第10話 異端の聖者
「あ……!」
あたしは神父様の言葉で、何故イヴリエースさんの名前を何処かで聞いたことがあるような気がしていたのか、その理由に思い至った。
確かワルダヴァオトゥ神教会の歴史に一人だけ、『イヴリエース』と言う名を残した人がいたはずだ。
でも、その人は文字通り歴史上の人物で、もう何百年も昔に教会から去ってしまった人だ。
……まさかこのイヴリエースさんが、その人本人だなんてことは考えられない。
大体、もしそれが事実だというのなら、イヴリエースさんと古い馴染みであるらしい神父様も、何百年も昔から生きているという可能性もあるのでは……?
実際、先ほどイヴリエースさんが教会に籍を置いていた頃──つまり何百年も前?
その時の神父様は彼女の部下だった……というようなことを話していたし。
ああ……段々訳が分からなくなって来た。
混乱した情報があたしの頭の中を、火砕流の如き勢いで駆け抜けていく。
その火砕流に焼き尽くされて、心が真っ白なりそうになる直前、神父様の言葉であたしは現実に引き戻された。
「異端となった今、自らの行為の業を、その身に受けるは因果であろう。
そう思いませんか、エリセ様?」
「クッ……」
イヴリエースさんは小さく呻いて、仰ぐように神父様を見る。
そんな彼女の視線の中には、確かな怒りの色があるように感じる。
でも、神父様はそれを見て、むしろ楽しげに微笑むのだった。
「エリセ様、私の行為が間違っているというのならば、聖女となるあなたにはそれを罰する権限がある。
しかし、まずは私の前にイヴリエース殿の罪を問うべきだ。
彼女が制裁を加えた異教徒の数は、私とは比べものになりませんよ?
しかも今は、ワルダヴァオトゥ神へと牙をむく、異端者に成り下がっている。
私達を裏切って……ね」
そして神父様は、床に落ちていたイヴリエースさんの剣をおもむろに拾い上げ、それをあたしに手渡してきた。
「え……っ!?」
思わず受け取ったけれど、予想外の重さに取り落としそうになる。
これが人の命を絶ち切れるだけの力がある重み……。
あたしはゾッとして、その剣をすぐに神父様へと返そうとする。
けれど──、
「……あなたが罰しなさい」
「そ、そんな……!?」
「我等が信徒を護る為です。
あの女は異教徒を何十万も粛正した冷徹な女です。
いえ、それは神の意志に沿った素晴らしき行いでしたが、彼女が異端となった今、今度は我等が同朋を何十万と殺戮するかもしれないのです。
今ここで討たねば、取り返しのつかないことになるかもしれません。
さあ、これはあなたに課せられた責務です。
聖女という偉大な役に就くあなただからこそ、その手を汚さなければなりません。
か弱き民に代わりて、神に仇なす敵と戦うことこそが、我等聖職者の本分ですよ」
「あ、あたしが……!」
あたしは震える刃を凝視した。
いや、震えているのはあたし自身だ。
今あたしは、1人の人間の命を断ち切ることを迫られている。
これまでは命は尊び、育むものだと考えてきた。
誰かの命を奪おうなんて思ったことは、只の一度も無い。
むしろそれは最も憎むべき行為だと考えてきた。
そんなあたしが、命を奪うことを迫られている。
これが震えずにいられるだろうか。
神父様は仕えるべき聖女に対する進言として、形の上ではワルダヴァオトゥの信徒の正しき道を説いているように見えるけれど、実際には有無を言わせぬ命令に他ならなかった。
彼はあたしにとっては親代わりであり、ただでさえ強い力関係を持っているが、それ以上に死から蘇り、凄まじい膂力によってイヴリエースさんを叩き伏せるなど、いくつもの人間のものとは思えない力を見せた彼に、誰が逆らえるだろうか……。
あたしはゆっくりとイヴリエースさんに剣を向けたけれど、心の内ではまだ葛藤が続いている。
しかいつまでも迷ってはいられなかった。
この状況は、あたしが覚悟を決めなければ何も進まない。
あたしの判断が吉と出るか凶と出るか、それは全く予想もできなかったけれど、人1人の命が関わっているのならば、あたしは自分が正しいと思ったことを実行するべきだろう。
あたしは決心して、表情を引き締める。
「イ、イヴリエースさん、立って下さい。
そして答えてください。
最後にあなたには、いくつか聞いておきたいことがあります」
あたしに促されて、イヴリエースさんはよろけながらも立ち上がった。
そんな彼女の胸に、あたしは手にした剣の切っ先を突きつけている。
「あなたは本当に異教徒の人達を虐殺したのですか?
それが先ほどあなたが仰っていた、犯してしまった罪という訳ですか?」
「……そうだ」
「……何故、そんなことを?」
「それが私の職務で、あの頃は異教徒を滅ぼすことが、神の正義だと信じていたからな……。
……いや……違うな。
私は私の大切な人を殺した異教徒が許せなかっただけだ。
使命を言い訳にして、復讐をしたに過ぎないよ……」
「…………」
イヴリエースさんの顔に苦渋の色が浮かんだ。
それはさほど大きな表情の動きではなかったけれど、普段が無表情なだけに、彼女の心の内では余人には計りしれない大きな動きがあるのかもしれない。
そういう意味では、彼女の心の動きはとても分かりやすいのではないか……と、あたしには思えた。
「……自身の行為に後悔しているのですか?」
あたしの言葉に、イヴリエースさんはゆっくりと頷く。
「ならばあなたは罪を償うべきです」
「……そうだな。
君に断罪されるのならば、それも悪くない」
イヴリエースさんは深く項垂れて目を閉じた。
彼女はこの状況から逃げ出すことが不可能だと、既に覚悟をしているのかもしれない。
「……で、では行きます」
あたしは一瞬の躊躇いの後、決死の覚悟で行動に移る。
イヴリエースさんは身体をビクリと震わせて、大きく目を見開いた。
「……!!」
あたしはイヴリエースさんの胸を刺し貫くかに見せかけて、刃と柄の向きを逆転させながら剣を手渡した。
そして彼女に届くか届かないかの小さな声で囁く。
「あたしを人質にして下さい」
次の瞬間、イヴリエースさんは欠片も逡巡せずにあたしの身体を抱き寄せて、その喉元に刃を添える。
「とりあえず動かないで貰おうかな」
そんなイヴリエースさんの言葉は、あたしと神父様のどちらにも投げかけられたように聞こえた。
実際、首筋に刃を添えられた状態で下手に動こうものなら、怪我をする程度では済まないだろうから、当然あたしは従うしかない。
「…………どういうつもりかね」
神父様の顔に失望の色が浮かぶ。
その原因があたしであることは、こちらを見る厳しい視線が物語っていた。
「自ら人質になったように見えたが?」
「そうです」
「愚かな……!」
神父様に問われて、あたしは震えながらも、キッパリと答えた。
すると神父様の視線が更に鋭くなる。
ああ、やっぱりやらなければ良かった……と、少し後悔するけれどもう遅い。
「異端者に手を貸すことが、許されると思っているのかね?
たとえあなたが聖女であっても、万死に値するぞ」
「……納得がいかない理由で人を殺すよりは、殺される方がマシだと思いました。
それにイヴリエースさんが罪を償う為には、これからも生き続ける必要があります」
「なるほど、死は覚悟の上か。
となるとイヴリエース殿、その人質に意味が無いこともあなたは承知しているでしょう。
聖女1人と引き換えに我等が仇敵を倒せるのならば、それはさほど大きな損失ではないでしょう」
神父様はせせら笑う。
彼の言う通り、人質は相手にとって絶対に失えないほど重要な人物でなければ意味がない。
今やあたしは、イヴリエースさんの側につき、神父様に敵対したとも言える。
そんな相手の敵を、つまりは自身の味方を人質に取るなど、馬鹿げているにもほどがあるというものだ。
だけどあたしは、多少の躊躇を神父様がしてくれることを期待していたのだ。
血こそ繋がらないとはいえ、約10年にもわたって親子のように生活を共にして来たあたしを、神父様はそんなに簡単に見捨てられるものなのだろうか?
少なくともあたしはまだ、神父様のことを親だと思っている。
だけど、神父様には何の躊躇も無いように見えた。
それどころか、今にもあたしごとイヴリエースさんを嬉々として殺しかねない──そう思えるほど剣呑な視線をあたし達に向けている。
神父様が躊躇してくれる──そんな期待はあたしの思い上がりだった。
あたしと神父様の間には、そんな甘い関係など全く築かれていなかったのだ。
ああ……これまでに神父様と過ごしてきた10年間は、一体何だったのだろう……。
そう思うとつい視界が涙で歪んで来る。
「そうか……。
でも、もしこの娘が君達の求める真の聖女だったとしたら、そういう強気な発言はしていられないんじゃないかな?」
イヴリエースさんの言葉に、神父様の頬が微かに痙攣した。
あたしも初めて聞く言葉に、うっかり小首を傾げて刃が喉に軽く食い込む。
うおおぅ、今死にかけたっ!?
それにしても真の聖女?
じゃあ偽者の聖女も、いたってことなのだろうか?




