25話
「いらっしぇぃ」
カランカランと御馴染のベル音を鳴らして漣に入ると、例の如く小松親分が威勢よく出迎えてくれた。
私は、ドアに手を掛けたまま固まってしまった。
何時もと同じベル音と小松の親分の声。
だけどココは何処ですか。
隅にひっそりとあったピアノが店の中央…テラスに続く大きな窓の手前に配置され、まるで何時もの喫茶店の面影を消している。
そして何より、明らかに外国の人が二人います。
しかも、何やら見られております。
…非常に、入り辛い。
「おおぅ。葵ちゃん!えれぇめんこいじゃねえか!秀坊も良く来たなぁ。さぁ入んな!」
「どうも御無沙汰です。葵。つっかえてないで早く入れ」
固まっていたところを、小松親分と兄に促され、おずおずと足を踏み入れる。
本当に此処は漣なのだろうか。
何時もと違う雰囲気の店を、私は所在無く辺りを見回した。
普段はレースのカーテンのせいで気付けなかったが、窓の外はテラスになっていたのか。
あ、テラスにいる白いスーツの後ろ姿は若しかして有志さんでは?
テラスに続く窓に肩をもたせかけながら、月を眺めている様子の白スーツ。
うん、あの気障な佇まいは確実に有志さんだ。
ジッと見ていれば、白スーツの背中が振り向く。
予想通りそれは有志さんだった。
眼が合った瞬間、彼はカッと眼を見開きすぐに逸らされる。
何故だ。
何か、出会った当初を彷彿させるな…。
不審に思いながらも、先日なんだかんだ打ち解けたことも手伝って、私は躊躇い無く有志さんに近づいていった。
「こんばんは。今日は御招待ありがとうございます」
「……にっ似合わない事も無い!」
「…はい?」
顔を明後日の方向に向けたまま、唐突に言われた言葉。
いったいこの人はどうしたのだろう。
理解できない。
「ダメでしょユーシ。ソンナんじゃぁ何も伝わらナイよー」
若干困惑しているところに、少し片言混じりの日本語が割り込んできた。
振り返れば、さっき見た外国人二人だった。
声の主は、フワフワの栗毛にヘーゼルの釣り目がちな瞳をした悪戯っ子を思わせる風貌の人物。
その彼につづく男性はダークブラウンの髪に灰色の瞳で、その佇まいは一言で言うなら紳士。ダンディズム溢れる人だ。
「君がアオイかー。ウんキュートだ。本当にちゃんと女の子なんダネぇ。ふーん。へー」
栗毛色のフワフワした方が興味深そうに言った。
少し屈みながらの近い位置でジロジロ見られる。
初めてのインターナショナルな人に、私は失敬な!と感じるよりドギマギしてしまう。
すると紳士の方が、こら、失礼でしょう?とフワフワ栗毛を諌めた。
流石紳士だ!とか思っていれば、彼が私を振り返って微笑する。
「失礼、レディ。ドレス、よくお似合いですよ。無理な注文に応えた甲斐がありました」
「そうそう。ユーシったらイキナリ電話で…」
「ライアス!!マロー!!」
有志さんが怒鳴った。
余計なことを言うなとばかりに、二人をギリギリと睨みつけている。
「オーコワいネー」
「することは無駄に気障なくせに、本人を目の前にするとすっかりヘタレですね」
栗毛さんが、少しも怖くもなさそうに肩を竦めて言い、紳士さんが嘲る口調で続いた。
有志さんはうっと言葉に詰まってしまっていている。
話の流れはよく分からないけど、何か哀れだった。
思わず、憐憫の眼差しを彼に向けてしまう。
すると横から肩をチョンチョンされた。
振り向けば、にっこり笑う栗毛さん。
「ドーモー。向こうでユーシの親友でチェリストのマローでース」
「同じくユーシの友人で洋服店を営んでおります。ライアスと申します。」
「あ、どうも葵です」
栗毛さんがマローさんで、紳士がライアスさんか。
頭の中で彼らの呼称を変換していたら、ライアスさんが私を眺めながら満足そうに頷いた。
「本当に葵という名がぴったりの方だ。刺繍を施して正解でした」
「え!これ!?」
「はい。私のデザインです」
うわああ。
葵の刺繍とか偶然じゃなかったんだ!
凄い。何か感激過ぎて言葉が出ない。
そういえば洋服店を営んでるって言ってた。
こんなダンディーな人が私にドレスを誂えるなんて!
「すごい素敵です!あの、こんな素敵な服生まれて初めてです!」
きらきらとした視線をライアスさんに向けると、彼は堪りかねたように噴出した。
そして、意味深に有志さんを流し見る。
「くっ。これでは肩無しですね。ユーシ」
「…煩い」
どういうことだろうと首を傾げる。するとライアスさんは苦笑交じりに言った。
「レディ。礼なら彼に言っておやりなさい。私は彼から注文を承って仕事をしたのですから」
「あ……」
そう言えばそうだった。
足長おじさんは有志さんだったんだっけ。
何で、私に服を送ってくれたのかは謎だが、くれた本人には違いない。
私は、慌てて有志さんを見上げた。
また、変な方向を向いているけどこの際気にしない。
ニヤニヤと有志さんに視線を送るマローさんも気にしない!
「……」
「あの、ありが」
「おい。まだ始まらないのか」
地の底から響くような兄の登場でその場は凍りついた。
兄の登場により、本来の目的である演奏会が始められることになった。
兄と小松親分はカウンター席、私はピアノの近くのベロアのソファーに何故かマローさんとライアスさんに挟まれる形で座っている。
狭くは無いけど、他にソファーあるのに…。
ピアノに向かう有志さんからの視線が痛いのですが。
両隣の二人は、そんな有志さんを楽しんで態とからかっている様子。
何だか不憫ですね。と呟くと、これ位自業自得だという答えが両隣から帰ってきた。
自業自得か…。何を仕出かしたんだろう有志さん…。
※※※
窓越しの月を背景にピアノに向き合う姿は、それはもうさまになっていた。
「では、この月にまずこの曲を捧げようか」
そんな気障な言葉を言って、有志さんは鍵盤に手を預ける。
静かに、零れるように始まったメロディーに私は目を見開いた。
うわ。
今なら、彼の言っていたことが分かる。
技術だけではなく、気持ちの籠る音とはこうも鮮やかなものなのか。
その音はまさに、淡く静かに光る月だった。
何て綺麗なのだろう。
目の前に見える月が、歓喜し白光しているようにさえ感じる。
これが心を込めるということ。
音に思いを寄せる事。
音が溢れる。
色になって弾ける。
胸を打つ。
最後の一音を聞き終わっても、私は余韻から中々抜け出す事が出来なくて、暫しぼうっとしていた。
ヤバイ。今までの人生クラシックなめてた。
本気で泣きそう。
「Debussyの“月の光”ダ」
「腕を上げましたね。ユーシ」
両隣からそんな言葉が聞こえる。
ドビュッシーの月の光…。
本当に、月の光そのものだった。
私は、放心状態のまま胸に手を当てていた。
それから、ショパン、モーツアルトと演奏は続いた。
どれも素晴らしすぎて、どんどん気持ちが高まる。
――あいつの演奏を聴いたらみんなあいつに惚れてしまうんだ。
今なら兄が言っていたことも強ち嘘じゃないって分かる。
これなら、彼に熱を上げる女性が増えても仕方がない。
「最後の曲はリスト。これは…君に」
そう言って有志さんは私の方を見た。
え、私?
自分を指さしてキョトンとしているうちに、有志さんの視線は、もうピアノへと外れてしまった。
リストと聞いて、以前夏目さんが弾いた超絶技巧を思い出したが、始まったメロディーは、それとは対照で、流れる様な甘やかな曲だった。
夢の中を、漂うような心地になる。
今にも薔薇の香りが漂ってきそう。
メロディーが物語を紡ぐみたい。
夢の心地でその曲を聴いた。
最後の一音が惜しむように音を響かせて、私はようやく夢の世界から帰って来た心地で瞬きする。
「さっきの、リストの何て言う曲ですか」
今まで隣で曲の題名を教えてくれていたマローさんへ問いかける。
「これはボクの口からは言えナイナー」
マローさんは悪戯っ子のように無邪気に笑ってウインクした。