20話
―あいつも一人の心を持った男だってことを忘れたらいかんだろ。
兄が言ったその言葉が私の頭に木霊する。
今までにない先ほどの空気は、いったい何だったのだろう。
見たことがない夏目さんの揺れる瞳。
意味深に触れた指先。
離れた距離に安心したと同時に少しの余情があったのも確かで…。
って何を考えてるんだ私はぁ!
ああああ。
私は頭を掻き毟って悶え苦しんだ。
「さて、お茶をいれようか」
私がこんなにも動揺しているというのに事の発端である夏目さんはといえば、もう何時も通りの態度だ。
くっ何故された私が恥ずかしがらなければならない!
だけど、何時もと同じ夏目さんの態度のおかげで、羞恥も薄れ少し平常心を取り戻すことが出来た。
何時もは夏目さんを制して私がお茶を入れるのだけど、今日は何となく夏目さんに任す。
奥の間に立つ背中を眺めながら、先程気になったことを問いかけた。
「私が夏目さんに、いったい何を与えているのですか?」
私自身、自覚がない。
私の存在することによって彼に与える何か。
すごく興味深いのですが。
「さてね」
筒状になった緑茶の蓋をポンと開けながら夏目さんは言う。
「また、そうやって誤魔化す」
飄々とかわす彼に、私は頬を膨らませた。
「別に誤魔化してなどいないさ」
心外だとばかりに彼は肩をすくませた。
笑い交りなのが、彼の背中からでも見て取れる。
「そういう態度が誤魔化してると言うんです」
湧いたヤカンがピーと音を鳴らした。
カチと止める音と同時に、不意打ちに此方を振り返る夏目さん。
彼の背中に油断していた私は、思いきり膨れ面を見られてしまった。
慌てて口から空気を抜く。
うう、変な顔見られた。
すました顔を取り繕うけれど、ぱしぱし瞬きが多くなってしまう。
夏目さんはそんな私の様子に頬を緩めた。
「何にも代え難い物をたくさん貰っているよ」
結局、明確な答えはもらえないけど、
その何とも形容し難い、慈しむ様な、
眩し気な微笑が全ての答えの気がして。
まあいいかと。
私は言及するのを諦めたのだった。
※※※
「それで、君を悩ます一因は何かな?」
一息ついた後さて、と仕切り直すように夏目さんが問うた。
「私、悩みがあるなんて言いました?」
「ないの?」
「ありますけど…」
何故分かると視線で問いかける。
夏目さんは片眉をあげて事も無さ気に
「立葵の君が訪れた時からしょんぼりして、分からないはずがないだろう?」
と言った。
私は、そんなに項垂れていたのだろうか。
全くこの人には敵わない。
私は、近日あったことを話した。
勿論、夏目さん自身に対する色んな気持ちは本人に言えるはずがないので伏せて。
中センに指摘された他者に対する壁。
椎名君に小説を渡されたこと。
椎名君の小説を読んで、彼自身の悩みを垣間見た事。
私は、それらの相談の何の役にも立たなかったこと。
何か気の利いた助言をしたいけれど、そうできないこと。
一連の話を黙って聞いてくれた夏目さんは机の上に組んだ両の手をトンと置いて言った。
「葵ちゃん。言葉には呪が宿るのだよ」
「しゅ?」
「そう、のろいと書いて」
行き成りの話題に私は瞬く。
「特に断定的に発せられた言葉や、強い意志を持つ言葉、相手の持つ弱い部分に対する指摘は、良くも悪くも言われた者の心を縛る」
文字よりもずっとね。と彼は傍らの本を掲げて見せた。
「君は担任の先生に自分の一面を指摘され、随分動揺したのではない?そして、その事が暫く頭から離れなくなった」
確かにそうだ。
中センに人との壁のことを言われてから、
この数日、その事についてや夏目さんとの距離の在り方について随分考えた。
自分を見つめ直す良い切っ掛けにはなったのだけど。
確かに、私の思考に酷く影響を及ぼしている。
「ホントだ」
「だからね、本来“助言”というものを与えるには、とても重要で慎重に成らなければいけない。葵ちゃんが助言の言葉に悩み、沈黙するのは悪いことではない。寧ろ、賢明だと言いたいね。」
私が一番気にしていた事に彼は賢明だと言ってくれた。
悪いことではない。
酷く悩んでいただけに、その言葉は私の肩の力を抜かせるのに大いに有効的であった。
眉尻の下がる私に、夏目さんは優しい声で続ける。
「だけどそれが全く正しいとも言えないよ。君は自分の言ノ葉を自らでもって押し込めているけれど、君には君の感じることがある。言葉は命の芽吹きにも成り得るものだから、自分の中で殺してしまっては良くない」
では、どうすればいいのだろうか。
私は問いかけるように夏目さんを見る。
夏目さんは、簡単なことだよと言って笑った。
「もとより助言を与えようとしなければいい。君が答えを与える必要はない。葵ちゃんは君が思うままに。そうだね、その椎名君とやらの小説の主人公をどう思うかなど聞かせてやればいい。どう受け取るかは彼次第。どう行動するかも彼次第」
君がそんなに悩む必要はない。と夏目さんは最後に締めくくった。
そうか。
私は深読みし過ぎていたのかもしれない。
救う言葉ばかり探して、言葉を失っていたのだ。
目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだった。