21話
どうしてだろう。
夏目さんの傍にいると私は自分をするりと見つけることが出来る。
安心して自分の気持ちを引き出して、あるべき場所に据えるように。
きっと、彼以外の側でそうは出来ないだろう。
だから、きっと彼はいつまでも私の特別。
それでいいではないか。
不意に、そんな言葉が浮かぶ。
夏目さんと居る時の私。
兄と居る時の私
椎名君と居る時の私。
学校の友人と、先生と、小松親分と有志さんと……。
どの時の私も、本当の私で。
どの時の場所も私にとっては特別。
壁などに臆する必要などないではないか。
私は、もっともっとたくさんの人の傍でたくさんの私を見つける。
私が広がる。世界が広がる。
それでいいんだ。それがいい。
今までうだうだと悩んでいた事が霧散して私の心は水を得たように潤った。
夏目さんはやっぱり私の魔法使いだ。
ねえ。今、心がこんなにも軽い。
やっぱり、その青灰色の瞳には魔力でも込められているのでしょう?
※※※
「僕も、その彼が書いたという小説を読みたいものだね」
ぽつりと夏目さんが言った。
流石は無類の本好きの彼らしい台詞だった。
実は返すことの出来ないまま彼の小説は私の鞄の中で眠っている。
でも、「特別」だと言って渡された小説を本人の了承もなくハイと他人に明け渡す真似は良くないと思った。
それは、いくら夏目さんにでもだ。
でも椎名君にとって夏目さんに小説を読んでもらうのは悪いことではないとも思う。
それぐらい夏目さんは本が好きだし愛しているのだ。
「今度椎名君に聞いてみますね」
あるいは、一緒にここを訪れるのも良いかもしれない。
その考えが芽生えて、私は自らに驚いた。
誰にも立ち入られたくないと思っていた場所に一緒に、などと。
今までは思い付きもしなかったのに。
ああ、私も変わり始めている。
「椎名君…椎名」
夏目さんが何故か思案顔で椎名君の名前を連呼している。
「どうかしましたか?」
「いや、椎名君は下の名前はなんというのかな?」
「ええと、確か椎名夜彦だったような」
夏目さんは思案顔のままフムと頷くと、早々に席を立ち何処かに行ってしまった。
そして一冊の雑誌のような本を手に戻ってくる。
「美しきかな日本」
と、その本の表紙には書かれてあった。
表紙を飾る写真は地蔵。
「……なんの本です?」
「ちょっとマイナーな月刊誌なのだけど、」
そう言って夏目さんは、ぱらぱらとページをめくる。
陶芸や書道といった日本の芸術および芸術家が記載されたそれ。
ジャンル別に特集が組まれているもののようであった。
「ああ、そうこれだ」
あるページに辿り着いて、夏目さんは雑誌を机上に広げた。
華道界の新栄、孤高の氷結王子!椎名夜彦
そうデカデカと書かれた見出し。
その下に椎名君の姿があった。
私と夏目さん、二人して本を覗き込んだまま固る。
「こ、孤高の」
「氷結王子」
私は引きつりながら、夏目さんは笑顔のまま呟いた。
夏目さんが、愉快そうな口調で書かれた文章を辿る。
「ええと、どれどれ?“迷いのない指先が花へ伸び、凍てつく瞳に、花もその時を止め彼の独創世界の住人となるだろう。揺るがない彼の表情は、湖面に張る薄氷の如しであった”だって」
「よく分からないですけど、すごそうな感じですね…」
この記事を書いた人は、とんでもないポエマーのようである。
しかし流行りだからって何でもかんでも王子を付ければいいというものでもないと思う。
しかも何故あえての氷結…。
鉄仮面よりは良いだろうけど…。
鉄仮面王子…。
「葵ちゃんの言う椎名君かい?」
頭の中で奇妙な王子像が出来上がったところで、夏目さんに確認される。
「は、はいそのようで」
「代々流派が続いているようだよ。彼も立派に華道家というわけか」
「…はい。私も、初めて知りました」
写真の中の椎名君は、臙脂色の着物姿でピシリと背筋を伸ばして花を挿していた。
全くの無表情は同じなのに、こうして切り抜かれた写真の彼は、まるで別人のように見える。
花図鑑。スイートピーを見詰める眼差し。
伸びた背筋。
度重なる欠席。
家政婦。
自分の夢を追うか、定められた道を行くか。
今までの椎名君の言動が瞬く間に意味を持ち、私を納得させていく。
「そ、か」
写真をジッと眺めながら呟いた。
「彼が遠くなったかい?」
傍らで、私に問いかける声。
遠い。
手の届かない、とても遠い存在のように思える。
だけど。
だけど私は。
私は、写真の椎名君から夏目さんへと視線を動かした。
私を見つめる視線は、もう私の答えを知っているようだった。
僅かに笑む瞳が私に答えを促す。
「いえ。いいえ」
私は噛みしめるように否定を言葉に乗せた。
私は知っているから。
すべてがくすむと呟いた彼の厳しい横顔を。
「特別」と開け渡された心の欠片を。
写真で見る遠い彼ではなく、この目で見て感じた彼の傍に、私は居たい。
彼の問題は大き過ぎて私の手に負えることではないと思う。
だけど。
――大切なのは何を与え得るかではなく、どう存在するか
私は、彼にとって、安心して弱音を吐ける存在でありたい。
※※※
「面白いですか?」
いまだに椎名君の記事を見つめている夏目さんに問いかけた。
私は、記事の内容のことを聞いたのだ。
夏目さんは、花や芸術ごとに関心が深いから。
「おもしろくはないね」
十分な間をおいて、夏目さんは記事を見詰めたまま呟いた。
予想外の言葉に驚く。
蜂蜜色の髪が彼の表情を隠して、どこか不安にさせられる。
返す言葉を探して黙していると、夏目さんは見えない表情まま言葉を続けた。
「僕はね、君が思うほど、聖人君子でも何でもないよ。葵ちゃん」
「え」
「君の話を聞くのは、あまり愉快ではなかったね」
其の言葉に私の心はツキンと冷えた。
やはり、迷惑だったのか。
私の悩み事を聞かされるのは、不快でしかなかったのか。
余りの驚きと衝撃。
私は、目の前を真白にさせるだけで何も言えなくなってしまった。
「君が他の男の話をするのは正直、おもしろくない」
少し不機嫌そうに呟かれた夏目さんの声が沈黙を破る。
私の意識は浮上したが、言われた言葉にまた思考が真っ白になる。
「え、男の?」
言われた意味が、よく…。
「君の口から他の男の相談など聞きたくはないというのが本音だからね」
たじろぐ私に、やっと雑誌から顔を上げた夏目さんが微笑む。
ものすごい笑顔。
な、ん、か。
夏目さんが恐ろしい。
すごく笑顔なのに…。笑顔だからこそ。
何時ものように揶揄として受け流すことが出来ない。
「どう、して、ですか?」
私は動揺を隠せないまま、どうにか声を出して、彼に尋ねた。
尋ねるより他に答えが見つからなかった。
彼の言葉を理解するのには、あまりに動揺していたのだ。
本当に答えが出せないのだという困り顔で夏目さんを見つめる。
「………君ね、」
珍しく夏目さんが呆れた表情をして言い淀んだ。
何かを言いかけるように薄く唇が開かれるが、いくら待っても彼から次の言葉は出てこない。
珍しいその様子に、私は動揺も忘れて彼に見入る。
興味津々とばかりに目を瞬かせていると、夏目さんは少し呆れたような、ムッとしたような複雑な表情をして、
手に持った雑誌を彼にしてはぞんざいな動作でバサリと閉じた。
「それを聞くのは無粋というものだよ。葵ちゃん」
そう言う彼は、もう笑みさえ浮かべた何時もの彼で。
私は幻でも見た心地で首を傾げたのだった。