第14話 その名は
黒猫に無視されるようになってしまった今、そのぬくもりが失われるのが今更のように惜しい。
もっと触っておけば良かった……と思うのは、反省不足だろうか。
「あらら~、嫌われちゃったかしら……?」
「そうではないだろう……。
アレは元々人見知りが激しいからな」
「でも、イヴリエースさんにはよく懐いていますよね。
そういえば、あの子の名前はなんて言うんですかぁ?」
そんなあたしの質問を受けて、イヴリエースさんは何故か固まってしまう。
そして、軽く小首を傾げながら、
「……そういえば、考えたことは無かったな」
なんてことを言う。
あたしにはこの1人と1匹が、お互いに信頼しあっているように見えたので、これはかなり意外なことに思えた。
「え~、名前が無いんですかぁ?
可哀相ですよ、それはぁ」
「いや……いつも一緒にいたから、あまり他人にようには感じていなかったのでな……。
アレは私の一部のようなものだ……。
自分の手足に名前を付ける者なんていないだろう?」
「手足ですか……?」
あたしはどう反応していいのか分からず、なんとも名状し難い 表情になっていたと思う。
イヴリエースさんとあの黒猫は、飼い主と飼い猫という単純な関係ではないようだ。
けれどそれが、具体的にどういうものなのかは、よく分からなかった。
他の生き物を自分の一部として扱うことは、酷く傲慢な考え方であるような気もするが、その一方では、イヴリエースさんにとってのあの黒猫は、自分の手足と同じくらい無くてはならない存在だということでもあるのだろう。
だからきっと、あたしには入り込めないほど強い絆があるのではないかと思う。
でも、実際にお互いの存在がどのように役立っているのか、それは全くの謎だった。
「……何だかよく分かりませんが……。
でも名前はあった方がいいですよ。
付けてあげましょうよ?」
「そうか……?
では、君が好きなように呼んでやってくれ。
私は自分で自分の名前を考えるみたいで、なんだかバカらしいから嫌だ……」
「そうですか?
それじゃあ……う~ん……。
あ、『イヴ』っていうのはどうですかぁ?」
あたしがそう提案したら、イヴリエースさんの顔に珍しく虚を突かれたような表情が浮かんだ。
普段は表情を出さない人が表情を変えるほど、そんな突飛なことを言っただろうか?
「……イヴ?」
「あの……嫌でしたか?
あの猫が自分の一部みたいなものだって言っていたから、名前の一部も分けてあげたらどうかな、って思ったんですけど……。
……そうですよね、猫に自分の名前をつけられても、あまりいい気はしないですよね」
「いや……。
ただ、昔……私の親友が私のことをそう呼んでいたのでな」
「あ……あの亡くなられたという……。
じゃあ、やっぱりやめましょうか。
思いだして辛くなるんじゃないですか?」
「いや、いいよ。
私はあの娘のことは忘れたくないから……。
あの猫にその名をつけてやってくれ。
そしてその名を聞く度に、あの娘のことを思い出せるのなら……悪くはない……」
しみじみとそう語るイヴリエースさんの顔には、薄くだけれど確かに表情が浮かんでいた。
過去を懐かしんで小さく微笑んでいる彼女を見ると、その親友に対して並ならぬ思い入れがあることがあたしにも分かる。
「そうですか?
でも、今度はあたしの方がイヴリエースさんのことを愛称で呼ぶみたいで、なんだか照れくさいですね」
「構わんよ。
私は気にしないから、遠慮せず好きに呼ぶがいい」
「じゃ、じゃあ……イヴ~、イヴちゃ~ん。
こっちにおいで~」
あたしがちょっと照れながら黒猫に呼びかけると、不思議なことに今まで無反応だった黒猫があたし達の方に歩み寄ってきた。
「わあ~、反応してくれましたよ。
さっきまで無視されていたのに。
ほらイヴちゃん~。
キミもマントの中に入りなさい。
温かいから」
あたしが黒猫に手招きすると、黒猫は「にゃぁ~」と一声鳴いて、あたしの懐に潜り込んできた。
それはとても奇麗な、だけど何処かで聞いたことがあるような不思議な声だった。
「あ、この子鳴いた。
あたし、初めてこの子の鳴き声聞きましたよ!」
あたしが嬉々としてイヴリエースさんにそう報告すると、彼女からは、
「……私もだ」
と、意外過ぎる返事が。
「え!?」
まさか長い付き合いであるはずのイヴリエースさんですら、その鳴き声を聞いたことがなかったなんて……。
あたしは思わず驚愕の表情を、イヴリエースさんの方へと向けた。
しかしそれは、更に驚きの色で染まることになる。
「……ふふ、よほどその呼び方が気に入ったのだろうな。
サービスのつもりだろう」
イヴリエースさんが確かに笑顔を浮かべ、あまつさえ小さくだけれど声にも出して笑っていたのだ。
今までの彼女の無感情ぶりが不思議に思えるほど、その笑顔はごく自然で当たり前の感情の動きに見えた。
でも、何故かそれが奇跡的な物のように感じられて、あたしは彼女の横顔に見とれてしまった。
呆然とするあたしの懐では黒猫──いや、もうイヴと呼んだ方がいいだろう──がぬくぬくと丸まっている。
そんなイヴの気持ちを代弁するかのように、イヴリエースさんが今更のように呟いた。
「本当に温かいな……」
……と。
しみじみとしたイヴリエースさんの強い想いが、あたしにも伝わってくるようだった。
そして今まではすぐに消えていた彼女の表情も、今回はなかなか消えなかった。
それどころか、まるで何か希望を見いだしたかのように、その笑みは更に力強くなる。
それを見つめながら、この人は本当に信用できる人かもしれない……と、あたしは思い始めていた。
未だに謎の多い人物だけれど、それでもこれだけ奇麗に笑える人が悪人であるはずがない……と、思える。
むしろあたしなんかよりも、イヴリエースさんの方がよっぽど聖女に相応しいような気さえした。
だけどイヴリエースさんは異端審問官として、異教徒を何十万人も虐殺した……と、神父様は話していたし、それは彼女自身も認めている。
この人が人殺しだなんて……。
あたしにはそれが信じられなかった。
一体この人には、どんな事情があったのだろうか。
さっき大切な人が異教徒に殺されて、その復讐をした……と言っていたような気がするけれど……。
それは亡くなってしまった親友のことと、何か関係があるのだろうか。
それにあたしは、イヴリエースという名前を、この人と出会う前から知っている。
ワルダヴァオトゥ神教の歴史の中には、確かにその名前が記されていた。
それは聖女ソフィア様が没した直後──300年以上前のことだ。
その歴史の中には、ソフィア様を暗殺した異教徒達を討ち滅ぼした聖人として、イヴリエースの名が伝えられていたと思う。
そしてイヴリエースはある時を境にして、忽然と姿を消してしまったのだという。
その人は一体何処に行ったのだろう。
一体何が原因で、姿を消さなければならなかったのだろう。
あたしにはその答えが、目の前にあるような気がしてならなかった。
勿論、歴史上の人物と、すぐ隣にいるイヴリエースさんが同一人物ということは、常識では考えにくい。
けれど、何故かその可能性を否定する気にはなれなかった。
そもそもあたしが知る限り、異教徒との間で何十万もの死者が出るような大きな戦いは、ここ百年ほどの間には無かったはずだ。
ならばイヴリエースさんは、いつ異教徒の虐殺を行ったのだろう。
……それは歴史上のイヴリエースが、異教徒を討ち滅ぼしたという故事と無関係ではないのかもしれない。
あたしは思いきって、イヴリエースさんに疑問をぶつけてみることにした。
「詳しくお話を聞かせて下さい。
あなたは一体何者なのですか。
歴史上の人物と同じ名前なのは偶然ですか?
何を目的としているのですか?
そしてあたしは、一体どのような事態に巻き込まれているのですか?
真の聖女とか……あたしには分からないことだらけで……」
「……そうだね。
いざという時、君に協力してもらえないと困るから、全てを納得してもらった方がいいね。
でも、何処から話をしたらいいかな?
全部君に納得して貰えるように話したら、かなり話が長くなってしまうし……」
「構いません。
どうせこんな屋根の上では他にすることもありませんから、暇つぶしに片っ端から全部話してください」
「……それもそうだね」
と、イヴリエースさんはクスリと笑った。
どういう訳か、先ほどから随分と表情が豊かだ。
何か彼女の心の内で、大きな変化があったのだろうか?
思わずイヴリエースさんの顔をまじまじと見つめていると、それに気づいた彼女は照れたのか、マントによって口元を覆い、また表情を隠してしまった。
ああん、せっかく奇麗なのに勿体ない。
それからイヴリエースさんは、口元までをマントで覆っているにも関わらず、さほどくぐもらない、むしろよく通る声で語り始めた。
奇麗な顔は拝めなくはなったけれど、その聞き惚れるような美声を間近で聞けるのなら、それも悪くない。
まるで劇場の特等席にでもいるような気分だ。
「さて……じゃあ、まず私の生い立ちから話してみようかな。
……私は子供の頃に両親を亡くしてね、孤児院で育ったんだ」
え……あたしと同じ?
あたしも神父様に引き取られる前は、孤児院でお世話になっていたことがある。
そこでの生活はあまり思い出したくはないし、実際もう殆ど忘れかけているけれど、とにかくあまり良い思い出では無かった。
そんなあたしと同じ境遇だったイヴリエースさんに、なんだかとても親近感がわいてきた。
だけど、次のイヴリエースさんの言葉が、あたしを驚愕させる。
やっぱりあたしとは全然別の世界の人間なのだと、思い知らされた気がした。
「その同じ孤児院にね、ソフィアがいたんだ」
「えっ!?
ソフィアって、まさか聖ソフィア様ですか!?」
「そう、そのソフィア」
イヴリエースさんはことも無げにそう言うけれど、しかしそれは聖ソフィア様が生きていた時代から約300年以上も彼女が生きてきたという告白だった。
普通なら正気を疑われるような話だ。
だけどイヴリエースさんの口調は、とてもデタラメを言っているような感じではなく、まるで遠い過去を懐かしんでいるかのような重みがある。
そしてその信じがたいような話は、更に続いていった。
「ソフィアのことは今でもよく夢に見るよ……。
彼女は私にとって、世界にも等しい存在だったからね……」
それは長い長いお話だった。
ここまでで第1章はおわりです。
次回からは過去編で、イヴリエース視点になります。




