3話
夏目さんの特別な女性。
赤い着物の良く映えた悲しげな女性。
毎年、カサブランカを贈られる女性。
思考を振り切るように、家に戻り引き戸を後ろ手で絞めたまま、その場にしゃがみ込んでしまった。
醤油のいい香りが充満している。
どうやら豚は確実に美味しくなっているらしい。
「おお、早かったな」
相変わらず、ひよこエプロンの兄がほのぼのと出迎えてくれた。
おい、どうした?と聞いてくる兄に首を振ってのろのろと立ち上がる。
「何か、あったか?」
「ん、おなか減った」
もちろん、腹が減ってしゃがみ込んでしまったわけではないが。
何故か、自分がショックを受けていることに対してショックなのだ。
理解不能だ。
「なんだ、とうとう“妖怪本性現る”かと思った。よくぞ食われる前に逃げ戻った妹」
部屋に戻りながら兄が軽口をたたく。
本性ねえ…。
「というよりも、“熱愛!!知られざる恋”かな」
ぶっと兄が噴き出したらしき音が聞こえた。
なんだ、きたないなあ…。
「ね、熱愛って。おおっお前、ついに妖怪に手ぇ出されたのか」
ものすごい勢いで肩を揺さぶられる。
なんだ、この男。あつくるしい。今私はそれどころではないのだ。
自分のショックにショックしてだなぁ…。
「違う!私とじゃなくて、白百合の君と!!」
「しらゆり?」
ぴたりと兄の手が止まる。
それを、面倒くさく振り払いながらコクリと頷いてやった。
「そう。今日、綺麗な女性が訪ねてきたの」
「客じゃなくて?」
「ただならぬ雰囲気だった」
あの女性の熱い、焦がれるような視線。あれが恋でなくて何だというのか。
それから、夏目さんは毎年カサブランカを彼女に…。
あれ、でも確か【今年が最後になる】とか【もうすぐ終わる】とか、あれはどういう意味だったのか。
もしかして別れ話? いや、でもそんな雰囲気では…なかった。
寧ろ喜ばしい響きにさえ聞こえて。
うーん。と呻っていたら、いつの間にか兄が食卓に料理を並べ始めていた。
母と父はいつも帰りが遅いので、大抵二人で先に食べる。
急いで箸とお茶の準備に取り掛かった。
料理は任せっきりでも、これくらいは私の担当だ。
「ま、あいつもいい年した大人なんだし、そういう人がいてもおかしくはないだろうな」
相手が人間かどうかは疑わしいが…。
と、すっかり美味しそうに彩られた食卓に付きながら兄が言った。
何だか今はそれも否定することが出来ない。
夏目さんは、私がほんの小さい頃から、あのままなのだ。
蜂蜜色の髪に青灰色の瞳。初めて会った時、王子様が現れたかと思った。
まぁ甚平姿だったけど…。
幼い私の初恋は夏目さんだった。綺麗な指が私の頭をなでてくれて、不思議な色の目が微笑に細まった。
あの瞬間恋に落ちた。
しかし、いつの日か気付いたのだ。
彼はきっと私とは違う次元を生きていて、決して交わることのない人だと。
子供の十年と大人の十年は違う。もちろん、彼が老けにくい人で、20代に見える30代であるのかもしれない。
もしかしたら、エイジングケアには事欠かないとか。いや想像できないけど。
でも、そんなことではなく、ただ悟った。
この人に恋心を抱いても叶わないのだと。
そういう人間らしさが、夏目さんにはない。
彼の存在は私にとって侵してはならない神域のように美しい。
だから、不思議な彼を暴きたいとかそういうことはなく、ただ彼の傍にいられたらそれだけで、満たされる。
初めて見た、夏目さんの人間らしさ。
嗚呼、そうか。
だからショックなんだ。私の知る世界以外で、夏目さんの世界がちゃんと存在し回っている。
当たり前の事なのに、それが嫌なんだ。
夏目さんを人間ではないと望むのは、寧ろ私なのか。嫉妬よりもたちが悪い。
いつまでもサンタクロースを信じたい年頃でもないくせに。
「ああ、子供っぽい」
「何だ、俺のエプロンにケチつける気か」
私の独白に兄が過敏に反応した。子供っぽい自覚あったのか。ヒヨコ…。
「まさか。この神のごとき角煮を作れる兄上にそのような暴言を吐くことがあろうか(いやない。反語)」
「そうであるか、なら良い」
急に始まる平安ごっこに付いてこられる兄は素敵だ。さすが、私の兄。
「いわんやオムライスをや」
ちょっと違うが、伝わるだろう。オムライスは言うまでもなく美味しいだろうな〜(現代語訳)だ。
つまりヨイショしてリクエスト。如何せん、兄の料理は和食が多い。
親の好みのせいが大きいけど。たまには茶色くない食事要望!!
「あい分かった」
何処の皇帝だ。さすがだ、兄上。