43話
するりさらりと髪を梳く。
その手の感触が何より好きだ。
甘えて、頬ずりをしたくなる。
どうしようもなく、欲しくなる。
我儘になる。
私以外に触れる事なんて無ければいいのに。
馬鹿みたいにそんなことを思う。
※※※
覚醒の時が近い。
だけど目を開けたらまた、自分の部屋かもしれない。
そう、思って目を開けられないの。
ゆっくりと目を開く。
古本屋さんの天井が見えて、深く安堵した。
そして、息を深く吐いた。
ゆっくりと体を起こすと、額から濡れたタオルが落ちた。
そっと、拾い上げるとまだそれは冷たく、つい先ほど絞られたばかりであることが予想出来る。
おぼろげに夢に見た髪を撫でる感触は、あながち夢ではなかったのかもしれないと、私は薄く笑った。
熱が引いたのか、驚くほど頭が冴えている気がする。
視線を上げ、ぐるりと本屋を見廻す。
今は見えない此処の主は、この本の森のどこかにいるのだろうか。
彼を探しに行こうと、ゆっくりと毛布から足先を出し床に下ろす。
姿が見えないだけで本当に不安なのだ。
ひんやりとした床に足が付く、その少し前に、空気が揺れ動く気配がした。
「駄目だろう。寝ていなさい」
何時もより間延びしていない固い声がして、私ははっと其方を見た。
見上げた先に、半纏を来た夏目さん。
片手には何か本を持っている。
責めるような固い声のくせ、その青灰色に微笑を滲ませて私を見て来る。
だから、ちっとも怖くない。
どこまでも安心する。
深く呼吸が出来る。
私は何も言わずにじっと夏目さんを見上げた。
ここに、こうして当たり前のように彼がいることが、奇跡のように嬉しいと思う。
まだ、此処にいる。
彼の本を持っていない片方の手がゆっくりと私の顎を掬った。
余りにあっという間の出来事だったので、私は瞠目して、彼を見ることしか出来ない。
長身の夏目さんが身を屈ませ、蜂蜜色の髪がさらりと流れる。
一秒一秒何処を切り取ったとしても、美しくそのまま飾れてしまいそうだ、と頭の端で思った。
彼の芸術品のような美しい顔を間近に感じ、私は咄嗟に目をぎゅっと瞑った。
こつん、とおでことおでこが合わさる。
「ん。熱、下がったようだね」
囁くように言われて、身体が震える。
この人は――。
熱は下がったはずなのにクラクラする。
この人は私に簡単に触れる。
私は、あなたに触れられるたびにこんなにも平気でいられないのに。
私は、閉じていた目を開いて、離れて行こうとする夏目さんの首に手を伸ばし絡みついた。
僅かに見開く青灰色を見る。
この人が、この飄々とした人が、それを崩すのが好きだ。
何時までも冷静でなんていないで。
ふと、先程見た夢を思い出す。
高く、積み上げられた本の上に足を組んで冷たく世界を見下ろしていた夏目さん。
ガラス玉みたいな瞳。
そんな高いところにいないで、もっと。
――もっと私の近くに来てよ。
バサリ、と彼の持つ本が落ちる音がした。
心臓がバクバクいってる。羞恥心から、目を反らしたくなる。
だけど私は意志を持って目の前の青灰色の瞳を見詰めた。
一瞬揺らいだ、その瞳は直ぐにしっかりと私の瞳を捉える。
髪と同色の蜂蜜色の長い睫毛がスローモーションのように瞬く様を見た。
一瞬のようでうて、とても長い時間だ。
「手」
そう言って彼が、つと視線を私の腕にやる。
「震えているよ」
指摘されずとも分かった。
彼の首に纏わせた私の腕は小さく震えていた。
緊張だろうか、それともやはり私は自分の聖域を超える事に恐怖を持っているのだろうか。
神のように神聖視していた、彼を欲望をもって触れているのだ。
もう、目の逸らしようのない欲望だ。
震える手で、彼の後ろ髪に触れる。
ずっと、ずっと触れたかったそれに。
柔らかく、さらさらとした感触を指に絡ませた。
夏目さんが、少しでも身じろぎすれば、私の腕など直ぐに彼から離れるだろう。
だけど彼はじっと身じろぎせず、私の手を許した。
そのことに少しだけ勇気を貰う。
「知ってます」
そう言った、声まで情けなく震えていた。
泣きそうなぐらい格好悪い。
心なしか、目だって潤んできた。
青灰色の瞳がまた、ひたと私を見つめる。
ついに耐えられなくなった私は、ぎゅっと、彼の首すじに顔をうずめた。
恥ずかしい、なんてものじゃない。
大胆に振舞おうとしたって、虚勢だ。
直ぐに剥がれおちて、震える情けない私を見透かされてしまう。
本格的に泣けてきて、鼻を啜ると、耳元で夏目さんが深く息をはいた。
彼はどんな表情をしているんだろうか。
呆れてる?
心がざわついて来た時、私の背中に彼の腕が回った。
そしてぎゅっと抱きしめられる。
息がとまるかと思った。
「夏めさ」
「なんで君は、そう」
呼びかけようとしたら、苦味を帯びた声に遮られる。
こんな声初めて聞く。
何か言いかけてまた、深く息を吐いた彼は、私の背中をぽんぽんって叩きだした。
お母さんが幼い子どもを寝かしつけるような仕草。
ちがう。そうじゃないの。
ぎゅっとしてて、そんな優しい仕草なんていらないもの。
だけど、凄く落ち着く。
震えていたのが嘘みたいに落ち着いて、ゆるゆると力が抜けて行った。