3
この学校の自習室は大人数で使える大部屋が一つ、四人用の中部屋が三つ、そして八つに仕切られた一人用の部屋がある。予約できるのは二週間前までで、それ以降は空きができるのを待つしかないのだけれど。
たまに一人用で一つくらい空きがあるのだが、運悪く今日は一つも空いていなかった。
「あぁー、全滅」
静かな廊下で一人、頭を抱える。来る途中で見た中部屋は全部埋まっていたし、大部屋を一人で占領するのはさすがに気が引けた。
仕方なく来た道を戻ると、さっきは暗かった大部屋が明るくなっていることに気がつく。使用中の札の横には、一人分の名前と学年が書き込まれていた。
自習室を使うときには、使う生徒全員の名前と学年を書くのが決まりだ。ときどき書かない人もいるけれど、それは本当に珍しいパターン。今大部屋は、この生徒一人で使っている確率が高い。
大部屋は広いし、頼めば空いてるスペースを使わせてもらえるかもしれない。幸い学年は一つ下だし、私の評判は知らないだろう。それから、できれば怖くない人だといいな。
一縷の望みをかけて、私はドアをノックした。
「すみません」
「はーい、忘れ物か?」
「いや、そうじゃないです。実はここ以外自習室空いていなくて。良かったら私も使わせてもらえないかな」
出迎えくれた女子生徒は、突然の申し出にも関わらず相席を了承してくれた。背が高く、凛々しい顔つきの女子生徒の名前はサユリ、私の名前はやっぱり少しも知らなかったみたい。
「いつもは一人用の一つや二つ空いてるんですけど、なあんか今日は人が多くて」
「うん、使おうと思ったときに限ってこれだもの」
サユリも最初は一人用の一画を使おうとしたらしいが、埋まっていたため仕方なく大部屋に入ったとのこと。大部屋に一人で飛び込める彼女の度胸には感心させられた。私も次回からそうしようかな。
資料をパラパラ眺めて題材を探している私の隣で、サユリが大きくため息をつく。顔をあげれば、彼女が非常に不満げな表情を浮かべているのを見えた。
「それが先輩、またあさひが絡んでるみたいなんですよ。あいついっぺん説教しとかないとダメですかね?」
「……あさひ?」
頭に銀髪の後輩が思い浮かんで、あわてて首を横に振ってかき消す。それはないよ、あの子はいい子だし、あの子が絡んでいたからってどうにかなるわけない。きっと同じ名前の別人だろう。
「先輩、どうかしたんですか?」
「なんでもない。それで、あさひって子が絡んでるって?」
「なんでも自習室に空きを作るなって、大部屋以外全部埋めさせたみたいなんです。しかも週末のこの日に、なあに考えてんすかね、あのバカ」
「大部屋以外全部?」
どうやったのかは分からない、でもそれが本当なら迷惑な話だと思う。たまたま彼女が使っていたから自習室を使えたけれど、空室だったら気の弱い私は使わなかった。そう思うと、本当に今日は幸運だったと思うしかない。思い立ったが吉日ってこのことかもしれない。
「そう、自分は使わないで遊んでるくせにむかつきますよね。なんの嫌がらせって」
「使わないんだ。変な子だね」
「変なやつですよ。なにしろ普段から女装してるようなバカなんで」
しかもそれが妙に似合ってるのがまた腹立つんですよね。唇をとがらせる彼女が言った台詞に、私は返す言葉が見つからない。一つ学年が下で、週末は遊びに出ていて、普段から女装している男子生徒。しかも名前があの子と同じって、それってもうあの後輩のことじゃないの。
押し黙る私を見たサユリが心配そうな声をかけてくる。
「先輩、顔色悪いっすけど」
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
「あ、はい」
彼女に言い捨てて、自習室を出た。中部屋からは学生の議論する声が聞こえてくる。さっきは気にならなかったそれがやけにうるさく感じて、早足でその場所を離れた。
「うーん、うーん。でもなんで自習室の占拠なんて」
結局あてもなく彷徨って、落ち着いたトイレでひとりごちる。鏡に映る女子は、眉間にしわを寄せて難しい顔をしていた。いつにも増してかわいくないけれど、仕方ない。同室のかわいい後輩が迷惑をかけていると聞いては平静でいられない。理由はさっぱり分からないが、ここは先輩の私から注意しておいたほうがいいんだろうか。
「でも、あの気遣いできる子がやる?」
「お姉ちゃん」
「ひゃっ、あさひ?」
横から抱きついてきた銀髪の後輩に、目を白黒させる。ニコニコ笑う後輩は今日も可憐で、お人形のよう。思わず緩んだ顔になって、手をあげて銀色の頭を撫でたところで我に返った。誰もいないとはいえ、ここは女子トイレ、後輩のいていい場所じゃない。
あわててあさひを引きはがした私は、きょとんと目を丸くする後輩に注意する。
「あさひ、ここ女子トイレだから軽々しく入っちゃダメだよ」
「今誰も入ってないから大丈夫ですよ、お姉ちゃん。それに、この恰好なら問題ないです。男に見えないでしょう?」
ひらりとスカートの裾を指でつまんで揺らす後輩は、たしかに男には見えない。うっすらと化粧もしていて、なんなら私よりも女の子だ。でも、そういう問題じゃないと思う。
「それはそうだけど。どんなにかわいくても女子トイレには入っちゃダメなんです。ほら、見つからないうちに出る」
「お姉ちゃんって律儀ですよね」
「なんでもいいから出るの」
なかなか去ろうとしない後輩の背中を押して、女子トイレを出た。幸い廊下に人の気配はなくて、見られなかったことに安堵する。ルームメイトが女子トイレに平然と入り込む変質者なんてちょっと嫌だ。あれ、でも普段から女装だから変なのには変わりないか。
「それで、どうしたの?」
わざわざ女子トイレにまで押し入ってきたんだからなにか用事があるんだよね。目を合わせて聞いてみると、後輩は綺麗な笑みを浮かべた。本当、なんで男の子なんだろうって思うくらいかわいい。
「お姉ちゃん、今までどこにいたんです?」
「自習室よ。あれ、言わなかったかな?」
昨日の夜に伝えてあったはずなんだけれど、もしかして伝えた気になってただけかな。そこまで考えたところで、自習室占拠の件を思い出した。半信半疑だけれど、ちょっと聞いてみるくらいいよね。
「あさひ、自習室って」
「自習室、空いてたんですか? え、お姉ちゃんもしかして大部屋一人で使ったんですか」
「ううん、使ってる子がいたから半分使わせてもらったの」
「そうなんですか。誰です?」
「あさひと同じ学年の、サユリって女の子」
あれ、質問しようと思ったのに私が質問攻めされている。
ああ、あの人。納得した様子でうなずくあさひは、唇を歪ませて私を見る。なんだか寒気がしてきて、私は自分の腕を擦った。
そうしたらがっしりと右肩を掴まれて、思わず固まった。あれ、この子またちょっと身長伸びたかな、なんて場違いなことを考えたあたりで、後輩が口を開く。
「俺、お姉ちゃんはすぐ帰ってくると思って待っていたんです。そうしたらなかなか戻ってこないから心配になって」
「そうなの。あの、さっきあさひが自習室占拠してる、みたいな変な噂聞いたんだけどね。そんなことないよね?」
「あはは、お姉ちゃんは俺に甘いですね。本当ですよ、俺が今日一日、大部屋以外を埋めるように指示しました」
本音は否定して欲しかったのに、あっさりと肯定されたことに驚いて、少し傷ついた。言葉が出ない私の前で、あさひはいつもどおりに、それ以上に楽しそうに微笑んでいる。この子は、いったいなにがそんなに面白いの。そんな、あの人たちみたいな顔で話しかけないでほしい。
「そんな傷ついた顔しないでくださいよ、お姉ちゃん。そうだ、部屋に戻って温かいお茶でも飲みませんか? お姉ちゃんの好きなミルクティー淹れますよ」
「あさひ」
「冗談ですよ。お姉ちゃんもそんな気分じゃないでしょう。はい、聞きたいことはなんですか? 今ならなんだって受け付けますよ」
晴れ晴れした笑顔の後輩の手が肩をはなれて、私の手を持ち上げる。大事そうに後輩の両手で包まれる手は、汗をかいていた。
あんまり聞きたくはないけれど、彼は私の言葉を待っている。聞かないといつまでもこのままの気がして、仕方なく疑問を口にした。
「あさひ、なんでこんなことしたの」
「はい、それはお姉ちゃんと一緒に勉強したかったからです。お姉ちゃんは全然気づいてないですけど、俺、あなたに恋してるんで」
「えぇ、本気か」
「本気です、お姉ちゃんの笑顔にひとめぼれでした」
あっけからんとあさひから返された答えは私にとって未知の領域で、頭を抱えたくなるものだった。