15話
「……」
その光景は本当に奇妙だった。
人というのは、奇妙なものに出くわすと、動作を停止してしまうらしい。
私は、その人物を見た瞬間すっかり目が離せなくなった。
くそう。中センが送ってくれないからいけないんだ。
変態ではないけれど、奇妙さは同等だと思う…。
「あの〜?何してるんですか?」
暫しの逡巡の後、自販機の前で何やら格闘しているその人に話しかけた。
自販機に向かってブツブツワタワタいったい何事か。
「何って、小銭が…っって、女!!」
振り返ったその人は、数日前出会った第一印象最悪男でした。
女て…。
半ば呆れて、目の前の挙動不審な男を見る。
「ええ、生物学的に女16年、固有名笹野葵です。偶然ですね男!」
ふはは、と不敵に笑って言ってやる。
腰に手を当てて仁王立ちだ。
有志さんは、少しだけ私に焦点を合わせてきた。多少へっぴり腰ではあるが…。
何処か検分するような眼差し。
しばし、意味のない見つめ合いをした。
「………。君にはあまり女を感じないな」
「…は?ケンカ売ってんですか!?」
「君、私に惚れたりしない?」
「惚れるか!!」
何処に惚れる要素があると言うのか!
間違っても惚れない。
世界に男が有志さん一人だけでも惚れない。
思いきり突っぱねると、有志さんはホッとしたように笑った。
「そうか、ならいい。極力、傍に寄りさえしなければ会話はクリアできる」
「クリアて……。何かが解決したようですが、私は全く不条理な気持ちで一杯です」
所々引っかかるが、取りあえず会話対象者になり得たらしい。
嬉しいやら、微妙やら……。
「で、先ほどから何を?」
「コーヒーを買いたい」
「?」
有志さんは、無言で私に掌を差し出した。
「丁度10円足りない」
※※※
暮れかかった公園で、隣のベンチに足を組んで不遜に腰掛ける男を横目で眺めた。
もう、時期的に寒いせいか公園に子どもの姿はなく、何処か閑散とした雰囲気だった。
この寒い夕方に、私はいったい何をしているのだろう。
思わず深い溜息が出る。
「…ついこの間まで私のことあからさまに嫌がってたくせに、いきなり図々しい人ですね」
「10円位で、愚痴愚痴と君は……狭量だと良く言われるんじゃない?」
「態度の問題ですよ!もっと謙虚に頼むものです。日本人の嗜みです!」
「海外生活が長いからね」
「ばっ人間性の問題です」
思わず馬鹿って言いそうになってしまった。いや、言ってしまえば良かった。
くそぅ。私の良心め!!
饒舌に言葉を返してくる遙か隣の人は、返す返すイラッとくる性格だ。
「大体、何で私の隣のベンチなんですか!会話するのに声張るの辛いんですけど!」
普通に二人座れるベンチだ。一つに座ればいいじゃないか!
「ふん。この距離が限界域なんだから仕方ないだろう。それに、私は君に共にいてくれと頼んだ覚えはないし」
「くっ……寒い日に自販機の“あったか〜い”の文字を見たら飲みたい衝動に駆られるんです!」
「君の衝動なんかどうでもいいよ」
プイっと顔を背ける男に、私は寒さではない震えが沸き起こった。
これが世に言う武者震いという奴なのでしょうか…。
会話が成立したらしたで、なんてムカツク男んだ。
取りあえず手の中のあったか〜いココアで気持ちを落ち着かせるべく、そのプルトップに手をかけた。
このぽかぽかの物を体に取り入れて、さっさと家に帰ってやる!
プシュっと開けた時、ふと頭上が陰る。
「……何ですか?」
「……」
私は、さっさか飲んで帰りたいんですが…。
不機嫌そうな顔をした有志さんは、なるべく私に近寄らない距離から自分の缶コーヒーを差し出していた。
取りあえずココアを脇に置いて、訝しがりながらもそれを受け取る。
「何?くれるんですか?」
「誰があげるか。開けてくれ」
は!?
「馬鹿俺様ナルシー」
あ、良心の崩壊。しかも息継ぎなし。よく言った私。
「…君。何だそれは呪文か?」
しかし伝わってないー!!!
「ええ、呪文ですよ。自分でプルトップも開けれない人間は呪われてしまえ〜」
にっこり笑いながらブシュリと力を込めて缶コーヒーを開けて、どうぞ?と黒い笑みと共に手渡す。
「不気味な…。すまない。極力指には気を使ってるんだ」
思いがけずしおらしい様子で受け取る有志さんに、おや?と思う。
そして受け取るその手の繊細な美しさに、嗚呼と納得した。
「なるほど、ピアノですか。流石徹底していますね。日頃からそんなに気を使うものなんですか?」
芸術家も大変そうですねと聞くと、彼は少し苦く笑った。
「皆がそうな訳ではないけど…。私はね。出来得る限りの努力は惜しみたくはないんだ。人よりも持っていないモノが多いいから」
コーヒーが若干熱いのか、繊細な指先でジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出す様子は、さながらマジシャンのようだとボンヤリ思う。
「持っていないモノですか?」
「そう、才能とか…さ」
どういう風の吹きまわしか、有志さんは私の座るベンチの端にそのまま腰かけた。
あくまで私から随分離れた端っこだが…。
「兄は、有志さんのこと大分褒めていましたよ。“あいつの演奏を聴いて惚れない女性はいない”的に」
私の発言に彼は、随分と顔を顰めた。
「…昔からそうだった。私が弾くと香水臭くてケバケバしい女性たちが、猪の如く襲ってくる…。留学先でコンサートを開いたときも…。」
鳥肌が立ったのか少し身震いしている。
あ、何となく女性恐怖症の理由が見えてきた…。
「で、でもそれは有志さんの演奏の虜になったってことで、れっきとした才能じゃ…」
「違う。悲しい事にね、彼女たちは、私のルックスに寄ってくるだけだ」
発言はまるでナルシストなのに、冷たく言い切る口調は重々しかった。
確かに、小松親分と違って有志さんは、たれ目に緩く曲線を描く柔らかそうな茶色の髪で少し甘いルックスだ。
彼が、ピアノを弾く姿は王子様のようかもしれない。
「私の演奏中に女性たちが騒ぎ花を投げて来た事があった。演奏中にだ。あの時は本当に絶望した。ああ、自分はサーカスの動物のようだ。本当の意味で自分の演奏は聞く人に届いていないのか、と」
何を言っていいか分からず、私はただ彼を見た。
フーと溜息を付きながら項垂れている様子は、まるで考える人のように苦悩に満ち溢れている。
―――人は受け入れられないことを知った時、とても絶望すると思わない?
何故か、いつかの夏目さんの言葉とガラス玉のような青灰色の瞳が掠めた。
ギュッと心が音を立てる。
あの時もそう、結局私は何も言えないから…。
「…才能があるのは夏目さんのような人だろう」
有志さんが何の前触れもなく呟いて、まるで心を読まれたかのようで吃驚した。
「夏目さん?」
私が驚いた顔をして聞くと、何故か有志さんも少しだけ驚いたような顔をして私をチラと見た。
だがそれもすぐ消え、「そ」と頷く。
あの日、ピアノを弾いた夏目さん。
とても、すごい演奏だった。
「だけど、彼の演奏はただの音。何も感情が籠っていないね。彼は自ら其れを掴もうとしないからさ」
嫌味ではない本当に素直な感情を込めて有志さんは言った。
「ね、才能ってなんだろう。有名な音楽家たちは、絶対音感なんてものが潜在的にある人もいるけど、幼い頃から音楽漬の環境で育つ。それは持っている物というよりは与えられた物だと思わないかな?」
私は有志さんの言う意味が良く分からなくて少し首を傾げた。
有志さんも思い付いたことを矢次に吐き出して居るようで、何処か取り留めのない自分の言葉に焦れったそうにしている。
「ん〜。つまりはさ、私の家は音楽家の家系というわけではないし、絶対音感を持っているでもなく、自分の伝えたい想いを曲で伝えることも出来ない未熟者だが…」
彼はそこまで早口でまくし立てると、すくっと立ち上がった。
「ピアノに関しての努力は、惜しまない。いくらでも少しのことでも怠らない」
はっきりとした言葉は自分の心に刻み込んでいるかのようだった。
私は、その後ろ姿を見つめる。
その向こうの空に薄ら月が昇っている。
「馬鹿みたいで叶わないことでも?」
言葉が零れた。正に意識する間もなく。ついつい口を伝って落ちたモノだった。
椎名君の小説の主人公の言葉。
有志さんは、肩越しに私を振り返る。
「馬鹿みたいで叶わないなら、努力する。そう出来得る限りいくらでも」
その言葉は酷く私の心に響いた。
 




