●秀(兄)SIDE●
俺のことを話す時、妹抜きには語れないことが多い。
こんな事を言うと、まるで俺が極度のシスコンのようであるが、まあなんだ・・・自覚があるだけマシだと思っておこうか。
考えてみたらおかしいだろう。
毎日毎日、晩飯を作る俺。弁当を作る俺。
多感なお年頃の頃からずっとそんな所帯じみたことを続けている。
この俺が。俺様が。
ま、だれに強制されたでもなく俺が勝手に始めたことなんだがな。
そりゃ、俺にも色んな事に不満を持つ俗に言う反抗期って奴はあった。
両親は不仲、纏わり付くまだ幼い妹。
反抗したくもなる。まだ小学生だったんだ。
抱えきれないフラストレーションは、当然のように葵に向かった。
◆◆◆
「お兄」
うるさい。
「お兄。葵もノートにかきかきしたい」
うっとうしい。
「うるさい。まだ宿題があるんだ」
まだ小学校に上がる前の妹に俺は辟易していた。
つい強い口調で振り払うと、葵は豆鉄砲を喰らったみたいに大きな目を真ん丸に見開いてそれからぐしゃりと顔を歪めた。
それでも俺の良心はちっとも痛まなかった。
寧ろ、ああ泣くのか面倒だな、と思ってしまう。
俺の時間を邪魔する妹が、無性に腹立たしかった。
脳天気な顔をみるとイライラする。
両親が今、どれだけギクシャクしているかなんてコイツの知ったことでは無いのだろう。
そう思うと、どうしても妹を冷めた目でみてしまうのだ。
今にも泣き出しそうだった葵は、俺の予想に反して泣きだしはしなかった。
そのかわり、下がった眉と目尻を引き上げて力一杯息を吸い込んでいる。
「バーカ。お兄のガリ勉!もやし!」
キーンとする耳を咄嗟にふさぐ。
「こいつ!」
一発殴ってやろうかと、拳を作った時にはとっくに逃げおおせていた。
「っち。可愛くねぇ」
呟いて、俺は机に向かう。
ふん。ガリ勉で何が悪い。
もやしは余計だ。
ぎゅっと鉛筆を握りしめた。
計算式を解いている間は嫌事を考えずに済むんだ。
◆◆◆
「秀、しゅう」
集中していた思考に、母親の声が割り込む。
面倒だったが、のろのろと顔を上げた。
もう夕方だと言うのに、化粧をした母親。
次に言う事なんか分かりきっていた。
「お母さん、急な遅番の仕事が入ったから行くわね」
「・・・」
「夕飯は作ってあるから、葵とチンして食べて」
「・・・」
父親と不仲になり始めて、母は婚前に勤めていたという会社に復帰した。
父が怒鳴る。
結婚したら仕事は辞めると言ったじゃいか、と。
母は言う。
貴方の帰りを待つ妻としての幸せを感じないのだ、と。
夜に繰り返される口論に俺は耳をすまして。まだ、大丈夫だろうかと危惧をする。
「しゅう」
いつの間にか沈んだ思考を、母親の声が引き戻した。
うんともすんとも答えない俺に痺れを切らしたのか、俺の目の前に屈んだ母に肩を掴まれる。
「秀。葵のこと頼んだわよ。いいわね。秀はお兄ちゃんなんだから」
お兄ちゃんなんだから
なぜかそれは呪詛のように執拗に囁かれる。
執拗に絡みつく。
俺は、兄に生まれたくて生まれたわけではないのに。
そんなの、いらないのに。
◆◆◆
静かすぎる部屋で、思いの他勉強が捗らない。
コチコチと時計の音が鳴る。
さっきから時計ばかり気にしてしまう。
もう19時を過ぎたのに。
葵が、帰って来ない。
うろうろと部屋を徘徊する。
どうせどっかで道草をくってるんだ。
少しキツク言ったからアイツ拗ねてるだけだ。
すぐに帰って来る。
そう思うのに、俺の足はウロウロと忙しない。
振り払ったときの、葵のぐしゃりと歪んだ顔が浮かぶ。
ああ、もう!くそっ!
家を出ると、10月の夕方は思いがけず冷たかった。
何処行ったんだ馬鹿葵。
兄なんてやってられない。
こんな面倒なことを押しつけられて。
葵に何かあったら俺のせいで。
ああもう!なんでも良いから早く出てこいよ葵。
一人の部屋は、時計の音が良く響くんだ。
だから、ちょっとくらいならお前、煩くしたってもう怒らないから。
今度は紙と鉛筆をお前に貸してやるから。
ぐるりと辺りを見渡した時、葵の笑い声が聞こえた。
なんだここ、近所にあっただろうか。
そこはずいぶん寂れた外観の建物だった。
どうやら何かの店らしい。
ずっとこの町で暮らしているが、今まで気に止めたこともなかった。
しかしどうやら、この店の裏から葵の声が聞こえる。
訝しみつつ裏戸を勝手に押し開けた。
「夏目って字はどう書くの?」
「うん?ほうら」
「かくかくしてる!」
一瞬言葉を失った。
金髪青目(葵に言わせると違うらしいが)の異様に整った顔の外人と葵が、木の棒片手に何とも和気藹々としていたのだ。
なんで外人が・・・。と思う前に、俺は葵の楽しげな表情に目を奪われていた。
アイツ、最近あんな風に笑ってなかった。
何だかもやもやしたものが心に渦巻いて、俺はズカズカと二人に近づいて行った。
「葵!」
「あ、お兄」
葵は弾かれたみたいに顔を上げて、ちょっと気まずそうに顔を曇らせた。
何だよ。さっきまで楽しそうにはしゃいでたくせに。
どす黒い靄がまた広がる。
俺は葵の手を掴んで、「お迎えかな?」なんて飄々と笑ってる外人を睨みつけた。
挨拶もなしに、葵を引きずってその場を後にした。
もやもやイライラする。
◆◆◆
「あ、お母さん行っちゃったんだ」
家に戻り、テーブルのラップに包まれた皿を見た瞬間、ぽつりと葵が呟く。
酷く小さな声で。
先ほど響いていた鈴のような笑い声とはかけ離れた声だ。
なんだよと思う。
なんだよ。
チンした晩ご飯を、二人無言で食べた。
早い時間だったが寝る準備を済まして二人で布団に入った。
すうすうと隣から安らかな寝息。
もやもやする。
押しつけられたら、めんどくさい。
だけど、俺以外に懐くなんて面白くない。
非常に、面白くなかった。
それに、あの外人。
素性もはっきりしない何処ぞの輩だ。
見るからに怪しい。
あの懐き具合から言って、葵の奴またあそこに行きそうだ。
いや確実に行く。
危険じゃないのか。
もし、人さらいとかで、葵が、海外に売られたりでもしたら!
がばりと布団から起き上がる。
寝ていられない。
これは早急に手を打つべきだ。
変に高ぶった俺は、服を着替え家を出た。
出るときに勿論しっかりと施錠する。
そして、勢いのままあの寂れた店に乗り込んだのだ。
すっかりとまでは行かずとも暮れかけもいいところの時間帯。
閉まっているなど、浅はかな子供の俺は考えもせずにその引き戸に手を伸ばす。
戸は、すんなり開いた。
音を鳴らさぬようにそっと開く。
覗き込めば、聳え立つ本棚が薄暗い店内で妙に威圧感を放っているのが見えた。
足を踏み入れようか逡巡している時だった。
「~~・・・」
「死してなお、言葉に意味を奏でようと言うのかい」
「~~!」
「お前はもう生きては居まいよ」
「――!」
「お前の言葉は、十分受け止めた。・・・戻りなさい」
奥の方で交わされてる会話。
一人の声は、途切れ途切れのひび割れたような声で殆ど聞き取れない。
いったい何の会話を・・・。
足を進めようとしたとき、不運にも本棚から一冊本が崩れ落ちた。
おい!ちゃんとしまっとけよ!
と、焦って拾っているうちに、目の前に陰が落ちる。
「おや、珍しいお客さんだねぇ。とは言っても、先ほどぶりかな」
顔を上げて、その飄々とした声の主を睨み据える。
「先客が、居るようなので帰る」
ぶっきらぼうに言うと、そいつはひょいと柳眉を上げた。
「先客などいないさ。見てみるかい?」
そう言って笑う。
は?と思った。さっきどう考えても話していただろうが。
遠慮も無しに本棚の隙間まで店内を徘徊してみる。
「・・・」
笑い声が後ろからして、振り返ると本を片手に愉快気な外人の姿。
からかわれたのかと、頭に血が上った。
「おまえっ。さっき誰かと話してただろうが!」
「さぁて」
薄く笑んではぐらかすこの男が妙に怖くなった。
人さらいよりタチの悪いものに思えた。
月明かりが、男の人形のように整った顔を照らす。
まるで、人ならざるモノのようだ。
昔、何かで読んだ。
何かの昔話に出る何かの。
「お前、妖怪か」
呟いた言葉はまるで、非現実的なものだった。
しかし、その時の俺は本気でそう思ったのだ。
まるで、その美しい顔で人を魅惑し食う鬼のようだと。
目の前の男は何も答えずただ微笑んだ。
何処か達観した微笑だと思った。
「お前、葵を食うのか!」
「・・・それは、どういう意味で?」
どういう意味!?
何を言っているんだコイツは!
「だめだ!だめだよ。葵は駄目だ!」
俺は、理性を忘れたみたいに叫んだ。
「俺が兄ちゃんだ。俺が葵の側にいないとなんだ。俺が守らないといけないんだ」
俺が、守る。
俺が葵のお兄ちゃんだから。
「そう」
本屋は、静かにただ俺を見てる。
そのガラスのような瞳で俺を見据えている。
「葵を食ったら容赦しないからな」
「だいじょうぶ」
だいじょうぶと本屋は言う。
柔らかく、ただ柔らかく本屋は言う。
その声に、俺の心も何故か静まる。
「僕は、彼女に何も残さない。残らない」
彼女、という言葉に一瞬誰の事かと戸惑い、ああ葵かと思う。
おかしくはないが、どこかあのチビの葵に不釣り合いな呼び方に思えた。
まあ、そんな違和感よりも気になる事は。
「残らないってどういう事だよ・・・」
目の前の男は、ただ微笑んだだけだった。
何処か奥の見えない、だけど命一杯の悲しさを含ませたみたいに。
そして言った。
「僕は、いずれ消える身だから」
と、当たり前のように。決め事のように。
◆◆◆
俺は、アイツを気にくわない。
結局葵は俺が忠告したのにも関わらずアイツのもとに足繁く通うし、本屋もそれを拒みはしない。
アイツの正体だって未だに訝しいままだ。
しかし俺は、嬉々として古本屋に向かう葵に手土産を寄越して渡す。
葵が、自分で決断したことだからだ。
本屋の微笑が余りにも悲しげだからだ。
ただ、それだけだ。
俺の知ってることなんて、そんなもん大してありゃしない。
ただ、俺はあの夜、葵の兄でいることを自ら選んだ。
本屋が消えても、葵が悲しむときが来ても、俺は変わらず葵の側にいようと。
変わらず家族で在り続けようと。
チンした飯を味気なさそうに食うなら、お前が家族を取り戻したいと思うなら、晩飯の神にだってなるさ。
あの夜。
有志の演奏を聴いた満月の夜。
酔った葵をおぶった夜道、俺の肩は葵の涙で濡れた。
お前、昔は泣きそうな顔はしても、決して俺の前で泣かなかった。
もしかしたらそれは。
泣かなかったのではなく泣けなかったのかもしれないと今なら思える。
良く、泣くようになった。
それは、少し喜ばしい一方、どうにも居心地が悪い。
葵を泣かせる原因は、本屋のことなのだろうから。
止めてしまえと思うのは兄のエゴだろうか。
もういい。
もういいから。
覚えて居ないなら、止めてしまえ。
消えてしまう奴に不毛な恋など止めてしまえ。
悲しむ時を迎える前に止めてしまえと思った。
―…葵、きっと何時か悲しむ時がくるよ。
――いつかなんてわかんないもん。
だったら悲しくないようにたくさんみておくの。
酔いつぶれて泣いて眠った葵は、夜中急に家を飛び出した。
行き先なんて分かっている。
お前、どんなに泣いても結局、本屋の所に向かうんだな。
夜中、引き戸の閉まる音を聞きながら、俺は一人苦笑を漏らしたのだった。
●●●おまけ●●●
おそい。いくら何でも帰りが遅すぎる。
俺はイライラと庭先を右往左往していた。
葵が抜け出したきり帰って来ない。
どうする迎えに行くか?
いや、しかし葵ももう子供ではないのだし。
と同じ場所をぐるぐるしている時だった。
「秀くん」
ばっと顔を上げ、その姿を目にして俺は目を見開いた。
本屋がぐったりとした葵を抱きかかえている。
本屋が、ぐったりとした、葵を、抱きかかえている!
「お前!・・・っかせ」
と少々乱暴に葵を回収しようと手を伸ばす。
受け渡す際「乱暴にせず・・・」と静かに本屋が囁いて、頭の中がぐらっとなった。
「おまえ!まさかと思うが!葵に手を出したんじゃないだろうな」
葵を抱えながら、ぎりりと睨むと、本屋は暫くその目を伏せて、そして妖艶なまでの微笑を浮かべる。
「それは、どういう意味で?」
「!」
――お前、葵を食うのか!
―・・・それは、どういう意味で?
「おまっお前・・・」
我に返った時、既に遅し。
俺が茫然自失している間に、その男はその身を夜闇に溶け込ませるみたく去って行っていた。
くそっこの妖怪が!




