6話
幾度となく流れゆく涙はまるで命の欠片のように、熱く頬を伝った。
ああ…行ってしまうのだ。私を残して行ってしまうのだ。
離れてゆく背中が雪の彼方に消えてゆく。悲しいくらい背景と溶け合って。
その背中はいつもに増して悲しかった。触れれば切れんばかりに。
出来得ることなら直ぐにでも走ってその背中に触れたい。
たとえその鋭さにこの身を傷つけようとも。
こんなに愛しているのに、私は待つことしかできないのだ。
それでも、あなたが待っていてくれ、と言うならば、私はいくらでも待ちましょう。
でも、約束が欲しい。どうかお願い、約束して頂戴。
そうすれば、私は何度でも思い出せる、貴方の愛を。
そうだわ。そうね、花がいい。あなたと初めて会った時のあの溢れる様な香り―
私たちの出会いの花……。
※※※
今日は雨。しとしと降る雨に金木犀の香はきっと流れて行ってしまうのだろう。
強過ぎれば邪険に思い。無くなれば悲しくなる。全く身勝手極まりない。
うーん。クッションを抱きしめながらごろごろ転がる。
「葵、休みだからってゴロゴロしてるな、“漣”行ってコーヒー豆買って来い」
「えー。雨じゃん。何もこんな日にぃ。自分が行けばいいでしょう」
大体、単にゴロゴロしてた訳でなくて、頭の中はフル稼働だったのに。
「俺は課題がある。晩飯の神を少しは敬え!」
いけず!何が神か!横暴!!ガリ勉!!!
猫のように摘まみ出されて、渋々珈琲喫茶漣へと足を運ぶ。
いつも家のコーヒーは漣で購入している。
あの店のブレンドは、コーヒー嫌いの私でさえ唸らせた逸品だ。
苦いだけのコーヒーではない。独特のコク、風味、まろやかさ。
何より引立ての豆の香りと言ったら。確かに買いにに行くだけの価値はある。
でも、なぁ。
ポツポツ鳴る傘を見上げながら嘆息する。
こんな日はいつも夏目さんのところで濃い茶を飲むのに…。
先ほど考えていた事が蘇る。
カサブランカの花言葉。“雄大な愛”“威厳”“高貴”
昨日調べ損ねたそれは、以外にも我母親が教えてくれた。
意外と知っているものだ。
母親の世代がおとめ世代なのかな。
どちらにしたって、愛しい人に捧げるには事欠かない花ことば。
何かが、引っかかるのだけど、何だかはっきりしなくて、もどかしい。
ピースの足りないパズルみたいだ。
漣と書いてある電光掲示板が近づく。
ここの商店街は、どこも古びれているけれど、漣の趣は好きだ。
好い風に味があるというか。レトロといった感じか。
カランカラン
ドアベルを鳴らして店内に入る。すぐ立ち上る馥郁たるコーヒーの香り。
それからジャズピアノ。店内には存在感大のグランドピアノが置かれている。
私は未だかつてあのピアノが弾かれる姿を目にしたことがない。
今日の演奏者もまた、人ではなくレコードのようだ。
「いらっしぇぃませ」
カウンターの中の30歳中頃、男の渋み満載のマスターこと小松親分が、にこやかに出迎えてくれた。
店内は、雨のせいか人は少なく、小松親分と黒いスーツの老年紳士の客がカウンター席にいるだけであった。
「こんにちは。小松親分」
「おおう。葵ちゃん久しいじゃねえか。えれぇ別嬪になっちまって。秀坊は如何したんでぇ?」
彼の“親分”たる所以はこの“べらんめぇ”口調にありそうだ。
「課題が忙しいそうで。ガリ勉中です」
秀は秀才の秀だ!と豪語する兄が頭上に浮かんで、思わず手で振り払った。
ええぃ、うっとうしいやっちゃ!
「そりゃ、秀坊らしいぜ」
カカカと親分が笑う。
ブレンドの豆を注文すると、
「まあ一杯ぐれぇコーヒー飲んでけ。御馳走してやらぁ」
と言われたので、お言葉に甘える。
老年の紳士に挨拶して、カウンター席に腰かけた。
「ほほ、ご近所の方かね、お譲ちゃん」
「はい、古本屋さんの近くに住んでいます」
「ほほう。夏目さんのかい?」
「彼をご存じですか?」
「私の母の実家がこの近所でねえ。わしが小さい頃は夏目さんにもお世話になった」
心臓がバクバクしていた。
だってもし彼の知る夏目さんが、今の夏目さんだったら。
それはつまり、彼が老いていない事実。
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「不思議な色の髪と目でしたか?」
「不思議?真っ直ぐな黒髪に、意志の強そうな黒い眼の凛々しい青年だったよ」
ホッとした気持ちと、腑に落ちない気持ちが同時に襲いかかった。と言うことは、もしかしてその人は夏目さんの曾祖父にでも当たる人なのかな。
「ワシの父親は私が本当に小さい頃、戦争に出兵してね。若かったワシのの母親を良く支えてくださった。父は結局帰って来なんたが、夏目さんは大層良くしてくれて。よく花など贈っては母を慰め、元気付けてくださった」
「花、ですか」
「ええ、白いユリをですな。カサブランカ、というのかね」
頭が真っ白になった。
今、何かが繋がった気がした。
「すいません、お母様は長い黒髪の赤い着物をよく着ていらっしゃった?」
震える声で、どうにか聞いた。
「おや、なぜお譲ちゃんがそれを?そう、母は赤い着物がお気に入りで・・・・」
なんだ、なんだ、何だ。
「失礼ですが彼女の命日って」
「今日です。わしは丁度、母の墓参りの帰りでして」
!!
「はいよ。ブレンドおまち…て。どうした葵ちゃん。顔真っ青でないかい」
小松親分が心配げに聞いてくる声も耳に入らない。
「お母様のお墓の場所を教えてください!」
「並木茶屋川麓の墓地で…」
私の剣幕に押されるように老紳士は、答えた。
聞くや否や。ガタリと席を立った。
親分の「おおい、葵ちゃん?」という声に返事をする暇もない。
転がり出るように店を飛び出した。ドアベルが騒がしく響く。
傘をさしている暇なんてない。
わき目も振らず雨の中を走る。
心臓が耳にあるみたいにバクバク煩い。
『男は時として花に思いを委ねるからさ』
―彼が彼女の前に現れるのよ。霊となった彼が―
「お久しぶりです。おそらく今年が最後になりますので、ご挨拶に伺いました」
『ええ、もうすぐきっと終わりますよ』
「あなたは、ちゃんと約束を守ってくださいますのね」
『違え様もない事だからね』
「真白のユリ、約束の証はもう必要ありません」
[相手が人間かどうかは疑わしいが…]
―シルシアに毎日花を贈るのよ、純白の花を。“私の気持ちは変わらないという証明。
私の愛の印です”って。毎日送られる花、それでも彼女は素直になれない。ある日、
いつもの時間に彼は花を届けに来なかったの。彼女はやっぱりって、思いながらも悲しくなった。
気付かぬ内に彼を愛していたのね―
《夏目さんは大層良くしてくれて。よく花など贈って母を慰め元気付けてくださった 》
【白いユリをですな。カサブランカ、というのかね】
【毎年ね。カサブランカを】
沢山の言葉が頭の中を駆け巡る。
色んな人たちの多様な言葉、それがピースのように重なった。
あの時の女性は、老紳士の母親に間違いない。彼女は若くして戦争で旦那を亡くした。
彼女を支え、カサブランカを贈った人物、それが、夏目さんの曾祖父である夏目氏。
込められた意味は恐らく“雄大な愛”
彼女は亡くなった旦那の愛を忘れられないままだったが、長い時を経て、支えてくれた夏目氏に心を砕く。
そして、思いは遂げられないまま。夏目氏あるいは白百合の女性は他界。
二人は結ばれなかったに違いない。
ここからは推測だけど、白百合の女性は、結ばれることのない恋に未練があった。
強すぎる念は呪いとなり得る。彼女は、今は亡き夏目氏の子息のもとに現れた。愛を貰いに。夏目氏子息は彼女の呪いを避けるため、約束という回避を試みた。
現に生きる人間の間は、真白カサブランカを贈ることで愛の証明を。
死が迎えにくるまでの約束。
しかし、『あなたは、ちゃんと約束を守ってくださいますのね』という彼女の言葉から、
夏目さんより前の子息は、死を迎えても彼女と結ばれることはなかった。
そして、彼女はまた残される。彼女は遂に、愛の証しでは駄目だと気付いたのだ。
今日という命日で、偽物ではなく、夏目さんを連れ去ってしまうつもりだ!!!
―ええ、もうすぐきっと終わりますよ
いやだ。嫌だ。絶対終わらせたりしない。
夏目さんを奪わせたりしない。
間に合え、間に合え!