38話
崩れ落ちた身体は震えるばかりで、芯を抜かれたみたいだった。
椎名君が私を抱えて家まで送り届けてくれたこと、兄が焦った面持ちで家から飛び出して来たこと。
全て自分の事なのに、フィルターを隔てて映像を見ているように遠かった。
自分の身体なのに、酷く重い。
深海に沈んでいくようだ。
なぜ。なぜ?
考えたくない。
どうか。
考えさせないで。
※※※
真っ暗な部屋、外は雪がちらちらと舞っていた。
ベッドの端に蹲って、何度も何度も繰り返す。
同じ映像をこれでもかと言うほど繰り返す。
絡め取るような赤、赤、赤。
何度も、何度も、あの絡みつく赤いマニキュアが脳内で繰り返されて。
「!~~~」
狂いそうになる。
嫉妬で焼き切れてしまいそうだ。
ああ、だけど。
私を見る青灰色が。
あのひやりとする色が私の心に冷水を浴びせる。
まるで、嫉妬するのも烏滸がましいと諫めるように、冷たい湖に私を突き落とす。
繰り返すビジョンと思考にいい加減目眩がして、ぐしゃりと髪を掻き回した。
トントンと静まり帰った部屋にノックの音が響く。
「葵・・・飯食えるか?」
ドアの向こう側から、兄の覗うような声。
もう何度目かのご飯の知らせ。
私は、世界を遮断するように毛布を頭から被り、きゅっと目を閉ざす。
トントントントンと暫くノックは続いたが、暫くしてそれも消えた。
階段を下りる兄の足音を聞きながら、毛布をぎゅっと握りしめた。
自分が嫌いだ。
すごく迷惑をかけてる。
気を遣われてる。
自分が嫌いだ。
恋を自覚して、私は弱くなった。
ひどく身勝手になった。
こんな風になるくらいなら、初めから恋なんてしなければよかった。
夏目さんと私の関係を崩そうなんてすべきじゃなかった。
※※※
翌日、学校を初めてサボった。
兄が、朝トントンとノックをくれたが、結局身体は鉛のようにベッドから動きはしなかった。
目を瞑る。
全てを遮断するようにぎゅっと目を瞑る。
眠ろう。そして一時の安堵を味わおう。
そうして、また深く深く深海へ沈む。
このまま遠く、小さく無くなってしまいたかった。
どれくらい眠ったのだろう。
真っ暗な思考の端からブー,ブーと携帯のバイブ音が連続して聞こえてくる。
まって。
まだ寝ていたい。
そう思うけれど、途切れる気配の無いそれは煩わしいほど執拗で、しぶる私から眠りを取り上げた。
ゆるゆると起き上がり、静かになった携帯を見る。
メールが、10件。
着信1件。
10件・・・。
どうやら、今まで熟睡しすぎて、メールの短いバイブ音には気付かなかったようだ。
取り敢えずまず、メールを開く。
クラスの友人からの何件かのメール。そろって休みを心配する内容に、何処か後ろめたい気持ちになる。
そして、最後の一件は知らないアドレスからだった。
「?」
Sub無題
あどきいた
だいじようぶ
つらいの
しいな
-----END-----
開いた瞬間、その拙い文字に、一瞬固まって、そして記憶を探る。
友達になろうとアドレスを聞いたとき、椎名君は「機会、苦手」とそれを断ったのだ。
言葉以上につたない、この文字からも彼がどれだけ苦手か容易に想像できる。
変換もクエスチョンマークもなしの短い文字。
それでも、必死に打ったのかな。
どんな気持ちで?
どんな想いで?
ああ。
携帯を握りしめたまま、その画面に額を押しつける。
【大丈夫?辛いの?】
ああ、
ごめんなさい。
何への謝罪なのか分からない。
だけど、ごめんなさいと、ただ頭の中で繰り返した。
きっと、椎名君のくれた「すき」は私よりずっと綺麗だ。
私よりずっと、真っ直ぐだ。
向かう先が私であることを嬉しく思うより、恥ずかしい。
自分が恥ずかしい。
額に押しつけていた携帯が、再び振動を初めてびくりと肩が揺れた。
慌ててディスプレイの見ずに出る。
「はい・・・」
『あーおーいちゃーん』
「し、四季子?」
『あーけーてー』
「は?」
何のことと言う前に、ピンポーンと間抜けな音が響き渡った。
え?え?
転げ下りるように、ベットから出る。
ああ!スウェット!どうしよう。
と考えている間もピンポーンピンポーンピンポーンと連続チャイムが急かしてくる。
『はーやーくー』
「ちょ、ま」
ええい!もうこのままでいいわと、階段を駆け下りそのままの勢いで引き戸を開けた。
「『や』」
耳に当てた携帯と目の前の良い笑顔で片手をあげる四季子の二重音声。
半目になりながら、携帯をオフにする。
「いきなりすぎやしませんか」
「さっき一回電話したのに、葵音沙汰無いから」
悪びれない笑顔でそうのたまった四季子は、じゃぁおじゃましまーすと玄関に上がり込んだ。
※※※
「どうやって家分かったの?」
目の前でお茶を啜っている四季子に尋ねると、あちっと一つ呟いて湯飲みを置いた。
「椎名君が家の前まで連れてきてくれた」
「え?椎名君家まで来てくれてたの?」
なら、何故目の前に四季子だけしかいないのか。
私の疑問を汲み取ったらしい四季子が言う。
「椎名君、自分はいないほうがいいんじゃないかって」
「・・・」
押し黙った私に、四季子が首を傾げた。
私と違う、ふんわりとした茶色が肩先で揺れる。
じっと見つめるその目は真ん丸だ。
「葵さー。今日休んだのって風邪とかじゃないんでしょ?」
言い当てられて、「えっ」と弾かれたように四季子を見る。
そしたら、にんまりと四季子は笑った。
「恋バナしよっか」
※※※
四季子が行き成り始めた恋バナ。
最初は、押し黙って聞き役に撤していた私。
しかし、四季子と彼氏とのあれこれの話が終わり目で次はお前の番だと促されてしまうと、ついにはぽつりぽつりと話始める他なかった。
椎名君に告白されたと打ち明けたとき「やっぱりなぁ」としたり顔で四季子は呟いた。
「でも、葵、ずっと好きだったひとがいるって言ってたね」
四季子の問に私は神妙に頷いた。
どこまで話すか。
本当は、まだ夏目さんのことを話すのに抵抗がある。
私の大切な記憶。
これは、嫉妬心なのだろうか。
“嫉妬”という単語に赤い爪がフラッシュバックする。
「っ」
ぎゅっと目を瞑ってやり過ごす私に、四季子がどうした?って優しい声で聞いてきた。
誘われるように瞼を開けて、一つ呼吸する。
「・・・ずっと好きだった人が、女の人と一緒だった・・・」
「・・・」
やっと言葉にした私に、四季子はポカンとした顔をした。
なんだ、その顔はと睨んだら、ぽりっと顎をかいた。
「それだけ?」
「っだって。私だけだと思ってたんだ!私の前のあの人が本当だって思ってたのに!」
シラっとして尋ねて来た四季子とは逆に、私に火が付いた。
何もしらないくせに!と喚きたくなったのだ。
綺麗で、神聖で、なのに甚平なんてギャップのある物を着た夏目さん。
それが、本当だった。
私の中の彼の全てだった。
なのに、あの歩道で見た夏目さんは、私の中の彼とは余りにかけ離れていて。
もし、あっちが本当だったら。
あの冷たい目が本当だったら?
今まで築いてきた夏目さんと私の世界が崩れ落ちていく。
足下がぐらぐらする。
全てが嘘だったのではと疑いたくなる。
また、ぐらぐらと思考が赤に埋め尽くされそうになった時、「でもさぁ」て四季子が呟いた。
「それって、葵が決めることじゃないでしょ」
ぴしゃりとした言葉に、瞬きも忘れて四季子を見る。
そこには何時ものノリのいい四季子じゃなくって、真剣な強い眼差しの四季子が居た。
「その人の本当なんて、その人にしか分からないよ。私はその状況を見ていないから何とも言えないけどさ。だけど葵が凄くおかしな事言ってるのは分かる」
言葉が、上手くはいってこない。
なぜ?
四季子は私を否定する?
「その女はその人の恋人なの?聞いた?だったらそんなことわからないでしょ。あんた、その人に気持ち伝えたの?・・・結局あんたはさ、何もしてないじゃん。うじうじ一人で悩んでるだけ。嫌われる前から嫌われること怖がってさ。変わるまえから変わること怖がって、何一つアクションしてない」
四季子の質問に一つ一つ首を振ると、四季子はちっちゃい子をしかるみたいに含めるみたく言った。
四季子の言葉一つ一つが痛かった。
でも、大切な事を言われているということはよく分かる。
逃げていたのは本当だから。
「私は、あんたが嫌いだから言ってるんじゃないよ。あんたが好きだから言うの」
俯いた私に、溜息みたいに四季子が言う。
その暖かい声が縮こまって耐えてた心を意図も簡単に引き延ばして、ついにはボトリと涙が出た。
四季子が、ゆっくり私の背を擦る。
「・・・で、も、あの人は、っ普通の人じゃないからっ」
心の中の、どろどろした気持ちの奥の奥。
本音が、えずくみたいに言葉になった。
どうしたって、どうしたって叶わない。
私には、手に入らない。
椎名君みたいに、真っ直ぐ気持ちをぶつけることだって私には出来ない。
だって、きっと、夏目さんははぐらかしてしまうでしょう?
困ったように笑うでしょう?
私にはきっと何も答えてくれない。
真っ直ぐ感情をぶつけるには、彼が遠すぎる。
「なにそれ」
四季子が怒ったみたいに言って、私の頬を両手で掴んで引き上げた。
「そんなのって変じゃん。その人に対して凄く失礼なこと言ってる。葵さ。その人に対して壁つくってる自覚ある?」
瞬いて、またボトリと涙が溢れた。
「好きならさ。年の差とか、身分とかに自分が冷静になっちゃ何にも始まらないじゃない」
その人の前で泣きなよ涙は女の武器よ!と掌で私の涙を拭う四季子は、同い年のくせにずっとずっと、ずるいくらい大人だった。