39話
四季子が帰ってしまってから、ぼんやり金平糖を眺めた。
七色の星の欠片が瓶の中でざらりざらりと揺れる。
―――形に残るモノより、溶けてなくなった方がいいだろう。だけど
「だけど、覚えて居て欲しい」
夏目さん。
英語の単語はちっとも入ってこないのに、貴方の言葉ばかり耳に残ります。
時々、突拍子もなく脈絡無いことを言う夏目さん。
だけどその意味をいつも考えてしまう。
いつも、心に響いて消えない。
四季子、言えるのかな私。
会うのだって怖いのに。
覚えている。ずっと覚えて居るから、どうか溶けて無くなったりしないで。
滑らかな瓶を両手でぎゅうっと握った時、玄関の引き戸が開く音。
急いで、玄関まで下りると予想通り兄で。
レジ袋を両手に抱えて脱ぎづらそうに靴を脱いでいた。
ごめん。
一瞬出かけた言葉を喉でとめて「おかえり」と声をかけると、兄は吃驚したみたいに私を見て、すぐに神妙な顔で「ああ」と答えた。
近寄って、一つレジ袋を受け取ると、開いたその手で頭をぽんってされる。
「今日は鍋だ。おまえ、ずっと飯食ってないだろ。しっかり食え」
レジ袋いっぱいのお鍋の具。
ごめんね、お兄って掠れた声で呟いたら、頭をぐりぐりって撫でられた。
ごめんね。
ありがとう。
※※※
お鍋がふつふつ湯気を立てる。
兄が、せっせと小分け皿に具材を盛ってくれる。
のは、いいんだけど・・・。
「ちょ、もう充分・・・」
「食え」
このやりとり5回目。
いい加減胃がはちきれそうですが・・・。
しかし、何だか断れないのは兄の優しさだと分かってるから。
ふう。とお腹を一さすりして、箸を伸ばしたところで「なあ」と声をかけられた。
「うん?」
見上げた先に兄の真剣な顔。
「お前、ようか・・・本屋が好きか」
妖怪と言いかけて、本屋と訂正する兄。考えるまでもなく夏目さんのことだ。
からかう風でないその眼差しから、私は視線を一回彷徨かせて一つ頷いた。
途端に、兄が大きな溜息を付く。
「恋愛の意味でか」
また頷く。
「引きこもったのアイツが原因か」
一瞬考えて、曖昧に頷く。
すると、兄は低い声でぐぅぅと唸った。
そして、暫く考えるように下を向く。
いったい何だと言うんだ。
「お前、あの夜、行ったよアイツの所に」
思い切ったように顔を上げて言う兄。
しかし、何のことか分からない。
「あの夜?」
「有志の演奏を聞きに行った日だ。お前背負って家帰って、そのまま寝かせた。お前、夜中急に家飛び出して・・・。明け方、お前本屋に抱えられて戻って来た。速やかに引き取って、何にもしてないだろうなって睨みきかしたら、あいつ・・・くそっ曖昧に言葉を濁して去って行きやがって。ま、その後二三度頬を叩いたらお前起きて、自分で皺になったらいかんってパジャマに着替えて」
ちょっと!
だって!
「兄さん肝心なところ教えてくれてない!」
酷いじゃないか!
現実だった!
やっぱり夢なんかじゃなかったのに!
「言えるか!」
と急に兄が声を張るものだから、勢いを削がれて口を閉ざす。
「お前が傷物になったかもしれないのに!」
な!
「余計大事なことじゃんか!!」
馬鹿!と言ったら、急に兄がへにょりと眉をさげた。
あの兄が。
「・・・あの夜、お前が俺の背中で泣くから」
「泣いてなんか・・・」
「泣いた。何も変わって欲しくないって言って泣いたんだよ。お前」
「・・・」
ふつふつと鍋が、煮える音がする。
入れたうどんがふにょふにょになっている。
兄が、カチリとコンロを止めた。
「本屋と以外で恋をしてくれた方がいいと思った」
椎名でもいい。有志は・・・まぁアイツはどうかと思うが・・・。と兄が言う。
「何で、そんな風に思うの」
そう聞くと、兄はまた、襟足を掻く。
あ、もしかしてこれ癖なのかもしれないと、どうでも良いことを考えた。
「お前、俺が言ったこと覚えてるか?」
そうして兄は言う。
前と同じ事を聞いてくる。
あの時は、なに?って聞いたら何でも無い、とはぐらかされたのだっけ。
「何て言ったの?」
じっと兄を見る。
兄は、躊躇うみたいに口を開いては閉じを1.2回くりかえしてやっと振り切るように言った。
「あいつはお前の王子様なんかじゃない。あいつはいずれお前の前から消える存在だから、お前の王子にはなれないんだ」
「――――」
心臓が、痛いぐらい早くなってる。
消える?
何を言って・・・。
「葵、きっと悲しむ時がくる」
何を言ってるんだろう。
「お前が忘れたならいいと思ってた。人の気持ちはどうしたって変わる。だけど変わったらいけねぇことだってある。・・・結局お前はアイツに恋をした」
こんなこと、言いたかないが。と兄はがしがしと襟足をかく。
「お前、あの時言ったんだよ」
どうして。
そんなの、ちっとも覚えてないよ。
「悲しむときが来るなら、よけいに会っておくんだと」
兄の言った言葉が理解できなくて、ううん。そんな記憶ちっともなくて、混乱する。
兄はいったい何を。
「何を知ってるの?夏目さんの何を知ってるって言うの!」
詰め寄った瞬間、がたりと机が揺れて、盛ってくれた小皿からお鍋のスープが僅かに溢れた。
それを見て、兄がすかさず布巾で拭き取る。
私は焦れる思いで兄を見た。
拭き取る手を止め、兄は低い声を出した。
「何も。ただ、本人がそう言ったんだ」
ああ、暗転。