41話
降り始めた雪が涙とは違う冷さで頬に触れた時、私たちはゆっくりとお互いの腕を解き距離を取った。
椎名君の瞳にはもう涙も揺らぎも無かった。
只真っ直ぐに向けられる、深く黒い瞳。
何かを断ち切ったような、決意の籠もった視線だ。
「きっと、笹野さんを占める、あの人を含め、自分は惹かれた」
寒いせいか、それとも泣いたせいか彼の少し赤い鼻頭に視線を移動させたとき不意に椎名君が言った。
「目を背ければ、それだけ苦しい・・・・・・あの人の事を考えている貴女が好きだ」
認めたくないけど、と表情を動かさずに椎名君は言葉を繋げる。
あの人と、椎名君が言う人物。
誰かなんて、考えるまでもなく理解できた。
「岩場に嵌った山椒魚は、孤独に耐えかねて一匹の蛙を岩場に閉じ込める」
「え」
夏目さんのことを考えていると、椎名君が何時になく流暢に言葉を落とす。
山椒魚と言ったら、椎名君が図書室で私に呈示した井伏鱒二の山椒魚のことだろう。
椎名君はいったい、私に何を伝えたいのだろうか。
私は椎名君の思考を読み取ろうと、その内容を頭の中から必死に引き出した。
読書週間に読んだ、井伏鱒二の山椒魚。
夏目さんから借りた本。
岩場に嵌った山椒魚。
孤独に耐えかねて捕らえた一匹の蛙。
牽制しながら、何年も何年も二匹は同じ穴場の中。
けれど、あくる年、蛙がとうとうその息を引き取ろうとする。
そして最後山椒魚は、お前は今何を考えているのだろうかと尋ねるんだ。
蛙は答える。確かそう。
「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」
私が零すように呟くと、椎名君は少し瞠目して、それからゆっくり頷く。
そして無表情に私に問うた。
「どうして、蛙は、そう言ったのだと?」
この話には色んな説があり、その解釈は様々だった。
本当の答えなんて、著者本人にしか分からないこと。
だけど、読者に感じる自由があるとするなら、私はこう思う。
「蛙は、山椒魚の孤独を知っていたから。若しかしたら、長い月日の中で山椒魚を愛していたから」
蛙は“今では”では無く、“今でも”べつにおこっていないと言ったのだ。
愛してるは大げさでも、一度だって憎く思った事など無かったはずだ。
私の答えに椎名君はひどく満足そうに笑った。
そして言う。これは勝手な想像だけれど、と。
「山椒魚が蛙の愛に気が付いたなら、彼は蛙を逃がしたかもしれない」
椎名君の言葉に、今度は私が目を見開く。
同時に夏目さんの言葉が脳に響く。
あの階段の下。本とピアノだけの空間。
―――僕は、この部屋でずっと、ずっと一人だった。
―――ずっと待っていたんだ。僕はずっと。
熱い何かが込み上げて、涙がはたりと落ちる。
椎名君がその繊細な指を私の頬に伸ばしたが、それは直前でぐっっと握りしめられ、ゆっくりと下げられた。
「笹野さんは、自ら捕らえられた蛙」
以前、椎名君に言われた言葉だ。
私は、その意味を考えもしなかった。
だから、と椎名君は続ける。
「だから、大丈夫」
言葉だけ聞けば、主語はあやふやなで、酷く曖昧な大丈夫。
だけど私は、それに込められた意味をじっくり噛みしめて、ゆっくりと頷く。
重力に従い、椎名君の手で拭われる事の無かった涙が静かに顎から零れ落ちた。
ああ、言葉に詰まる。
ただ、もう。わからない振りなどしてはならないのだと思った。
※※※
家の前まで辿り着き、私は椎名君から自分の鞄を受け取った。
お礼を言った私に、椎名君が「もう一つ」と自身の鞄から真っ白の何かを取り出す。
「笹野さんの鞄には大きくて入らなかったから」
そう言って差し出されたのは、持ち帰るのを後回しにしていた中センからの冬休みの課題。
真っ白で何も書かれていない本。絵本の原本。
四角く角張ったそれは、私の鞄には入らなかったらしい。
それを受け取ろうと手を伸ばした時、どうしてだか既視感を憶えた。
仲良くなりたいと言った私に、彼が渡してくれた“特別”。
不覚にもそのことを思い出したのだ。
それを椎名君も感じたのだろう。ポツリと呟きが落ちる。
「特別」
私はハッと椎名君を見上げた。
思わず溢れた言葉だったのか、気まずそうに唇を噛みしめた後、彼は目を伏せた。
その瞳は、真白の絵本に濯がれたまま。
「笹野さんは笹野さんの特別を然るべき人に」
椎名君の伏せられた瞼が上がる。
そして、ゆっくりと視線が会った。
くろすぐりの瞳。
凪いだ湖面。
「行って。貴女の特別な人の所に」
私は、無言で絵本を受け取り、彼の立ち去る音を聞いた。
もう椎名君の背中を見てはいけないと思った。
見たらいつかのように、引き留めてしまうかもしれない。
それだけは絶対にしてはいけないと思った。
彼がくれた物を台無しにしてしまう。
真っ白な絵本の表紙を見つめる。
どれ位そうしていただろうか、寒すぎて感覚の無い手。
私は、ゆっくりと視線を上げる。
真っ白な雪が降る。
白い息を吐き出して、はじかれたように私は駆けだした。
目と鼻の先の我が家の引き戸に見向きもせず、私は走った。
顔に雪が当たる。
冷たくて痛い。
だけど、走らずには居られなかった。
鈍く錆び付いていた私の時が、やっと正確に動き始めた。
取り戻すように、脳は命令する。
走れ、と。
目的地なんて考えるまでもない。
※※※
はあ、と荒い息を整えながら、その建物を見る。
古本屋さんは私の葛藤など素知らぬ様子で、今までと同じ外観のままそこに在った。
はやる鼓動を持て余しながら、私は引き戸に手をかける。
ところが・・・。
からりと何時もの音を響かせると疑いもしなかった私は、その事実に愕然とする。
「あか、ない」
がつりと鈍い音を出した戸は、少しも動かなかったのだ。
なんで。
どうして。
くらくらする。
私が、うだうだ悩んで居るうちに最悪な事態は起こってしまったのかもしれない。
消えて―――。
ううん。
駄目だ。
諦めたら駄目だ。
振り切れそうな感情をどうにか抑えて、私は最後の望みを賭け、足を運んだ。
裏庭への木戸を全力で開ける。
夏目さんと私の出会いの場所。
今は閑散としているけど、暖かな季節が訪れると色んな草木が生い茂る。
縁側からそれらを眺めるのが好きだった。
六月には立葵の花が咲いた。
それを眺めながら、夏目さんが笑うんだ。
――ほうら。葵ちゃんの花だよ。
ああ。
嗚呼!
その背中を見つけて、私は思わず叫んだ。
「夏目さんっ!」
冬になると着るおかしな柄の袢纏。
見慣れた柄。
いつもの背中。
夏目さんの背中。
雪の中、何故か傘も差さずに裏庭に佇むその人は、私の声にゆっくりと振り向く気配を見せる。
それを待つ前に、私は荷物を全て放り投げて駆け出した。
丁度振り向いたその人の胸に飛び込む。
本がバサリと落ちる音がした。
夏目さんが手に持っていた本が落ちたようだ。
それでも、離してなんかやるもんかと、離さないよう、離れないようその背中にすぐ腕を回した。
叫んで、抱き付いて何処にも行かないでと叫ぶ。
金木犀が咲く頃、同じようなことをした。
あの時、後々揶揄されて恥ずかしさに憤慨した。
だけど、今はこの両手に一杯の好きを自覚しているから。
何を言われたって、平気だもの。
からかわれたら胸を張って言ってやる。
貴方を好きだから失いたくないのだと。
「あおい、ちゃん?」
戸惑うような声の夏目さん。
ずっとずっと聞いていなかったように思う。
もっと聞かせて。
返事の代わりにぎゅっと抱きしめる力を強めた。
すると夏目さんから、息を飲むような空気。
少しの間の後、戸惑うように優しく私を包み込む腕。
ああ、やっと。
やっと、触れてくれた。
欲しかった温度。
そのことに目頭が熱くなって、誤魔化すように夏目さんの胸に頬をすり寄せる。
夏目さんからは、本とムスクの香りがする。
私の大好き香り。
ああ、自分の鼓動が異常に速い。
野外、しかも雪の降る中だというのに異常に身体が熱い。
頭も、なんだかクラクラする。
「葵ちゃん――」
少し焦りを帯びる夏目さんの声。
だけど、エコーがかかったみたくぼやける。
ああ、一言だって聞き逃したくないのに。
そう思いながら、どうやら私の体は限界を迎えたらしい。
意識が遠のいていく。
最近こんなのばかり。
やっぱり、貧血に寝不足のうえ、全力疾走は不味かった、かな・・・。