28話
この階段はどこまで続いているのだろうか。
下へと伸びる階段の先は暗く、踏み出すのは中々勇気がいる事だった。
しかし、先程聞こえたピアノの音は確かにこの先から聞こえたようで、微かだが途切れ途切れに階段の先から音が反響していた。
どうしよう。思いがけないものを見つけてしまい戸惑う気持ちと、妙に確信めいた期待が綯交ぜになって私を急き立てた。
隠し階段。その名の通り隠されていたのだ。
いいだろうか、いいだろうか、この階段を下って行っても。
知りたいという気持ちが勝って、私は意を決し仄暗い空間に足を踏み入れた。
石造りの階段は妙に硬質な音を響かせ、少し足が震えた。
緊張のせいか息が上がる。
10段もしないうちに階段は終わり、深く息を吐いた。
ピアノの音はもうしない。
酷く、非現実的だと思った。
耳の奥で警鐘が鳴っているような気がする。
ゆっくりと壁を伝ってすぐ木の扉に行きつく。古めかしい、だけど普遍的な扉だった。
この扉の奥からピアノは聞こえたのだろう。
ごくりと喉が鳴った。ゆっくりと扉を引く。
「…?」
部屋だった。窓もない部屋だ。
12畳ほどの箱のような部屋。
そのほとんどが、中央に置かれたピアノと、それを囲う山のような本に占領されている。
人影は無いが、確かに誰かいたのだろう。
ピアノの上に置かれたにランプが暗い部屋を仄かに鮮明にさせていた。
そろりと部屋に踏み入ってもそこに人の気配はしなかった。
年代物という感じだが綺麗に磨かれたピアノとは対照に部屋に所狭しと積まれた本たちは、どことなく古めかしいものばかりだった。紙が黄色く劣化しているものも多い。
店に入りきらない夏目さんの私物だろうか。
ということは、ここは本の貯蔵庫?
それならば、と目下のピアノを見やる。何故、ピアノ?
もう一度ぐるりと部屋を見渡して見る。
良く分からないけれど、ここは貯蔵庫と言うには人の気配が強すぎる。
けれど、どこか放置されたような物悲しさが部屋に染みついているような。そんな違和感。
あ、と目にとまる物があった。ピアノの上に、本が一冊。
部屋に溢れかえる本たちとは何となく違った様子で、それはポツリと置かれていた。
古びた白が黒の上で独立した雰囲気を醸し出していた。
明らかに他の本とは様子が違うように思う。
薄い表紙に書かれたそれに、どこかで見覚えがあるような気がしてそっと手を伸ばした。
「駄目、だよ」
「っ!?」
声に伸ばした指が止まる。
中途半端な姿勢で振り向けば、木製の扉に寄りかかるようにして立つ夏目さんがいた。
「なつめさ」
出しかけた声が途切れた。
彼はゆっくりと私に近付く。
「…っ」
ランプに照らされた彼の瞳は余りにも冷たかった。
それは、初めて己に向けられたもの。
のばされる彼の長い指先。無意識に身体が震えた。
私の反応に彼の指先が宙に泳いだ。
「-――君も僕が、怖い?」
キミモ、ボクガ、コワイ?
「っ」
言われた言葉に息を飲んだ。
ただ、自分は酷く愚かな反応をしてしまったのだと、はっと彼を見る。
無機質な瞳。それは彼自身を蝕む大きな絶望。
ああ、馬鹿だ。馬鹿だ私は。
「ちがっ」
「リストの愛の夢」
私の否定の言葉に被さるように夏目さんが呟いた。
夏目さんはピアノを見下ろして、一つ鍵盤に指を落とした。
ポーンと静かに響く。
「有志くんから招待状を預かった時言われたよ。君のためにリストの“愛の夢”を弾くと」
言われて、有志さんが最後に弾いた曲を思い出した。
最後の曲は君に、と。マローさんに曲名を聞いても教えてはくれなかったあの甘やかな曲。
あれが、愛の夢という題名なのだろう。
だけど何故それを有志さんがわざわざ夏目さんに。
「牽制されたところで僕は到底かなわない」
僕は機械のようにしか弾けないから。と夏目さんはクスリと笑った。
夏目さんらしくもない皮肉めいた笑い方だった。
そして、私に視線を戻して言う。ドレスとても似合っているね、と。
「君はとても綺麗になる。たくさんの人に影響されて、もっとずっと」
諦めたような、突き放した言い方だと思った。
褒められたって、ちっとも嬉しくない。
悔しい。悔しくて歯がゆくてたまらない。
私は有志さんから貰ったドレスをぎゅっと握りしめていた。
――君も、僕が怖い?
きみもと夏目さんが私を含めようとする領域。それはとても冷たい領域。
――人は受け入れられないことを知った時、とても絶望すると思わない?
くやしい。
ぐっと喉に力を込めて、私は夏目さんを見据えた。
「私は…、たくさんの人に出会って、たくさん影響されたり影響したりして生きていきたいんです」
私は手を伸ばして、夏目さんの手を掴んだ。ぎゅっと力を込める。
「綺麗になります。だけどそれはずっと夏目さんの隣で、です。たくさんの人のおかげだろうと、たくさんの人のためじゃない」
言っている意味が支離滅裂すぎて自分でもよくわからない。
だって、夏目さん。私にはあなたが行かないでって言っているように聞こえる。
ずっと夏目さんがいなくなることを恐れていたのは私の方なのに。
「勝手です。夏目さんは勝手だ。私は、夏目さんが怖いなんて一度も思ったこと無い。怖がってるのは夏目さんじゃないですか」
どんなに恐れていても私は変わる。
変わるのを恐れるのは、この人が特別だから。
好きだから。
もう、誤魔化しようもなく夏目さんが、好きだから。
ずっとずっと、出会った日から好きだったから。
どうか、否定しないで。私を否定しないで。
私ももう、自分の気持ちから逃げるのはやめるから。
私を映す青灰色の瞳が困惑に揺れた。
「怖がる…僕が?」
「夏目さんはいつもはぐらかしてばかり。本当の夏目さんは何処にいるんですか?」
「本当の、僕?」
「夏目さんを知りたいんです。だって私は」
私は夏目さんが好きだから。
そう言い終える前に、強い力で掴んだ手ごと引かれて胸の中に抱き込められた。
周囲にあった本の山の一部がばさばさと音を立てて崩れ落ちた。
強く引き込まれたにも関わらず、彼は壊れものでも扱うように私を抱き込める。
そのことが、私の胸をギュッと切なくさせた。
「…僕は、この部屋でずっと、ずっと一人だった」
表情は見えないけれど、何時になく頼りない声音だった。
「ずっと?ここで?」
この小さな、暗い空間で?
「ずっと待っていたんだ。僕はずっと」
ずっと、と夏目さんは繰り返す。
身体を包んでいた腕が離れて、夏目さんは私の両頬と包み込むように掬い上げた。
何処までも美しい顔が私を見ていた。
夏目さんが、酷く脆く感じる。
飄々としていて、何時も私を助けてくれる夏目さんが。
私の中で何か熱いものが込み上げてくる。
彼の心は一体何に捕らわれているの。
「ごめん」
「!」
耳元で切なげに響いたその言葉。
唇に触れた感触。
思考も呼吸も全部、彼の薄く冷たい唇に奪われた。
途切れる呼吸、息苦しさ。
「っ…ふ・・・ぅ」
もがくように、溺れるように、求めるように息が漏れた。
じわりじわりとお互いの熱が伝線する。
馴れない甘い痺れは私の中枢神経を麻痺させ、溶かしていった。