2話
何時の間にか良く見知った、自分の家の前まで来ていた。
何処にでもある様な日本家屋。その家を囲う垣根はやはり金木犀だった。
「ではね」
夏目さんは私に別れを告げる。夏目さんのお店はもう少し行った先にある。
きっとすぐに帰って購入した本を読みたいに違いない。
その足取りは、先ほどよりも早い。
いや、ただ単に先ほど自分に合わせてゆったりと歩いていただけで、普段の彼の歩調にすぎないのかもしれない。
藍色の甚平が遠くなってしまうことが無性に悲しくなった。
「夏目さん」
考える暇なく呼び止めてしまう。ん?とゆっくりと振り返った彼に目を細める。
「後で、夏目さんのお店に伺っていいですか?」
夏目さんは、不思議な人だ。とても長い付き合いなのに未だに彼のことは掴めないでいる。
昔から私は事ある毎にお店に入り浸っている。
そう、二日と続いて行かなかったことはないほどに。
今日は行く予定でもなかったけれど、「ではね」とそっけなく去っていく彼がとても歯がゆかった。
「今日は来る?」とも聞いてくれずに。
「もちろん。待っているよ」
何時ものようにゆるりと微笑む彼の笑顔。
それだけでなぜだかホッとしてしまうのも今日に限ったことじゃない。
しばらく夏目さんの後姿を眺めた後、古めかしい引き戸を引いて我が家に入る。
今時こんな引き戸も珍しい。
「葵、今日は早いな」
声の方を見ると、学生服姿にお洒落メガネな我御兄弟の秀がいた。
なかなかの二枚目のはずなのに、掛けられたヒヨコのエプロンが彼を残念にしている。
「うん。兄さんも早いね。もうご飯作ってるの?」
「ああ、今日は豚の角煮にしようと思って今下茹でをな」
我が家では、なぜか兄が晩御飯を作る。
両親共働きとはいえ誰かが強制したわけではなく、物心ついたころには彼は晩飯の神となっていた。
「それは夕食が楽しみだね」
「ああ、まだしばらくかかるがな」
部屋に移動しながら兄を振り返る。
「丁度よかった。今から夏目さんのところへ行こうと思ってたんだ。夕食までには帰るね」
予想はしていたけど、兄は苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
昔から、私が夏目さんに懐くのを彼は快く思っていない。
それは、兄のジェラシーとかではなく、何というか夏目さん自身が駄目らしい。
嫌いではなく、“駄目”なのだそうだ。
「また、あの妖怪のところか。よくあんな気味の悪い所に自ら行くな」
兄は昔から、夏目さんを恐れているようで、決して一緒に古本屋に行こうとはしない。
今や妖怪呼ばわりだ。何かトラウマでもあるのか。
両手で自身の腕を擦りながら珍獣でも見るような眼を私に向けてきた。
「失礼な!かなり変人で常人とは言いがたくても、妖怪は酷い」
「葵も相当失礼だがな…」
何を言う!と息巻く私に、台所に戻りかけていた兄は、「ああ」と言って振り返った。
「妖怪のところに行くなら、干し柿持って行け、窓に干してあるのが丁度出来ているから」
干し柿作りまで完璧にこなす兄は、夏目さんを不気味がっても、私に会うなと強要したりはしない。
寧ろ手土産まで持たせてくれる心づかい。
「わかった。ありがとう」
「ああ、夕食までには帰ってこいよ」
ポスリと頭をなでる大きな手。私はこの兄が割と嫌いじゃない。
パーカーとジーンズという軽装に着替えて、渡された干し柿を紐に吊るされた状態のまま手に持って夏目さんの古本屋を訪れた。
こちらも、我が家に負けず劣らずなボロ…もとい古き良き感じの引き戸で、ガラガラと開けるとふわりと本の匂いが立ち込める。
目に入るのはずらり並んだ本棚。
この濃い木目調の本棚に整然と並んだ本たちはいったい何冊あるんだと言いたくなる。
「夏目さん、こんにちは」
本棚の森を奥へ奥へ進むと、同じ木目調の机と椅子があって、そこが夏目さんの指定席となっている。
今日もいつもと違わずそこで本を読んでいたようだ。
「いらっしゃい。葵ちゃん」
「はい干し柿です」
「秀君の干し柿だね。いつもありがとう。」
さて、お茶を入れようかと立ち上がる彼を「私が」と制して、勝手知ったる奥の間の台所へ向かう。
毎回兄が手土産を持たしてくれるので、私が来ると自然とお茶の時間になる。
彼の読書の時間を中断させてしまうのを悪く思って、私がお茶を入れるようになって随分経つのに、
彼はいつまでたっても自分が入れようと腰を浮かすのだ。
そういうところにも、自分がただの客でしかないと線引きされているようで少し悲しくなる。
いや、ただの客なんだけどさ。
カチリと回したコンロに青い火がボッととつく、しばらくぼんやりそれを眺めてから、
頭を振って、お湯が沸く間、干し柿を紐から取る作業に専念した。
「どうぞ」
入れたお茶と干し柿を彼の居る場所まで持って行く。
私は夏目さんの斜め向かいにある、少しアンティーク調の椅子に座る。
この椅子だけ少し浮いているが、ここが私の指定席。
私が頻繁に来るようになってから置かれるようになったもの。
この椅子の存在が、ちょっとだけ私が特別な存在なんだと思わせてくれる。
肘かけをそろりと撫でた。
「やはり、葵ちゃんの入れたお茶は美味しいなぁ」
ほくほくした笑顔で言われると悪い気はしない。
夏目さんは、再び本に夢中になってしまい、私は、ずず…とお茶を啜った。
本をめくる音と、お茶を飲む音だけの静寂。
いつもの風景、ここに来たからと言って何をしているわけでもない。
時には本を物色したりするが、購入したことはない。
夏目さんが、ここで読んでいくといい、と言うからだ。
何にもしていないのに、此処が一番好き。
この空間だけ時間が止まっているみたい。
本の森に囲まれて、もうずっとここに居るみたい。
カラン・コロン
「夏目さん?」
「なんだい?」
「音が…聞こえます」
聞きなれない音だった。
「本当だ、お客さんかな。ああ、いらっしゃい」
振り返るとすぐ近くに赤い着物を着た奇麗な女の人が佇んでいた。
吃驚した。
そうか、先ほどの音は、彼女の履く下駄の音であったらしい。
それにしても、引き戸の音には気付かなかったのが不思議だ。
「驚いたな、あなたとこちらで会えるとは」
パタンと本を閉じて夏目さんは言った。心なしか青灰色の目が見開かれている。
「お久しぶりです。おそらく今年が最後になりますので、ご挨拶に伺いました」
「ええ、もうすぐきっと終わりますよ」
「あなたは、ちゃんと約束を守ってくださいますのね」
「違え様もない事だからね」
どこか入り込めないような空気が居心地悪い。
不躾にならない程度に女性を見る。
初めて見る女性だ。夏目さんの言葉からして客ではないらしい。
さらりと長い黒髪に赤い着物の良く映える、若い女性。
とても美しい人だけど、どこか物悲しい雰囲気が付きまとっていた。
「真白のユリ、約束の証はもう必要ありません」
縋る様な女性の熱い眼差しが、夏目さんに向けられる。
その視線を夏目さんは、言葉もなく受け止めた。
真白のユリ!
ああ、カサブランカ。この人は毎年夏目さんが花を贈る女性なのだ。
入り込めない空気。二人はおそらく…。
「あ、あの私帰りますね。」
女性が、初めて私に気づいたようにこちらを見た。
ああ、頭が、がんがんする。
夏目さんも、こちらを見たが、その瞳を見ることなく足早に本屋を出た。
だから私は、物言いたげな夏目さんの視線に気づくことはなかった。