10話
「有志じゃねえか。お前、帰って来る時ぐれぇ連絡しろ」
小松親分が呆れたように言う。
「ああ、ごめんよ兄さん。ちょっと帰って来たくなっちゃって」
有志さんとやらは、どうやら先刻話題に上がった小松親分の弟さんらしい。
噂すれば影とは正にこのことだろう。それにしても、似てない兄弟である。
渋め江戸っ子風小松親分に対して、有志さんは、茶目っけおフランス風といった風貌だ。
どちらにせよ、濃ゆいことには変わりないが。
「やあやあ。さっきの演奏はあなたですね。セニョール!なかなか卓越した弾き方をなさる」
有志さんはボストンバックを小松の親分に押し付けて、夏目さんに握手を求めた。
「お褒めに預かり光栄です。ですが、弾ける、ただそれだけのことです」
握手に答えながら夏目さんは言った。
それは、謙遜と言うより真にそう思っているといった口調だった。
「まあ確かにね。音楽というものは弾ければそれで素晴らしいと言うわけではないですから。しかし、貴方ならもっと素晴らしい演奏を目指せるのでは?」
「いえ、興味がないので」
何処か冷え冷えとする口調でそっけなく返す夏目さん。
確かに、すごい演奏だった。
でも、彼らが言うには、それだけでは駄目らしい。
音楽の知識のない私には何が駄目なのか分からないのだが。
「ううん。そういうことなら仕方ありませんね。」
ひょい。と肩を竦めて、有志さんが残念そうに言う。
「おい、有志。お前ちゃんと向こうでやってんだろうな」
「あたりまえだろう。私を誰だと思っているんだ」
小松親分の言葉に、いきなり不遜な態度で胸を張る有志さん。
うわぁ、この人ナルシストか?
思わず、ジロジロ見ていたら有志さんと目が合った。
そしてすぐ、ついと逸らされる。
な、なかったことにされた。
「あなた!初対面の人には挨拶と自己紹介!」
存在を無視されたことでムカムカした私は、思わず彼に噛みついた。
有志さんは、嫌そうな顔をして私を見ると、また逸らした。こ、こいつ。
「それを言うなら、君もだろっ。あ、あまり近寄らないでくれたまえ!」
どこ見て言ってんだ。そっちは壁しかないぞ!
言いたい事あるならハッキリこっち見て言えぃ。
「悪いね、葵ちゃん。コイツの女嫌いは昔から酷くてなぁ」
憤慨する私に小松親分が申し訳なさそうに言った。
女嫌い。なるほど。それならこの怯え様も頷ける。
だけど、だからと言って人間礼儀ってものがある。
女だからと邪険にされたのではたまったものではない。
ジロジロ見る私にビクビクする有志さん。
「…有志。こちら秀坊の妹さんの葵ちゃんだ。それから葵ちゃんのご近所の古本屋の夏目さん」
見るに見かねた小松親分が紹介してくれた。
「へぇ、秀にこんな妹が…」
思いっきり見下した言い方。こんな、とはなんだ!
どうせ、ちんちくりんですよ!
「もういいです!行きましょう夏目さん!小松親分ブレンドどうもありがとうございました」
いつの間にか、私たちの攻防そっちのけで優雅にコーヒーを飲んでいた夏目さんを引っ張って店内を鼻息も荒く出て行った。
※※※
「失礼な人です!何様ですか。あの人は」
「女性に相当トラウマがあるのかな、彼」
「女嫌いだからってあの態度は許せません」
ぷりぷりと怒る私に夏目さんは隣でくすくす笑う。
何が可笑しいのか!
「なんです?」
「憤慨している葵ちゃんがかわいいな、と」
な!何を言い出すか!この人は!
どうやら、白百合事件から夏目さんが少々おかしい。何がってアレだ。甘いのだ、言動が。
そんな風に言われたって私はどう反応すれば良いのか分からない。
「嫌いなのは、今までそういう出会いしかしてこなかったからさ。きっと彼も変わるよ」
癖のように私の髪の毛をするりと梳かしながら夏目さんが言う。
「どういうことです?」
「僕もそうだったから」
「夏目さんも、女嫌いでしたか?」
「と言うより、人間全般かな」
人間嫌い…。初耳である。
確かに本ばかり読む夏目さんはどちらかと言えば孤独を愛する人のように見える。
しかし飽くまで私と接する時は紳士だし、邪険にされた記憶もない。
また、小松兄弟に対しても人当たり良く、そんな風には見えなかった。
はて…。
「それは、また何故?」
「人は受け入れられないことを知った時、とても絶望すると思わない?」
また、婉曲な…。と思ったが、夏目さんが何時ものような笑顔を浮かべないからそれ以上は聞くことは出来なかった。
青灰色の瞳がいつもに増して冷え冷えとして見える。まるでガラス玉のように無機質だ。
この飄々とした人は、本当はとても脆く深い闇をその心に秘めているのではないだろうか。
※※※
「遅い!」
いつかのように、帰って早々兄に凄まれた。今日はひよこエプロンではないが。
「ブレンド買いに行くだけでどれだけかかるんだお前。迅速な俺は課題もすでに…ぶはぁ」
ごちゃごちゃとうるさい兄の顔面に御希望のブレンド豆の袋を押し付けてやった。
「はいはい。お待たせしました。そんななら自分が迅速に行ってくれば良かったじゃん」
「ぶぁか言え。俺は課題中にコーヒーが飲みたかったんだ」
知るか!!
「うるさいな。こちとら色々あったんじゃぃ」
白百合事件に続き、フランス伊達男にもあって散々な日だった。
おまけに帰りの夏目さんとの会話で妙な空気になるし。
キッと兄を睨みつけてやる。
「大体、兄さんが悪い!全ての元凶はお前だ!」
そうだ。兄が漣に行けと言いだしたのがいけなかったのだ。
兄が夏目さんを妖怪扱いするから夏目さんが受け入れられないとか言い出すんだ!
半ば八つ当たりの勢いで全身全霊を込めて兄を睨み据える。
流石の兄も之には聊かたじろぎ半歩後ろに下がった。
「何だ?腹が減ってるのか?」
何故か私の不機嫌を腹のせいにする兄。その変な気遣わしさにまた腹がったった。
「違う!今日漣で変な人に会った。兄さんは知ってるでしょう?有志とかいう」
「有志が帰って来て居るのか!ああ、なるほど。お前の不機嫌はあいつのせいか」
兄がしたり顔で頷いてくる。
それだけじゃあないけどさ。
「あの人すごく失礼!女嫌いって言うけど、『近づかないでくれたまえ』だよ?」
私のモノマネが似ていたのか兄は大いにうけた。腹を抱えて笑っている。
「あははは。相変わらずだなアイツ。」
「昔からああなの?」
「ああ。あいつのは女嫌いというか、極度のテレ症だろう。素直になれないんだ。」
ツンデレ属性か、あの男。
いや、デレられても全然萌えない。いい迷惑だろうな。
私がものすごく渋い顔をしていたら、兄が弁解するように話出した。
「いや。あいつ女性に対してあんなだろ?最初はみんなお前みたいな顔するんだが、あいつの演奏を聴いたらみんなあいつに惚れてしまうんだ」
「そんなにすごいの?あの人の演奏」
「ああ、音楽のことはよくわからんが、すごいと思うぞ」
ふーん。と気もなく答えながら、少しだけその演奏に興味が湧いた。
この兄が褒めると言うのは、なかなか珍しい事である。
しかし、またあの人に会いたいかと聞かれると、顔も見たくもないのが現状であった。