46話
すごく長い間寝ていたように思ったが、時間はまだ夕飯前の時刻だった。
そう言えば今日は終業式で、早く学校が終わったから。
しかも終業式で倒れて早退してるし…!なんだか今日は色々盛りだくさんで倒れたのがずっと前の事みたいに思える。体調だって、不思議と全然悪くない。
明日から冬休み。
2週間余りの冬休みの間、出来得る限り夏目さんと過ごしたいと思った。
出来るだけ一緒にいたい。
今なら幼い私のあの時の気持ちに少し近付ける。
夏目さんが本当にいなくなったらと考える事すら目と耳を塞いで頭を振って否定したい。
だけど、そんなことを考えるより先に、“いつか”のサヨナラなんて考えずに悲しくないようにたくさん、たくさん夏目さんと過ごしたいと思った。
――いつかなんてわかんないもん。
だったら悲しくないようにたくさんみておくの。
幼いあの日の無知と無邪気さよりもさらにもっと強い想いで。
私は彼を心に焼き付けておきたいと、そう願った。
※※※
家に帰ると、兄が仁王立ちしていた。
「おい」
とっても怖い顔をしている。
もともと良くない人相がもっと悪くなっている。
「お前の学校の保健師から早退させたが、無事帰っていますか、と留守電入ってたが?」
ひっ。保健室の先生!連絡いいって言ったのに!
何てことだ。生徒想いの良い先生だ、涙出る。
「折り返した。椎名が送ったらしいとの情報を兄は得た」
状況説明的な言葉が怖さを煽るぞ、兄よ。
「椎名に鬼電した」
ひっ。椎名君ごめ。
「ひじき食わした日に番号聞き出しといて正解だったわ。単語すぎて容量を得なかったが、要約すると家まで送り届けてないとぬけぬけと言いやがる。兄激怒。一喝しといたわ」
兄…なにからつっこんでいいやら。
ともかく椎名君色々ごめん。ごめん。
私は心の中で椎名君に手を合わせた。
何かならにまで、すまぬ。
そっと、上目遣いでもって兄の顔を窺うと、ああん?と顎を突き出すようにして“申し訳をせよ“と促してくる。
「な、夏目さんところにいた。熱があったけど、下がった」
状況説明語が移った。
びくびくしながら言うと、兄は腕を組んだ姿勢で首を存分に反らし、ふんっだかはんっだか言ってにしゃりと不自然に表情を歪めた。
「だと思ったわ」
兄が溜息のようにそう言葉にして、首の後ろをかく。
いつの間にか少し伸びた襟足をくしゃりと掴むと今度は本当に大きな溜息を落として、首をかっくりと落とした。
あ。
どうしようか。
兄が怒っているからただ怖いとか、そんな風に安易に自分の気持ちを優先してしまったことを恥じた。
兄は、ずっと私を心配していたのだ。
それこそ、今日に限ったことではなく。
何時だってそう。
――葵・・・飯食えるか?
もうずっと心配されている。
――食え。
じんわりと涙が出そうな感情が波のように押し寄せた。
ごめん。ごめんね。
いつも自分のことばっかりで。
兄さんに何時もいつも心配をかけて。
面倒な妹でごめん。
たくさんの申し訳なさで胸が詰まるけれど、ごめんが今、兄と私にとってベストな言葉ではないというこということだけは分かった。
何時だったか、椎名君を連れて公園から帰った時も兄は仁王立ちで待っていたのだ。
ごめんの言葉を伝えたら仕方ないなって風に兄は溜息をついた。
あの時だってちゃんと伝えなければならなかったのに。
ごめんね、ごめんね。ありがとう。
「兄さん」
兄が視線だけ上げて私を見る。
「ただいま」
ぱちりと瞬いた瞳には、私はどう映っていたんだろうか。
いつも待っていてくれてありがとう。
暖かい家に帰れることがどれだけ幸せか。
それを用意することがどれだけ大変か。
兄は床に視線を落とすと、後ろ髪をわしゃわしゃしながら、あーだかうーだか言って「おかえり」と呟くみたいに言った。
そして、目を反らしたまま、がしっと額を掴まれる。
な、何故だ!
「お前、なんか倒れたわりに調子よさ気だな」
「む」
私の額を大きな手で覆い、熱を確かめて、兄は表情を緩ました。
「飯食うか」
「うん」
俯くように頷いて、思う。
私はどれだけこの兄に心配をかけているんだろうと。
屹度、計り知れないほど。
兄には、頭が上がらない。
※※※
冬休みが始まった。
今年は雪が良く降る。
朝のしんっとした冷たさに雪の気配を感じながらカーテンを引き、窓を開けると薄らと景色が白く装飾されていた。
冷えた朝一の空気を吸い込み、窓を閉める。結露した窓が涙のような筋を作った。
指先をこすり合わせてから、携帯を見れば四季子やクラスメートから心配のメールが来ていた。それら一つ一つを有難く感じながら返事をして、椎名君にも昨日送ってくれたお礼と兄の鬼電ごめんと簡潔にメールを送った。
浮かんでくる言葉はたくさんあったけれど、それを文章にするのは難しく気恥ずかしく感じた。
はじめて、私に好きだと言ってくれた人。
気持ちに答えられなかった人。
大切なことを言葉少なにたくさん伝えてくれる人だ。
大切な人だし、これからだって仲良くしたい。でもそれは私の一方的な気持ちだから、押し付けてはいけないと思う。
「難しいな」
呟いた言葉は、白い息となって空気に溶けた。
※※※
マフラーにもふりと顔を埋めながら、古本屋までの短い道を歩く。
つい足が速くなるのは冬の寒さがそうさせるせいもあるが、言わずもがなあの人に早く会いたいからでもある。
片手には、兄が持たせてくれた栗金時の入った袋がカサリカサリと揺れていた。
袋の中に庭の南天を一本手折って入れてある。出掛けに雪の白から覗く南天の実の赤さが余りに鮮やかで色付いて見えた。
この寒い冬の世界の中でその色が余りに暖かくて、夏目さんにと手を伸ばしたのだ。
古本屋の引き戸に手をかける前に、風で乱れた前髪を手櫛で整える。何時も思うが髪の毛はマフラーの中が正解なのか、それとも外が正解なのか。私は何時も中に入れて巻いてしまう。そんなどうでもよいことを考えてから一呼吸置き、本屋の引き戸をカラリと引いた。
「いらっしゃい、よく来たね」
扉を開けると直ぐそこに夏目さんが佇んでいて、息が止まった。
いくら一呼吸置いたからって、直ぐにこんな美貌が目に飛び込んでくるなんて予想だにしない出来事だ。
私が吃驚して固まっていると、夏目さんは、ふふっと白い百合が香るように微笑んだ。
「何時までも入ってこないから、両手がふさがっているのかと」
いつかの夏の日スイカを丸々一玉持って来て扉を開けられなかったことが、そういえば確かにあった。
「む、ハズレです」
色気づいて髪を直していたなんて言えるはずも無いけれど。
夏目さんは、ひょっこりと引き戸の外に顔を出して、「冷えるね。早くお入り」と促してくる。
ふいに近い距離になって、もふりとマフラーに顔を埋めた。
俯いたままそそくさと古本屋に足を踏み入れ、後ろ手で引き戸を閉める。
「これ差し入れです」
どこぞの純情少年のように顔を俯けたまま、ずいっと差し入れの袋を渡す。
「秀君の差し入れだね。いつもありがとう」
お茶をいれよう、と袋の中を覗いた夏目さんが「おや」と声を落とす。
私は俯いた視線をのろのろと上げて、南天を取り出すその白く綺麗な手を眺めた。
雪と赤い実のコントラストも然る事ながら、夏目さんの手とそれもとても美しく映えた。
「南天だね」
「はい。庭の南天が、きれいだったから」
綺麗だったから、いっとう貴方に見せたかったのです。
「ふふっ。嗚呼、それで」
夏目さんは何やら笑って、ありがとうと言う。
何がおかしいんだ。
「なんです」
訝しげに目を眇めて見つめると、青灰色がさらに色を増して愉快気に細まった。
なんだというんだ。
夏目さんはそっと南天を袋の中に入れ直すと、その手がふわりと私の頭に触れそうになり、触れずに遠のいた。
「ほら、頭に南天の葉」
指に挟まれていたのは南天の葉。
なんてことだ!
あんなに一生懸命前髪を直したところで!後頭部にたぬきの様に葉を乗っけているなんて!なんてまぬけなんだ!
私は自分のまぬけさに羞恥で死にそうになりながら、親の敵でも見るようにその葉を睨めつけた。
余りに恨みがましく見つめていたからだろうか、夏目さんが慰めるように言う。
「悪いことじゃあないさ」
笑っていたくせに。
「南天はその名から難を転ずる縁起の良い木とされているから」
よい厄除けになった、と。
む。
だからって、私のまぬけ姿をしばし放置し笑っていい理由にはならぬ。
私がふてくされたまま無言で、何時もの椅子の背もたれにコートをかけマフラーを外していると、夏目さんが活け口の細くなった小さな花瓶に南天をさして机の上にことりと置いた。
赤の実がとても綺麗だ。
「赤がとても綺麗だね」
私の心を読んだみたいに夏目さんが言う。
ぱっと夏目さんを見ると、長い睫毛を落として南天の実を見つめていた。
私に同意を求めるんじゃなくて南天に話しかけるみたいに。
その横顔は何時までも眺めていたいなと思うくらい神秘的で美しい。
南天も夏目さんにそう言葉をかけられて赤々と鮮やかさを増したようにさえ見えて来る。
こんな時、手の届かなさを感じる。
人とはかけ離れた美しさを見せつけられる。
そんなことを考えながらマフラーを取る手を止めて、その横顔をまじまじと見つめていると、ぱっと夏目さんがこちらを向いた。
その顔は美しいが、先程の息をのむ神秘さは無い。
「葵ちゃん、南天はね、白く小さな花を咲かせるんだ。南天の花言葉を知っているかい」
「花言葉なんて、知りやしません。ああ、その顔は知っている顔ですね。だから何故そんなに花言葉に詳しいんです」
一時調べたが、それは訳あってのことだったからだ。趣味で色々な花の花言葉を調べる気にはなれずあれっきりだ。
まあ、南天はきっと災いを転じるとか、健康祈願とか悪い意味ではないのだろう。
「そう言えば、男は時として花に想いを委ねるって言ってましたね、夏目さん」
「僕は古い男だから、言葉でない伝え方は吝かではないと思うね」
「ふうん」
ふうんと思う。それは誰かにそういう伝え方をしたことがあるということか。
私には…。
――君のどんな気持ち?
――君の言葉で聞きたい。
そうやって、聞き出した癖に。
「男の人ってずるいんですね」
ついつい憎まれ口を叩くと夏目さんは、ぱちりと瞬く。
「おや、これは手厳しい」
だって不満だ。
夏目さんから、好きの言葉だって貰っていない。
それを“古い男”だなんて理由で片付けられるなんて。
「私の愛は増すばかり」
びしりっと音が出るくらい固まった。
「ほ」
変な声まで出た。
決して胸を撫で下ろす意味として出た類の言葉ではない。
動揺したのだ。
夏目さんが、莞爾として笑む。
男性につけるものではないかもしれないが、花が咲く様なといった形容詞が似合いの。
「南天の花言葉」
「…」
「小さな白い花が実を結び、秋から冬にかけて次第に赤く色づいていく様子から、そういった意味になぞらえられたのかな」
赤く染まった実は、愛の印。
それを聞いた私の顔は、南天の実のように赤かったことだろう。
夏目さんが言う。
「赤が綺麗だね」と。
南天の意味がそうならば、送って伝えたのは私の方。
なのにどうして、愛の告白を受けたようにどきどきと心臓がうるさいのだろう。




