●椎名SIDE●
まるで興味など無かった。
全てのものに。
全てのことに。
でも本当は、
興味のない振りをしていただけかもしれない。
◆◆◆
「すっ好きです。椎名君」
目の前で顔を赤くしそう言ってくる女子生徒。
自分はこの人物と面識があっただろうか。
いくら記憶を辿っても名前は疎か、顔さえ出てこない。
「あっあの。椎名君の冷静そうなところとかっ他の男子とちょっと違うとことか素敵だなってずっと思ってて」
言い訳をするように彼女は言った。
冷静そう。
他と違う。
それが自分の本質を象るものであるのかと問われれば、答えは否。
自身を冷静とは思わないし、まして他と違うことを良いなどと思えない。
ただ、自分は自身が客観的であることを強く望んでいる。
しかし、だからと言って、雑念が無いわけは無く。寧ろ、自分は物事に囚われやすい。
それを表に出さないから、他人には自分が冷静だと見えてしまうのかもしれない。
集中して考えれば考えるほど、思考は何処までも深く潜って、言葉に出すことが億劫になる。
自分の中で自己完結してしまう。
「あ、あの?」
また、自分の中に意識を沈ませていた。
目の前の存在をすっかり忘れていた。
少しの罪悪感と共に下方にあるその顔を改めて見た。
やはり、知らない顔だった。
じっと見ていれば、今まで赤かったその顔が見る間に青くなっていく。
まるで、リトマス紙のようだ、と思考が斜めに行った。
「っっごめんなさい。私、余計な時間を取らしちゃって。私、ただ気持ちを伝えたくて
それで・・・。本当にごめんなさい」
去って行く背中を眺めながら、また誤解されたようだと嘆息した。
ただ、彼女を見ながら考えていただけなのに。
気持ちを伝えて、自分に何を望むのか。
自分は何を望まれた?
虚像のような自分が好きだと言うのは何故。
此方は、呼び止める名前さえも知らないと言うのに。
◆◆◆
SHの時間に、図書委員から読書週間というものが設けられる。
生徒に少しでも本を読む習慣を付けさせようという試みらしい。
15分という短い時間の中で、各自図書の本または持参した本を読むというものだ。
図書委員はその間、教壇の横の椅子に座らされる。
恐らく私語の無いよう生徒の監視役として、ということだろう。
その日もまた滞りなく15分が過ぎ、終了の声を掛けようと顔を上げた時だった。
それは、見落としてしまうような、ほんの些細な出来事だった。
出来事と言うのも可笑しい些細なこと。
一度も話たことも無いようなクラスメイト。
彼女は読み終わったのか本を閉じると、裏表紙を指先でそっと撫でた。
只、それだけの動作。
それなのに、それは鮮明に目に焼きついた。
◆◆◆
「夜彦。私たちが重んずるは何か、お前は理解しているのか?」
自分の挿した花の前、その人は静かに問いかけた。
自分とよく似た、顔。
椎名家の当主。父親であり師。
「花本来の美しさ。過剰でない表現力」
「そうだ。私たち椎名家が代々受け継ぐ流派は、花本来の美を生かすことに重きを置く。過剰な演出や独自性など必要ではない。お前は、己を前に出しすぎる。これでは花本来の風情は失われるだろう」
もっと精進しなさい。と表情も無く否定された。
求められる作品を造ること。
それは己の個性を殺すこと。
それならば、自分が挿す意味など…。
喉が焼けつくように熱いのに、吐き出す言葉はこの厳格な人の前では一つしか無い。
「…はい」
ああ、霞んでいく。
目前の生けたばかりの白ユリが、本来の白さに反して、くすんで見えた。
幼い頃は只、花を生ける事が楽しかった。
花器の中に広がる自分だけの創造世界。
鮮やかに美しく広がって行く。
意味など考えるまでもなく、ただ愛で、励むことが出来た。
疑問を感じ始めたのは何時からだろう。
恐らく「椎名」の名を意識しなければならなくなってから。
華道家として世に出る事も増える。それは、名誉を得ると同時に重い責任を負うということ。
椎名の名を受け継げば、自分は求められる姿でそこに収まることになるだろう。
型を守り、それを貫く。それもまた、多大な努力を費やさなければならないことだ。
しかし、時折思うのだ。
そこに在るべきは、自分でなければならないのか、と。
「あら坊っちゃん」
父の部屋から退室したところで家政婦の田中さんが、にこにこと話しかけて来た。
長年勤めている彼女は、未だに自分を坊っちゃんと呼ぶ癖がある。
「今日も奥様はいらっしゃいませんが。いかがなさいましょう。夕餉は旦那様と?」
「……部屋に」
「はい。かしこまりました」
自分の端的な物言いにも慣れている彼女は、あっさりと要望を飲み一つお辞儀して去って行った。
もう、家族で食事をとらなくなって随分長い。
厳格な父、奔放な母。
怨むことも嫌うこともしないが、二人は家族というには、とても遠い存在だった。
それが普通では無いと、何時頃気付いただろう。
白い襖を開き、無機質で殺風景な自分の部屋に入る。
しん、と静寂が耳に痛い。
窓辺にある机に近づき、一番上の引き出しに手を掛けた。
何冊ものノートの束。
何時から書き始めているのかすら、もう憶えていない。
言葉の足りない自分は、書くことをその捌け口とした。
文字にすれば、まるで急流の如く言葉は溢れ出す。
他愛も無く取り留めの無い言葉は流れる様に紙上を流れ、やがて一つの話となる。
言葉を紡ぎ、一つの形にし、それを繰り返す。
魂の浄化をするように。
書かれたそれらは、誰の目にも触れられることなく、こうして引き出しに溜まっていく。
何れにせよ、厳格な父がこれを知れば、恐らく好い顔はしないだろう。
馬鹿げた自己満足に時間を割く余裕があるならばもっと精進しろ、とでも言うだろうか。
いっそ、自分の手で燃やしてしまおうか。
己の執着を燃やせば、椎名に相応しい花を生けることが出来るだろうか。
やり場のないこの感情を昇華出来るだろうか。
そんな考えと共に一冊ノートを取った時、それは脳裏を過った。
裏表紙を撫でる指先。
まるで、物語の余韻を味わうような、慈しむような仕草。
あの指先。
あんな風に、撫でられた物語は、さぞ幸せだろうと。
そんな事を思った。
◆◆◆
笹野葵。
あの指先の持ち主。
クラスで目立つ事も浮く事もしない、ごく普通の女子高校生。
クラス内で彼女は、明るく人好きのする生徒だった。
ただ、気にかけるようになって気付いたことだが、彼女は時折、ここではない違う場所を見る様な、妙に神秘的な表情をする。その瞬間の彼女は何処か近寄り難くも感じてしまう。
そんな風に彼是と彼女を気にするほどには、あの指先が頭を離れなくなっていた。
「ねえ葵は何読んでるの?葵もハーレクイン?それともコバルト?」
「違うけど。“も”って事は四季子はそうなの?」
「ちっちがうわよ」
「何で焦るの?」
それは読書習慣最終日のSH後に不意に聞こえて来た会話だった。
「井伏鱒二の山椒魚」
「へー。葵ってそゆの読むんだ」
「何で不満顔?」
「何か葵のイメージじゃ無いっていうか…。あれ、図書の本じゃないんだ。自分の?」
「ん?んー」
私のではないんだけど。と彼女は曖昧に答え微笑んだ。
またあの表情だ。
そして、愛しむように本を撫でる。
何故か、はっとするくらい彼女が纏う空気が変わる。
井伏鱒二の山椒魚。
山椒魚の滑稽だけれど物悲しい話。
岩場に嵌った山椒魚。孤独に耐えかねて捕らえた蛙。
何年も何年も、暗い岩穴で二人ぼっち。
山椒魚に投影された、人間の奥深い心理。
とても有名で興味深い名作だ。
彼女はそれ程に、作品に感銘を受けたのだろうか。
彼女の指先の動作は、作品を思って?
あるいは、それを貸した人物だろうか。
また、余計な詮索をしてしまう。
指先が、彼女が、頭から離れない。
◆◆◆
放課後、図書委員の仕事をしていた時、図書室で彼女を見た。
何やら真剣な様子で本に向かい、ブツブツと小さく呟いている。
図書室には、ほぼ人は無い。
注意するほど煩くも無かったが、何を読んでいるのか興味を惹かれ側に向かった。
「思えば、なんてことのない出会いだなぁ。大体、兄はあの頃から、夏目さんに恐れを?」
「さっきから、ブツブツ正直不気味」
「おわっ。椎名君!」
自分の突然の出現に驚いたらしい彼女は、大きな声を出した。
自分の名前を知っていたのか、と思いながらジッと見ると、少し強張った表情になる彼女。
それはそうだろう。クラスメイトとはいえ、自分は初めて彼女に話かけたのだから。
元より、話すことが苦手な自分は話す糸口を既に無くして、つい図書委員として彼女に声を掛けてしまう。
「図書館では静かに。これ基本」
「あ、うん。ごめんね」
驚かせたのは自分なのに。
彼女にすまなさそうに謝られて、更に自己嫌悪に陥る。
どうにか話を続けようと、彼女の読んでいる本に目を落とした。
花図鑑?
「花に興味が?」
「や、えっと花ことばを…」
しどろもどろに、少し頬を染めて話す姿が何だか可笑しくて。
「…超、おとめ」
気がついた時にはそう言ってしまっていた。




