7話
荒い息を吐いて並木茶屋橋までたどり着いた。
橋の下の川は雨で荒れ、何もかも飲み干してしまいそうだった。
直ぐ目の前の墓地まで急ぐ。
同じような、墓が立ち並ぶ。雨のせいで酷く視界が悪い。
夏目さんは!?
カラン・コロン
聞きなれない、でも聞き覚えのある音。
彼女だ!白い花の添えられた墓標。傘をさした夏目さんの後姿が見えた。
彼の前には赤い着物の女。
彼女の白い手が夏目さんに差し出された。
だめっ!!!
無我夢中で走った、そのまま、夏目さんの腰に抱きつく。
決して彼女に渡さないように、強く。
「葵ちゃん!?」
彼の手から滑り落ちる傘がスローモーションで見えた。
「駄目。連れて行かないで!私から夏目さんを奪わないで!あ、貴女が、叶わない恋の代わりに夏目さんを連れ去っても、それは変わりでしかない、まがいものよ!良く見て、目の色、髪の色。貴女の夏目さんじゃないでしょ!」
貴女の愛した夏目氏ではないでしょう?
甘い蜂蜜色の髪も。
トンボ玉みたいに、冷んやりとした色、でも温かい笑みが何より良く似合う青灰色の瞳も。
貴女のものではない。
私の、特別な色なの。
ねえ、取らないで、とても大切な色なの。
息つく間もなく叫ぶ。
「私の夏目さんは、夏目さんだけなの!失ったら死んじゃう。嫌だ。連れて行かないで!いっちゃやだ―――」
同じ言葉ばかり繰り返す思考も、雨なのか涙なのか分からない顔も、もうぼろぼろだ。
まさに捨て身とはこういうこと。
「行ったりしないよ。」
ぽすりと濡れた頭に温かな手が乗る。
え?
「何処にも行ったりしないさ。僕が、葵ちゃんを置いて何処に行くというんだい?」
ええ?いっ行かないのぉ!?
思わず抱きついたまま彼を見上げる、彼は、ゆるりと微笑んだ。
とっても、安心する夏目さんの微笑み。
ぽんぽんと、頭に添えられた夏目さんの手が、大丈夫だよと私を慰める。
それだけで、荒らんでいた気持ちが、ゆっくりと静まって行くのが分かった。
夏目さんが、ついっと着物の女性に視線を投じた。
「さぁ、お待たせして申し訳ない。やっと終わりましたよ。約束のモノです」
懐から何か古めかしい本のような物を取り出し、目前に佇む女性に差し出した。
私は、わけも分からず、いまだ彼の腰にしがみついた状態で、二人を見比べていた。
彼女は白い手で其れを受け取り、宝物のように腕に抱きしめ涙を流す。
「ああ、これでやっと彼のもとに行けるのですね。夏目様、長い間本当にありがとうございました」
「なあに。貴女の意志あってのこと。僕はただ、少し手を貸したまで。さ、僕の事は気になさらず、彼のもとへ行って差し上げなさい。」
おそらく、待っておられる。と夏目さんは朗らかに笑う。
いったい、これはどういう展開なのか。
女性は夏目さんに微笑を返し、傍らの私にも微笑んだ。
そして、ゆっくりと頭を下げ、スウっと音もなく消えていった。
それを見届けた後、私を腰にぶら下げたままの夏目さんは、
「おや、晴れてきたね」
と空を見上げた。
小雨がまだ少し降る中、雲間から少し光が漏れている。
呑気な夏目さんを暫く唖然と見つめた後、はっ、となって彼を揺さぶる。
「な、夏目さん。無事なんですか?無事なのですね!どういうことです。怨念は?呪いは?一体全体…」
「随分心配してくれていたようだねぇ、葵ちゃん」
夏目さんは、にこにこと笑う。
懐からハンカチを取り出し、母親並みの甲斐甲斐しさでずぶ濡れの私をふいてくれた。
うう、されるがまま…。
くぅ、このまま夏目さんのほのぼのとした空気に騙されてなるものか!
私ばかりが消化不能で気分悪いのだ。
「どういうことか説明してください!!」
「そう?僕はもう少しこのままでもいいけどなぁ」
は!
今更、くっつき過ぎを自覚した私は、反射神経フル起動で、夏目さんから離れた。
ハンカチは有り難く、ひったくっておいた。
殿方に何時までも抱きついたままなど、何たる不覚!
ひょろそうに見えて以外と硬い腹筋とか、意識してませんから。ええ、決して!全く!
赤くなる顔を誤魔化すように、ごしごし拭く。
夏目さんは、私の様子を楽しげに眺めた後、落ちた傘を優雅に拾い、パタンと閉じて振り向いた。
「行こうか」
雨は完全に止んでいた。