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19話

中センは言った。

椎名君と私が似ていると。

だけど、そうではない。と私は思う。


中センは恐らく私たちの人に対する“壁”のことを言ったのだと思う。

事実、私は深い人間関係というものをあまり求めた事はない。

その場凌ぎの当たり障りのないすべらかな人間関係は、トラブルを引き寄せず上手く渡っていくのには丁度いい。

立ち入っていい所、そうではないところ。そこを踏まえての慎重な会話。

私も立ち入らないから、あなたたちも立ち入らないでと。

そういうシグナルを送って、私は守りたかったのだ。

夏目さんという聖域を。


だけど、椎名君は自分の内なる世界こそが彼自身の領域で。

しかし彼はもっと出たがっているような気がしてならないのだ。

壁を作っているは彼自身ではなく、彼の周りの環境がそうさせているような気がしたんだ。


けれど臆病な私は結局踏み入ることを戸惑って、彼の壁を壊すことのできない傍観者に甘んじてしまう。


それがとても歯がゆく、酷く悲しい。



何も言えなくなった私に椎名君は、少し笑った。

そして、初めて自分の書いたものを人に見せたので照れてしまうというような事を端的に戻った口調でそう告げた。

彼は気を使ってくれたのか、それとも何も助言出来ない私に諦めてしまったのか。

そう思うと居た堪れなくて。

私は小説に対する素直な讃辞しか、彼に伝えることが出来なかった。


彼の気を使うような笑顔。

私が欲しかったのは、それではない。




教室に戻ると、椎名君とはどうなったのかと色々な人に聞かれた。

私は弁解することも出来ず、どう答えたのかもあまり覚えていない。

ただ、早く放課後になって欲しいと思った。


早く古本屋さんに行きたい。

夏目さんにあいたい。





※※※


昨日訪れなかっただけなのに、とても長い間来なかった気がする。

古本屋さんは相も変わらず寂れた外観で、ちっとも変った所など無いのに、その引き戸に手を掛ける時、僅かな緊張を伴った。


引き戸を開けると、少しも変わらない本の匂いと静謐な空間があった。

本棚を抜ける。

ああ、やはり。

何時もの場所に、何時もの姿を見つけて、何の安堵か私の目頭は熱くなる。


蜂蜜色の髪が、頬杖をついた手の甲にさらりとかかって。

伏せ目がちの瞳に長い睫毛が頬に影を落とす。

まるで完成された絵画のようでいて、その甚平姿とぺージを捲るその長い指の動きが彼を現実のものにする。


私は、時が止まったかのように見とれてしまっていた。

鮮烈に現実から切り離される感覚。



クスクスという甘い笑い声で、私はやっと時間を取り戻す。


「そんなに見つめられると穴が開いてしまいそうだなぁ」


本に向けられていた青灰色の瞳が、私を映す。

穏やかで少し間延びした口調に、私は何か言葉を返そうと思うのだけど言葉が詰まって上手く出てこない。

その様子に夏目さんは、おやおやと笑みを深めて私を手招いてくれる。

よく来たね。そっちは寒いから、こちらにおいで。と。



※※※


「夏目さん」


「うん?」


「夏目さん」


何時もの場所に落ち着いて、彼の名前を連呼する私。

彼は手に持った本をパタリと閉じて、ゆるりと微笑んだ。

そして音もなく、するりと私に手を伸ばす。

待ち望んでいた、しなやかな指先が頭を撫でて髪を滑った時、私はやっと落ち着いたように息を吐き出すのだ。

その様子を見て、夏目さんは一層目を細めた。


「葵ちゃんは猫のようだね」


私の頭を撫でながらそんな事を言う夏目さんこそ、その不思議な色の目を細める様子など日向でまどろむ猫のようだと思う。


「そっけなく訪れなくなったかと思うと、こうして甘えてくる」


笑いを含んだその言葉に私はムッとした。

所詮私は、夏目さんにとっては気まぐれに餌をやる野良猫のような存在なのか。

それに、私がそっけなくしている訳はない。

寧ろそっけないのは夏目さんじゃないのか。

不貞腐れた私に夏目さんは言葉を続ける。


「今日は来てくれるだろうかと一喜一憂する僕は、君に振り回されてばかりだよ」


「うそ。夏目さんは、私が居ようが居まいが関係ないくせに」


咄嗟に子どものように反論してしまう。

彼は棘のある私の言葉に不快感を現すことなく、ゆっくりと首を傾けた。


「何故?」


「だって、私は何も出来ないから。何にも与えることが出来ないから」


私は視線を床へと漂わせた。

与えられるばかりで、私は何も与えることのできない存在だ。

それは有志さんのことや、椎名君のことでも十分に思い知らされた。

私には持ち得ない悩みに私は何も言えなくなる。

私よりずっと賢く聡明な人たちに私の言葉の何が役に立つというのか。

そう思うと私は、終ぞ何も言えなくなってしまうのだ。

吐き出す言葉はきっと真実味を帯びない綺麗事に聞こえるだろうから。


落ち着いた声音が頭上から響く。


「与えた事が、与えられた事実になることもあれば、そうではないこともあるのだよ」


私の落ちた視線を引き戻すかのように。

頭を撫でていた手が髪を滑り下りて顎先を持ち上げる。

決して強い力ではないのに逆らえず正面から覗きこまれた。

一瞬で瞳に目を奪われた。


「ある哲学書にこうあった。自我とはつまり他者により成り立つと」


夏目さんは呪文のように言葉を紡ぐ。


「与えるのではない。そこに存在することこそに意味がある。大切なのは、何を与え得るかではなく、どう存在するかだと」


何時もの間延びした口調は影を潜め、謳うように朗々と紡がれる言葉。


「君は自分を卑下するのだろうけど」


青灰色に吸い込まれる。

この人の瞳には魔力が込められていそうだ。


「知らぬ内に、多くは受け取られているものさ」


それに、と彼は続ける。


「斯く言う僕も君には随分与えられているよ」


私はその言葉にとても驚く。

夏目さんに貰ってばかりの私が、何を与えたというのだろう。

視線で問いかけたけれど、夏目さんは瞳の中の光を揺らして私を見るだけだった。

その瞳の意味を私は汲み取ることが出来ない。

はっと、とても近い位置でお互いの目を覗き込むようにしている事実にようやく気付いた。

私は、今更にうろたえた。

あからさまに目が泳ぐ。

私の顎に添えた指先が、つと首筋をたどる。

僅かな刺激にびくりと震えた。


「…でも君は、僕以外にも与えようとするのだね」


何時もと違う夏目さんの雰囲気に呑まれる。

視線さえも絡め取られて。

再び、身動き一つ取れなくなる。

触れられた箇所が、熱を持ったかのように熱い。


「な、つめさ…」


自分のものではないような掠れた声が出た。

夏目さんは何とも言えない微苦笑をして、私から離れた。

一息に緊張が解ける。

けれど俯いた視線を彼に遣る事は出来なかった。

頬が焼けるように熱い。


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