表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/54

30話

空港からの帰り道、兄とゆっくり土手道を歩いていた。

休日のためか、川の畔に家族連れの姿が多く見られた。

駆け回る子供たち、川の方に行っちゃだめよと注意する母親。

息子とキャッチボールをしている父親。

日増しに寒くなる季節、ポケットに入れた指先は冷たい。

けれどああ、暖かいなと思う。

吐き出す息は白いけれど、それらの姿に羨望にも似たジワリとした気持ちが込み上がる。

何処か鼻の奥がつんとするような気持ちになる。


「葵」


呼びかけられて、ゆっくりと兄を見た。

少し先にいた兄が何処か気遣わし気に私を見ていた。

どうやら歩を止めてしまっていたらしい。

私は目を細め兄を見て、口を開いた。


「今日の晩ご飯何?」


「もう、夜の心配か」


兄が呆れたように笑った。


「私、お兄の茶色いおかずが好きだよ」


照れが生じて、つい昔みたいにお兄、と呼んでしまった。

兄はそれには何も言わず、茶色いは余計だと笑った。

兄の所まで歩を進めた私の頭に、ぽんと大きな手が置かれる。


「そうだな、今日はひじきだな」


私の髪にヒジキを連想したのか、兄は思案するように言った。


「茶色いを通り越して黒いおかずだね」


兄に頭を撫でられながら、私は俯いたまま言った。 


別れは嫌いだ。


だからつい感傷的になっているだけだ。

兄は私の弱さを知っている。

私は、ひどく変化を恐れる。

だからこんなにも、暖かく私を気遣う。


お兄、私は変われるだろうか。

私は何時でも変化を恐れる。

平凡な幸せに全てを覆い隠して、今に妥協する。

勇気がない。

自分から切り開く、未来に自信を持てない。

恋心を自覚した今でさえ、怖いのだ。

夏目さんと私。ずっと、ずっと積み重ねてきた静かで幸せな時間が“恋愛”という焦がれるように熱い

熱に奪われてしまう。

失いそうで怖い。

手に入れる自信もない。

夏目さんと私。ずっとずっと変わらなかった関係を私から変えることが出来るのだろうか。



※※※


「夕飯までには戻るね」


兄の乾燥ひじきを水に戻す背中にそう告げて、私は家を出た。

めざすは、もちろん古本屋。

私は、今までに無い緊張感とともに歩を進めた。


ひとつ深呼吸をして、カラリとその戸を開ける。


「夏目さん」


「葵ちゃん。いらっしゃい」


分かっていたけれど、彼はいつものように私を迎え入れた。

まるで何事も起きていないかのように振る舞う、いつもの飄々とした夏目さん。

嗚呼、やっぱりこの人は無かったことにしてしまうのだ。

抱きしめた腕も、触れた唇も、全部。


ゆるりと微笑む夏目さんを前に、私はじっと彼を見つめた。


きれいな人、綺麗な人。

踏み入れてはならない私のただ一つの聖域。

ずっと諦めていた。決して手に入らない人だからと。


何時もの場所に座ろうとしない私に、夏目さんは首を傾けて私を見た。

蜂蜜色の髪がさらりと揺れて、青灰色が私を映す。

その目に負けそうになる自分を叱責し、私は核心に迫るべく口を開いた。


「昨晩、私どうやって帰りました?」


どうか、夢にしてしまわないで。


夏目さんは無表情に私を見て、ゆっくりと一つ瞬いた。

髪と同色の長い睫を追うが、それは伏せられたまま私に戻っては来なかった。

少し困ったように笑う彼の口から、何かはぐらかす言葉が出る前に呼びかけた。


「夏目さん」


私をみて。はぐらかさないで。

そんな気持ちを込めて強く呼ぶと、ひたと青灰色の瞳が私を映した。

冬の湖みたいな瞳。

彼から微笑が消えていた。ビスクドールのような整った顔に心臓が跳ねる。

見て欲しいと願ったはずなのに、その瞳に映されると冷静でいられなくなる。

自然と呼吸が速まる。熱が顔に集まる。

見ないで欲しい。見て欲しい。

矛盾した気持ちが心を占領した。無言の空間を破るように、夏目さんの滑らかな手が私に伸びる。

私は身を固くした。

いつも撫でられることを期待しても、身を震わせるほど意識したりなどしない。

無意識に触れて欲しいと心が叫んだ。

ぎゅっと目をつむって、髪に触れる感触を待った。

だけど、いくら待ち望んでもその柔らかな感触はやってはこない。

そっと目を開くと、困惑に揺れる青灰色とぶつかった。


かぁっと顔が赤くなる。


見透かされた。

見透かされたんだ。

何を、と考えるまでもなくそう思った。

触れて欲しいなんて、ひどく恥ずかしいことを思った。

青灰色の瞳はそんな私の欲望を汲み取ってしまったのではないだろうか。

触れることを戸惑うほどに。


恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。

恥ずかしくて悲しい。小さく消えてしまいたい。


「今日は、も、帰ります」


小さくやっとそれだけ呟いて、私は夏目さんに背を向け店を出た。

戸を閉めて、その場にしゃがみ込んで小さく蹲る。


恋をすると、自分が世界一恥ずかしい存在に思えてしまう。

世界一恥ずかしくて滑稽で、苦しくて死んでしまいそうになる。

けれど、それ以上に欲深く滑稽な自分がいる。


「引き留めてほしいなんて、」


呻くように呟いた声は膝を抱えた腕に吸い込まれた。

引き留めて欲しいなんて、何処までも私は馬鹿だ。

夏目さんは何も言わない。

彼は、いつだって私を引き留めたりしない。

馬鹿だ。

期待する方が馬鹿なんだ。

駆け引きなんて出来るはずもない。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ