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42話

シュンシュンと音が聞こえる。

温かでしっとりした空気に、身体の内側からとろけていくような感覚。

幸せ、の感覚とはこういうものなのかもしれない。

微睡む思考で、そんなことを思った。


シュンシュンと音がする。

額にひたりと冷たい感触。

きもちいい。

少しだけ瞼を上げたら、今まさに離れて行こうとする掌を見つけた。

指の先まで美しいその手が誰のものかなんて顔を確認するまでもなくて、引き止めるようにその手に頬をすり寄せた。

一瞬かたくなだった指先は、私がねだるように擦り寄れば、瞬時にとろけてすべるように頬をなぞる。

それが余りに心地よくて、私はもう一度瞼を下ろした。


「これ以上、煽らないでおくれ」


沈む意識の中でそんな苦笑混じりの声を聞いた気がした。


※※※


沢山の本。

パラパラと風もないのにページが開く。

絵本のように飛び出す本中の世界。

見たこともない花。

木でできた靴。

振子時計。


キラキラ光、七色の滝、雲は綿あめ。

なんて素敵。

なんて、


「きれい」


「全て、落とし物だ」


怜悧な声が響いた。

声につられるように振り向けば、積み上げられた本の上に足を組んで座る麗人。

夏目さん。

とても冷たい、時折見せるあのガラス玉のような無機質な目でキラキラした世界を見下ろしている。


「僕の声を待っているんだ。このガラクタの中から、一つ一つ同一のものを探す。拾い上げる。そして繋ぐ、それを繰り返す」


普段にはない、投げやりに吐き出される言葉。

今の彼からは、いつもの飄々とした余裕は消え失せ、その顔には苦さが浮かんでいた。

焦れる様に早口で喋る彼は、この七色の世界で酷く浮いて見える。


「ガラクタばかりが溜まって煩わしい。だけど、空虚を満たすために僕は手に取らずには居られない。それが一層僕の視界を塞ぐ。いっそもう、その中に埋もれてしまえたら…どんなに楽だろう」


夏目さんは頭を抱えて疼くまった。

いつの間にか、彼は私の目線の高さに移動している。

でも、彼の視界から私は消え失せている。

彼の周りには、彼を覆い隠すような沢山の本の壁が出来ていく。

まるで、彼を飲み込んでしまうかのように。

一連の非現実的な場面を瞳に映しながら、それでも私は落ち着いた声を出した。


「夏目さん」


彼には聞こえないだろうか。


「私にはとってもキラキラして見えます。私にはガラクタなんかに見えませんよ」


尚も彼を塞いでいくモノたちの間から美しい蜂蜜色の髪が見える。

その頭が震える。

どうか、否定しないで欲しい。


「夏目さん。私にも拾わせてくれませんか」


はっ、と怯えるような縋るような青灰色の目が私を映した。

小さな子のように澄み切って少し潤んだその目は、先ほどのガラス玉なんかよりずっと魅力的だと思う。


「綺麗な落とし物、一緒に拾わせてください」


その瞳を見据えてそう告げた。離さないように強く。

何一つとして取り零し足りしない。

貴方が嫌だと言うのなら、私が代わりに拾います。

貴方自身であっても拾い上げてみせるから。


揺れる様に薄まる世界。

はた、と気がつく。

ああ、これは夢だ、と。

この非現実を受け入れている自分を感じた時から何となく分かっていた。

私の脳が作る主観的創造物に過ぎない夢。

だけど、見逃してはいけない何かがあると、そう思うから。

どうか忘れないようにと、その青灰色を見つめ続けた。


夢とは脈絡もなく唐突に場面が変わるものだ。


夏目さんの手がゆっくり労わるように頬を撫でた。

その冷たい感触に思わず頬を擦り寄せる。

デジャブ。

きっと私の深層心理が幸せの感覚を求めているのだろう。


薄く目を開けると、どこか困惑した夏目さんの表情。

見慣れない表情に思わず手が伸びた。

彼にも幸せの感覚を味わって欲しくて、その頬に触れる。

青灰色が動揺に染まり瞳の中の光を揺らした。

眉間にしわを寄せ苦悶するように瞼を伏せる。

髪と同色の長い睫が震える様子を見ながら、思う。

全くもって、らしくない、と。

飄々とした顔で感情を隠す、夏目さんらしからぬ顔。

でも、とても人間らしい顔。

ねえ、どうしたの?何か悲しい事があった?

それは、声に出ていたかもしれないし、そうでなかったかもしれない。

その表情を忘れないように、瞼で閉じ込めるみたいにそっと目を閉じた。

瞼の裏には青灰色。

これはまだ夢?

それとも現実?

どうでもいい。

ああ、もう壁とか、歳とか、見合わないとか、どうでもいい。

完璧でなくていい。完璧でないのがいい。神聖さなんて望まない。

見上げるなんてうんざり。

私の高さまで来て。

私の足で貴方に近づけるなら、怖がらないで何もかも踏み越えて側まで行くから。

私の腕で抱きしめさせて。

私だけに曝け出して。甘えて。

狡さも、弱さも、全部見せて。

貴方とだったら、どこにだって行くから。

どうか、どうかずっと。

ずっと――側に。


※※※


シュンシュンと、掠れた蒸気のような音が聞こえる。

パチンと目を開けた。

筒状の古めかしいストーブの上にヤカンが置いてある。

どうやら湯を沸かしているようだ。

ずっと、耳に付いていたこの音はこれだったのかと納得する。

自分は温かな毛布にくるまれて長椅子に寝かされているようだった。

身動いで、一度目を閉じ大きく息をする。

本の匂い。


「目が覚めたかな」


深く、落ち着いた声にゆっくりと瞼を開き、横になった状態のまま声の主を見上げた。


「本物?」


夢見の思考が今度は本物だろうかと、その人に尋ねた。

夏目さんは、暫く感情の覗えない瞳で私をじっと見て、いつもみたいにひょいと方眉を上げた。


「さて、どうかな」


返ってきたのは曖昧で、はぐらかすような言葉。

何時ものように飄々と、揶揄するみたいに言ってくる。

何時も通りの夏目さん。

その全てに、ほっとしながら何故か残念なような気持ちにもなる。

また、振り出しにもどってしまったような、変な気持ち。

ここ数日、私が思い悩んでいたことなんて彼には少しだって影響しないんだって思い知らされたような、変な寂しさ。


言いたいことが山ほどある。

聞きたいことが山ほどある。


でもその前に。


「もっと、近くにきて」


夏目さんの袢纏の裾を引っ張って、屈むように促す。

促されるまま彼の綺麗な顔が同じ高さになって、その頬に手を伸ばした。

ビスクドールみたいに感情の覗えない表情。

生きているのが不思議なくらいひんやりとした頬。


「つめたい」


思ったまま呟いたら、くすりと笑われる。

長く美しい指が、頬に触れた私の手にゆっくりと触れ重なった。


「葵ちゃんが、熱いんだよ。まだ熱がある。・・・ほら、もう少し寝ていなさい」


そう言って、私の手を毛布の中に戻してしまう。

もっと彼の頬に触れていたかったけれど、かけ直した毛布の上から夏目さんがポンポンってしてくれるから、そのリズムに誘われるように瞼が落ちてしまう。

熱があると、自覚したせいか身体がだるい。

だけど、また寝てしまうのは、酷く惜しい気がして。

一生懸命瞼を開いて、夏目さんを見る。

困ったように彼は笑った。


「ほら、いいこだから」


「やだ」


「だめ。寝なさい」


「やだ」


夏目さんが聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいに言うものだから、余計に子供っぽく反発してしまう。

何でだろう。

たぶん熱のせい。

そう、全部熱のせい。


夏目さんが子供っぽい私の様子に、仕方ないなぁって風に笑う。

それから、途方にくれたとばかりに態とらしく「お手上げだ」と深く嘆息して見せた。


「やれやれ。どうしたらいいものか」


「キス、して」


零れた言葉は、確かに自分のもの。

あ、って思ったけど、思いのほか羞恥心は沸いてこなかった。

じっと夏目さんを見つめる。

青灰色を見つめる。

吸い込まれるくらい見ていたら、白い彼の手が伸びてきて、私の視界を覆った。

そして、触れた柔らかな感触は額に。

おでこ、かぁ。なんて素直に落胆しつつも、視界を手で覆われたままなので仕方なく瞼を下ろす。

それを確認するみたいに指が睫をそっと撫でて、覆った手がいなくなる。

もう一度、目を開いてやろうか、なんていたずらに思ったけれど。


「いいこ」


なんて囁かれて、髪を撫でられたらそんな気も失せてしまう。

撫でられる度にとろりとした睡魔が私を誘っていく。


「端無く交わりし運命に感謝を。我が声、音となり呪を結ぶなれば、かの者に安穏たる眠りを。疑心、懐疑に心奪わることなく、その頭上に群青の耀きが降り濯がんことを」


ゆっくりと紡がれる夏目さんの言葉を聞きながら私は再び心地よい眠りに誘われていった。


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