん。
恩返しをしないだなんて、あたしは……」
ソフィアは女を宥めようとしたのか、ソファーから立ち上がって彼女に歩み寄っていく。
しかし、その動きは唐突に止まった。
それを見た瞬間、私は猛烈に嫌な予感に襲われ、思わず駆け寄ろうとした。
そんな私の視線の先では――、
「やっぱりあの人達の言う通り、お前は悪魔の子だ!
あのおぞましいワルダヴァオトゥに利用される前に、母親である私の手でこうしてやるのがせめてもの情けだよ!
地獄へ逝け、神に牙むく悪魔の子よ!!」
口汚い罵りの言葉を受けながら、ソフィアの身体がくずおれる。
そんな彼女の胸には小さな傷口があったが、それが瞬く間に紅く染まっていく。
そして女の手には、刃渡りは小さいが、人の命を奪うには十分過ぎる程の力を持ったナイフが──。
馬鹿な、守衛は何をしていたのだっ!!
聖女の母だと遠慮して、所持品検査をしなかったのか!?
それとも守衛の中にも異教徒の手の者が入り込んで、この女に荷担していたのか!?
いや、今はそんなことを気にしている場合では無い。
「貴様ぁ!!
自分の娘に何をしたっ!?」
私は叫びつつ女の顔面を殴ると、彼女は壁際まで吹っ飛んでそのまま動かなくなった。
手加減をしていなかったから、下手をすれば死んでしまったかもしれないが、それは正直どうでもいい。
とりあえずは、これ以上の凶行に及ばないように無力化できればそれで構わない。
それよりも今は、1秒でも時間が惜しい。
私はすぐさまソフィアに駆け寄った。
「ソ、ソフィ、大丈夫か!?
いや、応えなくていい」
大丈夫か、なんて馬鹿な問いだった。
ソフィアの傷は一見して命に関わるものだと分かる。
まだ意識はあるけれど、呼吸は酷く乱れ、口から血液を溢れさせていた。
たぶん肺もやられている。
そしてソフィアの胸の傷から溢れ出した血液の量を見て、私は正気を失いそうになる。
この出血の量から察するに、心臓にかなり近い血管も切断されているはずだ。
これは外科手術でも行わなければ出血が止まることはないだろう。
私は無駄だと思いつつも、傷口に掌を当てて、少しでも出血を抑えようとした。
「ソ、ソフィ。
奇跡を……癒やしの奇跡を使えっ!!」
「駄目……ね、この傷じゃ。
使っている、余裕は無いわ……。
アレ……すごく疲れるの、イヴも知っている……でしょ?」
「ソフィ……!!」
私は愕然とした。
そんな私の顔を見たソフィアは、励まそうとしたのか弱々しくだが確かに笑った。
「……そんな顔、しないでよイヴ。
知って……いるでしょ?
神様の教えでは、人の生命は巡り巡っている……って。
すぐに生まれ変わって、イヴに会いに……くる、から……。
あんまり悲しまないで……ね?」
「馬鹿言うなっ!
お前がいなくなって、悲しくない訳がないだろう。
そんなことより、もう死んでしまうみたいなことを言うなっ!!
まだ助かるっ!!」
「う……ん、そうだね……」
ソフィアが小さく頷く。
しかし私にできることは、傷口に掌を当てて少しでも出血を抑えることだけだった。
私には彼女を助けられない。
だからといって、誰か医術の心得がある者を呼びに行こうとしても、とても間に合いそうもなかった。
それに私が助けを呼ぶ為にこの場を離れ、その間にソフィアが死んでしまうのは嫌だった。
誰にも看取られずに独りで寂しく逝くのは、可哀想じゃないか。
それに少しでも長く、ソフィアの生きている姿を見ておきたい。
……ああ、駄目だ。
ソフィアに「助かる」と言っておきながら、私はソフィアが死んでしまうことを前提として思考を展開してしまっていることに愕然とした。
まだ諦めるのは早い!!
だけど私には何もできない。
……神に祈ること以外は。
私は必死で祈る。
ソフィアが助かるのなら、私の命を差し出してもいい。
それ程までの覚悟で必死に祈るが、状況は何も変わらない。
「くそっ!! なんで血が止まらないんだよ!!
ソフィはあなたの為に身を粉にして尽くしてきた聖女だぞっ!?
なんで何もしてくれないんだっ!?」
「イヴ……そんな……悪態ついちゃ、駄……目だよ……」
「罰当たりなのは分かっている。
だけど……オイ、ソフィ!?」
私は改めてソフィアの顔を見て息を呑んだ。
ソフィアの顔色は、もう生者のそれのようには見えなかった。
おそらく彼女の命には、もう数分の猶予も残されていないのだろう。
「ソ……ソフィ」
思わず私の目から涙が溢れ出そうになった。
だが必死で堪える。
涙を見せればソフィアが心配する。
それは自分の心配ではない。
私の心配だ。
「ごめんね、イヴ……。
辛い想いを……させちゃって……」
ほら、思った通りだ。
私にはもう涙を堪えることができなかった。
「ソフィが……謝るな……」
謝らなければならないのは私の方だ。
私が狼に殺されかけた時、ソフィアがどんな想いで私を救おうとしていたのか、そしてどれだけの恐怖と悲しみを彼女に与えてしまったのか、今の私にはそれが分かる。
たぶん今私が感じていることと、全く同じはずだ。
それに私は、受けた恩を返す為にソフィアを追ってこのエルに来たのに、ソフィアを守ることもままならず、結局何もできなかった。
それを心底済まなく思う。
「謝らなければならないのは私の方だ!!」
「? ……言ってること、よく分からないなぁ……。
あたし、イヴには……なにもされていない、よ……?」
何もしていないから、何もできなかったから……私は謝らなければならないんだ。
「まだ謝っていない、いくら謝っても誤り足りないんだっ!!
だから、私の世界から消えるな、ソフィっ!!」
「よく、分からない……。
……でも、もう時間が無い、みたいだから……。
すぐにまた会いに来るから、お話はその時にゆっくり……聞くね」
ソフィアは弱々しく微笑む。
しかしその微笑みからは、見る見るうちに力が抜けていく。
「ソフィ!!」
まだ逝くな!
私はまだ謝り足りない。
恩を返しきっていない。
それに私はまだ言ってさえいないんだ。
そう、あの言葉を――、
「ありがとう……」
「────!?
ソフィアの口から出たその言葉に、私は言うべき言葉を失った。
「今まで一緒にいてくれて、ありがとう……イヴ」
あまりにも弱々しくて聞き取りにくい、ソフィア言葉。
私は彼女の唇の動きを呆然と眺めながら、その意味と、全てが手遅れとなってしまったことを理解していく。
そしてソフィアの唇が私の愛称を呼ぶ形に動いたのを最後に、それは永遠に動きを止めた。
「ソフィ……?」
気がつくと、ソフィアの胸の傷口から溢れていた出血は止まっていた。
私の願い通りに。
でも、そこに伴う結果は、私の望んでいたものとは全く違う。
それはもう流れ出る血が残っていないのか、それとも血を送り出す心臓が鼓動をやめたからなのか、どちらにしろ絶望的な理由によって出血は止まった。
「ソフィ? なあ、返事をしてくれよ。
また私のことをイヴって呼んでくれよ!?
なぁっ!?」
だけど私の呼びかけに対して、ソフィアは沈黙を守ったままだった。
その意味を理解した途端、私の目の前は真っ暗になる。
「うああぁ…………っ!!」
そこから先のことを私は何も憶えていない。
目覚めると自室のベッドの上で……。
全てが夢だったのかと安堵しかけたが、部屋の外からすすり泣きの声が聞こえてくる。
1人や2人のものではない。
まるで聖地エルの全ての人々が泣いているかのような……。
ああ……、やっぱり夢ではなかったのだ。
外から聞こえてくるすすり泣きと一緒に、私も泣いた。
泣いて、泣いて、泣き続けて、
……そして私の心は、何処か壊れてしまった。




