47話
―さみしいの?ポティ―
―何故さ?ちっとも。平気だよ―
―ホントにそう?―
―ああ、僕は何でも知っているから、この本たちがなんでも教えてくれる。だから平気だよ―
―本当にそう?そんなに泣いてるのに?きっときみは自分の美しさにも気付けないでいるんだね―
※※※
本棚の森をゆっくりと進む。古本屋の独特な匂いが好きだ。
その本に染みついた過去の香り。
ひしめくようなそれぞれが合わさって古い紙が醸し出す独特の香り。
どれを読もうか。と視線を上から下へと滑らせる。
夏目さんのお店の本はかなり古い本が多い。私の理解では追いつきそうにもない漢字だらけの本だとか、墨で描かれたミミズのような文字だとか、読解不明の者々。
だから、こうしてそれらの本棚に視線をやっているのもただの冷やかしのようなもので、本当の目的はもっと下の本棚の一角のスペースにあった。
本棚の下段、幼かったころの私のために出来た絵本のスペース。
「読んで読んで」と夏目さんに何度も強請った。
ちいさくなくなくなってしまった私は何時の間にか此処の存在を忘れていったのに、そこにはちゃんと絵本のスペースがひっそりとそのままにあった。
しゃがんで、それらの背表紙を眺める。
私の通り過ぎてしまった過去。埃も積もらず、ひっそりとそこは存在した。
大好きだった、ちいちゃんと王子様シリーズ。
あんなに好きだったのに、記憶の中のそれらは鮮烈なのに、何時から読み返さなくなってしまったのだろう。
そして、夏目さんはどんな気持ちでこの場所をこんなにも綺麗に残してくれているのだろう。
「あ、これ」
冷えていた指先を無意識にこすり合わせてから手を伸ばしたのは、ちょっと切ないアナグマさんのお話だ。
直接的ではない死のお話。
とても綺麗にやさしく悲しく描かれている。
アナグマさんは、元気にトンネルを抜けて行ったのに、せつない気持ちになった。
死、なんてもの幼いあの頃からしたら一番遠いもののはずなのに、あの時とても敏感にそれを感じとった。今では感じ得ないありえない柔らかさで、なにか大切なものを植え付けられた。今の私がこの本を初見で読んだとしても感じられない感情を。
本の表紙を見ただけで思い出されてくるじんわりとした寂しさ。
そっと、本の表紙を撫でながら思う。
「ふしぎだなぁ」
不思議だな、と思う。
ともすれば生活の中で消えてしまうような感情が、まだここに残っている。
幸福で守られた環境の中で聞いた、物語は優しいようなかなしいような掴みとれない大事な感情を心に植えつけていたのだ。
その時の感情をそのままに思い出すのは、きっと子どものころの柔らかいこころで受けとめたからなんだろう。
成長する度にきっと、身につけなくていい余計なものを身につけてしまう気がしてしまう。自分がどう見られるか気になって、純粋に好意すら表せない。
子どもだから許されていたんだって自分を納得させて、我慢することも増えた。
なんだろう。今の自分に満足していないのは違う。きっと過去の眩しさに目がくらみそうなんだ。
絵本を何冊か手にとって、覚束ない足取りで夏目さんの斜め前の何時もの椅子に座る。
夏目さんは、ゆったりとした動作で本を捲る。しゅるりしゅるりと。
ストーブの上のヤカンがしゅんしゅんと音を立てている。
この特別でもなんでもない時が、きっと特別だったと振り返る時がくる。
そしてその時の私は、今この時の私を眩く思い返すのだろうか。
いつまでたっても過去は輝かしく、過ぎ去ってみなければその美しさを噛締めるように抱けないのだ。
それはなんだかまるで、何時までも実らない恋のようだ。
私はあの頃よりずっと成長してしまったし、時を止める術など持ち合わせてはいないのです。
過去に嫉妬したりばかみたいな気持になっては繰り返し繰り返し、振り返りながら今を判断して、大丈夫大丈夫と自分を励ましながら一続きの道を恐る恐る進んでいくのだろう。振り返れば貴方はいるけれど、進む先に貴方がいるか分からないから。
だからこんなにも、焦るような気持ちになる。
だけど、だからってどうする事も出来きず、ただ、ただ進むしかない。
そうして、否応なく歳を拾っていく。
「まいったねぇ」
夏目さんが、苦笑するようにそうこぼす。
見るともなく絵本を捲りながらぼんやりと夏目さんを見ていたら視線なんかちっとも感じてない風だったのに。
青灰色の視線が私を据えて、揺れている。
見ていたことなんてもうばれているし逃げられるはずもないのに、私は視線を泳がしてその深い色から逃げた。
「そんな顔をしては、駄目だよ」
だめだよ。
諌められた意味も分からぬまま、私は窺うように夏目さんを見た。
「そんなかおしても、だめだぞ」と兄には何度も咎められた経験はあるが、そう言う時の兄は往々にして私の想いを聞いてくれるのだ。だからって今私が何かを強請ったりなどしていないし、夏目さんにそんなことを言われる筋合いなどないのだ。強いて言えば、ぼんやりと綺麗な顔を眺めていたけれど、そんなこと何時ものことでしょう?
私の首の動きに合わせて、夏目さんも同じように首を傾げる。
それからうーんと思案するように視線を宙にやってから、ぱたりと手にしていた本を閉じた。
「予想はしていたが、こうも強烈なものか」
独り言のような苦言。
彼にしてはとても珍しい。
「なにを言っているんです」
「何をいってるんだろうね」
真顔で返したら、真顔で返された。
なんなんだ、ほんとに。
そんな顔ってなんなん。
そっちこそ眺めたくなる顔して、私の視線を奪ってくるくせに。
なんだかとっても不毛な会話だ。
お互いにきっと言葉が足らないのに、言うつもりもない。
夏目さんも。
わたしも。
溢れだしそうなコップの水みたいにぎりぎりのところで何かを耐えているみたい。
こぼしてみたらどうなる?
そこから溢れ出てくるもので溺れてしまうかな。
顔を傾けたままでいると、髪の一房が肩を滑り落ちた。
その小さな衝動にまかせて、言葉をこぼした。
「すき」
すき、すき、すき。
持て余してるの。
ずっと。
こぼしでもしないと、私が溺れてしまう。
あんなに伝えるのとためらっていた言葉が、一度出てしまえば箍が外れたように溢れてくる。
伝えたって、うんって言ってもらえたって、焦燥はやまない。
みんながみんなこうなのかな。
この先どうしたらいいの?
真顔を崩したのは、夏目さんの方。
余裕そうににっこり笑うものだと思ったけれど、そうじゃなかった。
ふいと私から視線を反らす珍しい仕草。
「何を言ってるの」
「何を言ってるんでしょうね」
先程の応酬とはまるで逆のやりとり。
夏目さんは、本当に珍しく、そっけなく目を反らしてちょっと不機嫌そうに言った。
※※※
家に帰ってぼんやりと机の上に真っ白な絵本を広げている。
絵本を作る冬休みの宿題。
ふいに手にとった金平糖の入った瓶を掌の上で転がした。
瓶の中でカラリカラリと音を立てる。
それをそっと置いて、引き出しの中から椎名君が持っていてと言ったノートを出す。
――特別
自分の書いたもの、自分の大事な一部を誰かのために。誰かに持っていて欲しいとそう思う気持ち。
私は、きっと彼のような才能もないし、きっと形にしたって恥ずかしいような出来栄えになるんだと思う。
だけど、あの夢を思い出す。
キラキラした世界で、夏目さんは蹲っていた。
私のあの時の言葉は、夏目さんに伝わったのだろうか。
私はそっと鉛筆をその真っ白なページに滑らせた。
どれくらい集中していただろうか。
鉛筆で下書きして、ペンでなぞって、色鉛筆で塗った。
絵は余り得意ではないけれど、出来るだけ丁寧に丁寧に描いた。
さみしい子ネズミさんのポティ、自分は一人ぼっちだって思っててでも寂しくないって言う、そんなことないよ、寂しいって言っていいんだよ、顔を上げたら大切なお友達が実は近くにいるんだよって言う単純なお話。
色々想いをこめて描いたつもりなのに、読み返してみると本当に単純で、稚拙なお話で笑える。
だけど、伝えたかったの。
「私がいるよ」
だから、寂しそうにしないでって。
あの時あの夢でそう伝えたかったの。
※※※
「飯ができたぞ」
兄が呼びかけで、居間に行く。
机の上にはほっこりとおいしそうなおでん。
忘れていた空腹を思い出したように、胃がきゅっと鳴いた。
兄の正面に座って、いただきますと手を合わせる。
からしをたっぷり付けて、味がしみしみの大根をほおばると熱いのと同時にからしがつんっと来て口があわあわとなった。
ふうふう、はふはふ無言でおでんをほおばっていると、不意に視線を感じて顔を上げる。
「なに?」
兄が私をじっと見ていた。
自分の小皿によそったおでんは全く減っていない。
そのくせ眼鏡は湯気で若干曇っており、表情が読み取り辛く非常に怖い。
「葵」
「うん?」
「にいちゃんな」
「うん」
「兄ちゃん実は前々から都心の大学を担任に進められてな」
何でも一人で決めて、何でもやってしまう兄がこんな風に歯切れ悪く話を切り出すのは非常に珍しいことだった。
「うん」
兄が、何を思ってこの話を切り出したか分かる。
兄は、私の事が無ければきっと躊躇わずに自分を試しに何処までも行く人だろう。
兄は、何時の日かご飯の神になった。
きっと自分の中で私が一人でも大丈夫になるまできっと兄なりに、兄としての役目を果たそうと思ったのだろう。
この家の中で兄が作りだす晩御飯が一番あったかかった。
「ものは試しで受けてみようかと思うんだ、が」
いや、受かるかは別としてだな。
兄は何処までも歯切れが悪かった。
きっと、この話を切り出すまでいろんな葛藤があったのだろう。
センター試験まで、あと数日しかない。
私は、私の事で精いっぱいすぎた。
「きっと受かるね」
箸を置いて私がそう言うと、兄は探るような目で私を見た。
「お前はそれでいいのか?」
いいか悪いかで聞かれると…。
「よくないよ。だって、私兄さんのご飯たよりすぎて一人じゃまともなご飯作れないよきっと」
ごめんね。
本当にごめんね。
「葵?」
「受かったら、お料理教えてね」
ご飯だけじゃないよ、兄の作ってくれた場所が何より大事だったよ。
だけどだからって、兄がずっとそこに留まっていることなんて無いんだもの。
私が引きとめたら駄目だってちゃんと分かるよ。
「葵、もう変わるの怖くないか?」
暫く黙っていた兄がそう口を開いた。
小皿のおでんの湯気もすっかり収まり、兄の眼鏡が透明度を取り戻している。
瞳は、いろんな感情でゆれていた。
「怖くないわけじゃないけど」
怖くないわけじゃないけど、きっとそういう時なんだと思う。
何かが変わり始める。
それはとても自然なことだから、それを不自然に押しとどめてはきっと駄目なんだって思うよ。
きっと一番大変な時に、私のことを考えてくれてありがとう。
「お兄、ありがとう」
「まいったな。なんでかなんかお前のほうが先に…どっかに行っちまいそうだ」
「変なの。兄さんが離れていこうとしてるんじゃん」
変なのはお前だよ
この話題続ける?
やめよう。
そう言って私たち兄妹はおでんをほおばった。
憎まれ口を叩いていたって、分かっているから。
さみしいって言葉に出さなくても分かってるから。
※※※
寝る前に飲む白湯を片手に部屋に戻る。
机の上に、散らばった色鉛筆、消しゴムの屑。
完成させた絵本を手にとって抱く。
そのまま目を閉じた。
どんな気持ちだろう。
もし、大切な人が自分の側にいたままでは世界を広げられないと気が付いた時。
その時の感情に任せて、引きとめるのは簡単かもしれない。
だけど、きっと後悔するんだ。岩屋にはまった山椒魚のように、捕えた蛙が死ぬときになってやっと。
何度となく、思い出していた。
夏目さんのこと。
夏目さんの言葉。
そして、そうしてみたのは本当に思いつきだった。
――形に残るモノより、溶けてなくなったほうがいいだろう。だけど、覚えていて欲しい。
金平糖を貰った時に言われた言葉だ。
瓶から金平糖を幾つか出して、白湯の中に入れた。
本来なら溶けるのに時間がかかりそうなそれは、あっという間に溶けて消えた。
そしてそれを眺めているうちに、目の前がぼやけて来る不思議な感覚に襲われて、私はぎゅっと手にした絵本を強く抱きしめた。