キューピッドとバレンタインデー。
体の芯まで冷えるような寒さに、僕は身を震わせつつ昇降口へと滑りこむ。
冬の朝の寒さってなんでこうも攻撃的なんだろう。
そんなことを考えつつ、スニーカーを下駄箱に押し込んで上履きを取り出す。
ふと、バニラのような甘い香りが鼻孔をかすめた。
香りと共に目の前に現れたのは、わたあめを思わせるふわふわのウェーブのかかった長い髪のかわいらしい女子だった。
「あの、七瀬勝太君ですか?」
わたあめから発せられた鈴の転がるような声に、憂鬱な朝が突然さわやかになっていく。
僕は自然に頬が緩んでいきそうなのをぐっと引き締め、つとめて冷静に答える。
「はい。そうですが何か?」
わたあめちゃんは僕の言葉に、白くて小さな手をおずおずとこちらに差し出してきた。
それから彼女は大きな潤んだ瞳でこちらを見上げ、ほんのり頬をピンクに染めつつ言う。
「握手してください」
「ああ、はい」
僕はあっさりと快諾し、力をこめれば壊れてしまいそうなくらい柔らかく小さな手をそっと握った。
「ありがとうございます!」
わたあめちゃんはうれしそうに言うと、ぺこりとお辞儀をして走り去って行く。
僕は小さくなっていく彼女をぼんやりと眺めた後で、自分の右手を見つめた。
一年一組の教室に入った途端、「七瀬、おっはよ!」「おはよう、七瀬」と僕の登校を待ちかねていたかのように、クラスメイト達が集まってくる。
男子には軽く小突かれ、女子には肩をパシパシと叩かれる。
朝からクラスメイトに囲まれる僕は、はたから見ればリア充に見えるだろう。モテそうにも見えるかもしれない。
でも僕はリア充でもないしイケメンでもない。外見は普通だと思いたいけど、十六年間つまり彼女いない歴イコール年齢の典型的な非モテ男子だ。
そんな非モテに群がる理由は、ただ一つ。
僕の周囲にいると恋愛が成就するから。ただし僕自身は除く。
眉唾ものの話だけど、これにはきちんと理由がある。
それは、僕の母が愛の天使だから。元、だけど。
母は人間に恋をしてしまい、その能力をつかって恋仲になった。そのことで天界追放。数年後に僕が産まれた。ちなみに今は母は主婦をしている。
そして、どんな遺伝の仕方をしたのか知らないけど、幼い頃から僕は近くにいる者の恋を無意識のうちに叶えてしまうのだ。
その能力は自分自身の恋を叶える力をも犠牲にしていると母から聞いた。通りで僕の恋はことごとく叶わないはずだよ。
だから本来は恋が叶う効果しかないのだけど、なぜかクラスメイトは何でも願いが叶うと拡大解釈している。
「おっはよ! 七瀬!」
大きな声と共に背中にばしんと衝撃が走る。その声と乱暴な扱いに僕の中で定評がある人物は一人だけ。
振り返るとやっぱりいた。翔田翼が。今日も元気だ。
翔田は名前は男っぽいしショートヘアーがボーイッシュさをかもしだしているけれど、整った顔立ちの美少女。僕と身長が変わらないから男装をすればイケメンになれそうだし、化粧をすれば女優と間違えられそうだ。
「ねえ、翔田はなんで僕に対してだけ乱暴だったりイタズラをしかけたりパシリにしようとしてくるんだ? 何か嫌われるようなことをしたっけ?」
僕の言葉に彼女はこちらをきっと睨みつける。
「その態度がなんか気に食わない! そもそも正面切って『嫌われるようなことしたか?』なんて聞くな!」
「なるほど。そりゃあそうか」
「七瀬と話してると調子狂うなあ。からがいはあるけど、まともに話すと脳みそ変になりそう」
翔田はそう言って特大のため息を一つ。傷つくなあ。
でも、僕はこうして彼女と話すことが嫌いではない。むしろ軽口を叩けるのって悪友っぽくて良いな。
そんなことを考えていたら妙に幸せな気持ちになってきて、僕は思わずこう言う。
「これが青春ってやつかなあ」
「は?! 何言ってんの?!」
翔田は目をまん丸くした後で、ぷっと吹き出して笑い出す。
何だか分からないけど楽しそうで何よりだ。
昼休みになり、クラスメイトに小突かれ、肩をバシバシ叩かれ、それを何とかすり抜けて購買へ向かうべく教室を出る。
キューピッドの性格まで遺伝しているのか、僕は周囲が両思いになっていくのを見るのが好きだ。たとえ自分がそのせいで非モテでも。たまに寂しくなる時もあるけど泣かない。
「七瀬ー!」
その声に振り返ると、にこにこしながら翔田がこちらに駆けてくる。
僕はすかさずこう口にした。
「なに? 今日は焼きそばパン? それともコロッケパン? ああ、どっちも?」
「あのねえ……。なんでそんなにパシリが板についてるのよ」
翔田はそう言ってため息をつく。あんたのせいだけどね!
ちなみにパシリが断れないのは、『助かった!』とか『ありがと!』と翔田がきちんとお礼を言ってくれるからだ。どうもその言葉を聞くとすべてを許せてしまう。
僕がそんなことを考えて翔田からの命令を待っていると、彼女はもじもじしながらこう言った。
「あのさ、一緒にお昼ご飯、食べない?」
「え?」
「あー! やっぱ今の忘れて脳内から抹消して!」
翔田はそう言うと顔を真っ赤にして、僕の頭をグーで殴って逃げて行った。
なんなんだ。新しい嫌がらせか。まったく困った奴だなあ。
そんなことを考えつつ、再び歩き出す。
購買へ向かう途中、勇気を出して男子にチョコを渡している女子を何組も見かけた。みんな幸せになれよ!
僕は鼻歌混じりに廊下を通り過ぎ、背後から次々と聞こえる歓喜の声に胸が高鳴った。ああ、良い気分だな。
「今日は~バレンタインでもあるけど~ふんどしの日でもある~」
自作の歌を口ずさみつつ、教室のドアを開けて自分のカバンを取りに行く。
「おっ。ご機嫌だねえ」
その声に驚いて「おわあっ!」と情けない悲鳴をあげてしまった。
放課後の教室なんて誰もいないのかと思っていたら翔田がいたよ。神出鬼没だなあ。
「遅かったね。何やってたの?」
翔田はそう言ってこちらを睨みつけてくる。
「日直だから担任に雑用頼まれてただけだよ」
「七瀬一人じゃないでしょ。日直の片方は?」
「『ごっめーん! 今日、おばあちゃん危篤なんだ! 病院病院』って帰って行ったけど、あれは放課後デートだな」
僕がそう言って日直の片割れのモノマネを披露すると、翔田はちっと舌打ち。女の子がそんなことしちゃいけません!
「じゃあ、明日、片割れはぶっ飛ばしておくとして」
「ダメダメ! 暴力反対!」
「ちょっと蹴り入れるだけだって! そもそも仕事放棄した上に嘘までつくなんてあり得ない! 七瀬は怒らないの?!」
「嘘はともかく、デートの約束も大事だからね。楽しんでくれば良いと思うよ」
僕がそう言ってうんうんと頷くと、翔田はため息をついた。
「七瀬は本当にバカがつくほどお人好しだよね」
「『バカ』をやたら強調したのが気になるけど、お人好しと言われるのは嫌いじゃないな」
翔田は僕を半ば呆れたような顔で見て、それから黙りこんだ。
そして彼女は手元に視線を落とす。両手には黒い箱。うっ、嫌な予感。
あれは忘れもしない七月十日。翔田から渡された箱を何気なく開けたらカマキリが三匹入っていた。女の子みたいにキャーと悲鳴を上げる僕を翔田がニヤニヤしながら見ていて、『虫、怖いんだあ』と言って、カマキリをつかみそれを僕の顔に――。
「思い出しただけで気絶しそう……」
呟く僕の声が聞こえたのか、翔田は勢いをつけるかのように顔を上げる。
「こ、これあげる」
差し出された黒い箱には、そういう方面に疎い僕でもブランド物だと分かるロゴマークがデザインされてあった。箱からほのかに漂う甘い香りが、余計に危険な雰囲気を醸し出している。
今度はどういうイタズラを仕掛けてくるつもりだろう。騙されてあげるべきか。でもまた虫だったら……。
なかなか箱を受け取らない僕にしびれを切らしたのか、翔田は代わりに箱を開ける。
「どっかーん!」
突然、大きな声を出すもんだから、僕は腰を抜かして床に尻もちをつく。
「びびび、びっくりするじゃないか!」
「七瀬、ビビり過ぎー! 本当、小心者だなあ」
翔田はそう言うと、腹をかかえて笑いだした。ツボに入ったのか机を拳でどんどん叩いて笑っている。
「どーせ小心者だよ」
言いながら立ち上がろうとする僕に、翔田は箱の中から何かを一つ取り出し、こちらに差し出してきた。
「あーん」
翔田がそう言って口を開けるもんだから、つられて口を開けてしまう。
口の中に無理やり突っ込まれた物をうっかり噛んでしまい、訳が分からないまま咀嚼。
これ、チョコだ。しかも、ものすごくうまい!
「後は自分で食べて。それはもう七瀬のものだから」
翔田はそう言うと、チョコの入った箱をこちらに乱暴に渡してくる。
僕はチョコの入った箱を見た。三粒しか入ってないのか。残念。一粒はさっき口に無理やりつっこまれたから残り二粒。箱に書いてあったブランド名からして高級品だよね。
そして今日がバレンタインだということを思い出す。
僕はすべてを理解して、箱を大切にカバンの中にしまおうとした途端、翔田に腕を掴まれ、睨みつけられてこう言われる。
「ここで食べて」
「なんで?」
「ふくざつな事情があるの」
そう言ってうつむく翔田に僕は大人しく席に腰かけ、「いただきます」と手を合わせ、二粒目を食べる。うん。美味しい。濃厚なチョコに中にはアーモンド。さっきのは中にドライフルーツが入ってた。
チョコを味わいつつふと考える。これは本命チョコだと思っていいのかなあ。でも、僕は他人にパワーをつかっている都合上、モテるはずがないのだけど。
例外もあるのかな。うーん。分からない。
ふと顔を上げると、窓の外をぼんやりと眺める翔田の横顔が見えた。やっぱり美少女だなあ。こうして見ると本当にきれいだし笑うとかわいい。スタイルも良い。羨ましいくらいだ。
そんな美少女が僕を好きなの? なんで? そんなはずないじゃないか。今まで散々、からかわれたのに。イタズラを仕掛けられたことだって一度や二度じゃない。
ああ、でもよく言うよね。好きな子をいじめちゃう心理ってやつ。小学生男子みたいな。翔田の僕に対する態度がそれだとしたら、つまりそれは。
三粒目は味がよく分からなかった。美味しくないとか美味しいとかじゃなく、どうしていいのか分からなくなったからだ。義理じゃないかもと思った瞬間に頭がパニックになり、緊急脳内会議が始まり、味を感じるセンサーはお休みさせられた。
食べ終えて脳内会議をしていたら、翔田が空の箱をさっと奪い去って言う。
「これはもらっていく。こういうの、集めてるから!」
翔田はそれだけ言うと、走って教室を出て行った。
僕はぼんやりと席に座ったまま動けない。
チョコをもらった。
そう自覚をする度に、心拍数がどんどんあがっていく。
家にどうやって帰ったのか覚えてない。ただ、何度もどぶに落ちそうになった記憶だけはある。
晩ご飯の後でぼーっとテレビを見ていたら、画面に見覚えのある黒いブランドものの箱が映し出される。
翔田にもらったチョコの箱だ。
『今回、このブランドのバレンタインチョコには、アタリがついている箱があるんです! その箱にあるQRコードを読み込みますと……』
リポーターが続ける。
『限定のペアリングがもらえちゃうんです! ただ、かなり確率は低いので当たればラッキーですよね』
画面に映し出される高そうな指輪。ふーん。そんなことしてるのか。
そこで僕ははたと気付く。翔田が箱だけ回収するなんて、おかしいなあと思ってたんだ。ブランドの箱なんか集めていそうもないのに。
翔田よ、だから僕は恋愛限定なんだってば。くじ運とかはないぞ!
そんなことを考えていると、母が口を開く。
「勝ちゃんはチョコもらえた?」
「え?! あ、いや、その」
僕がどう言っていいものか悩んでいると、父が言う。
「おい。母さん。勝太は自分の力を犠牲にして他人の恋を叶えているんだ。しかも無意識のうちに。そんな体質なのにチョコをもらったかどうか聞くのは酷ってもんさ」
「お父さんカッコいいわ~惚れ直しちゃった」
うっとりする母と照れる父。そして蚊帳の外の息子。
頬をピンクに染めたままで母が口を開く。
「でもねえ、勝ちゃんはまったく恋愛が叶わないってわけじゃないのよ~?」
「え?! 本当に?! 初めて聞いたよそんなこと!」
母はにっこりと微笑んでこう言う。
「勝ちゃんは周囲の恋は叶えられるけれど、愛は叶えられないの。愛を叶えるのは天使のお仕事だからね~」
「じゃあ、僕は他人の愛は叶えてないから、自分自身の愛は叶うってこと?!」
希望が見えたような気がして、僕は母にそう尋ねる。
「そう。永遠の愛、つまり運命の人は勝ちゃんにも必ずいるのよ」
母はそう言うと小指をこちらに見せてくる。運命の赤い糸、か。
僕は自分の左手を見る。小指に赤い糸らしきものは見えない。
☆
バレンタインから数日後。
翔田は相変わらず暴力的ではあったけど少し毒気が抜けているようだった。
チョコが本命なのか義理なのか。僕の中で答えが出るはずもなく、本人に聞く勇気なんか持ち合わせちゃいない。だけど、翔田に聞かなければ真相は闇の中。
何とかうまいこと聞き出せないものかと、タイミングを見計らっているうちに翔田のプチストーカーになっていた。
彼女の周囲をうろちょろしていたら、うちのクラス委員長との会話を偶然、耳にしてしまった。
「ありがとね。あのチョコのこと教えてくれて」
翔田は委員長にそう言うとにかっと笑う。
「自分用に買うチョコを調べてて、偶然みつけただけだから」
「それでも助かったよ。私、そういう情報には疎くて」
僕のために翔田は良いチョコを選んでくれたんだなあ。涙でそう。
「それで、アタリの箱だった?」
委員長の言葉に翔田の顔が一気に曇る。
「ううん。当たらなかった。七瀬パワーを借りれば当たると思ったんだけどなあ」
「そっかあ。それは残念だったね。それより、昨日はどうだった?」
「ああ、タカシ? 良かったよ。好きになれそう」
翔田が笑顔でそう言い放った。
タカシ? どういうこと? 男の名前、だよね。
「そっか。それなら良かったね」
委員長が頷き翔田が何かを喋り出す前に、僕はその場から逃げ出した。
廊下の突き当りの自動販売機で買ったココアを一口飲んで、ため息をつく。
詳しい状況は分からないけど翔田にもタカシという存在がいるらしい。『好きになれそう』ということは相手から言い寄られていたということかな。
じゃあ、あのチョコはタカシとのペアリングをゲットするためか。僕のことを好きだと勘違いしていた自分が恥ずかしい! ぶん殴りたい!
自動販売機に頭を打ちつけようとしたところで、こちらに歩いてくる女子が見えた。ものすごいタイミングだ。
「あ! 七瀬。こんなところにいたんだ。探したんだよ」
そう言って笑う翔田を見て、僕は笑みをつくる。
「おめでとう!」
「え? なにいきなり?」
「いやー。彼氏ができたなら言ってくれよ! 祝うから!」
僕の言葉に翔田は訝しんだような表情で尋ねてくる。
「彼氏? 私そんなこと言ってないよね?」
「いやいや。小耳に挟んだというかその、風の噂でね? 彼氏ができたと聞いたんだよ」
さすがに盗み聞きしたとは言えない。
翔田は黙りこんでしまい、足元に視線を落とす。照れくさいのかなあ。『祝うよ』とか言わない方が良かったのかも。
そんなことを考えていると、翔田は顔を上げる。
「そこまで私に彼氏ができたことにしたいの? そんなにチョコが迷惑だったんだね」
翔田はそう言うと少しだけ笑う。大きな瞳から涙がこぼれる。
え?! ちょ、なんで泣いてるんだ? どういうことだ?!
パニックになる僕に、翔田は涙を手でぐいっと拭いてから走り去ってしまった。
僕はただ、何もできずに、ぼんやりと小さくなる背中を眺めていた。
それから僕と翔田は一切、口を利かなくなった。本当は話しかけたいけど、あっちが僕を避けているのだ。
挨拶はもちろん、視線すら合わさないし、近づこうとしない。だから、イタズラもされない、パシリにもされない。
翔田の笑顔もお礼も聞けないのがこんなに寂しいとは思わなかった。
そして疑問だけが残る。
翔田がくれたチョコ。涙の意味。そしてタカシの存在。
彼女にとって、一体僕はなんなんだ?
本人に聞きたいけど、会話すらまともにできないし。
ため息をつきながら教室を出ようとしたら、ドアの前で翔田とばったり出くわす。
挨拶くらいはしようと思い、勇気をふりしぼって「おは」と言いかけたら、翔田は黙って横を通り過ぎて行った。
まるで僕の存在など最初からなかったかのように。
頭を鈍器で殴られたようなショックが襲い、心臓がナイフでずたずたに引き裂かれたような感覚に陥る。
そこではっきりと分かった。現実を突きつけられた。
僕は翔田のことが大好きだったんだ。
だけど、なぜかは分からないけど、その相手にいつの間にか嫌われてしまった。だからあんな態度を取るんだ。
ああ、軽口を叩けていた時が遠い昔のように感じる。
過去の思い出に浸っているうちに体育の授業になり、グラウンドでぼんやりとしていたら大きな声が聞こえた。
「七瀬! 当たるぞ!」
僕が前を見た時には遅く、ソフトボールをやっていた女子のボールが顔面にクリティカルヒット。
そのまま目の前が真っ暗になった。
目を覚ますと、見慣れない天井。鼻に着く薬品の匂い。白いベッド。ああ、保健室か。
ベッドの横には椅子に座っている女子がいて、それは紛れもなくジャージ姿の翔田だった。
僕が目を覚ますと、ホッとしたような顔をする。
「えっ?! なんで、翔田が?! え?!」
驚く僕に、翔田は大真面目な顔でこう尋ねてくる。
「痛いところはない? 記憶はある? 今は何月何日か言ってみて!」
「ごめん!」
僕はそう言って頭を下げる。
「この前、勝手に祝おうとしてごめん!」
「私の方こそ、なんか、ごめんね」
あれ。案外あっさりと謝れたし、向こうも謝ってきた。仲直りってこんなに簡単だったの?! 今までの険悪な雰囲気は何だったんだ……。
僕は思わず脱力した。言葉を交わせたことは嬉しい。でも、こんなことならもっと早くこうなりたかったなあ。
ちらと翔田の方に視線を向けると、彼女は膝の上で組み合わせた手を忙しなく動かし、それをただじっと見つめていた。
辺りがしんと静まり返り、体育の授業中であろう生徒の元気な声がグラウンドの方から聞こえてくる。
僕が気の利いた言葉を探していたら、彼女が独り言のように呟く。
「でも、良かったよ。無事で。私が転校する前に七瀬が記憶喪失とか、嫌だし」
「記憶は喪失してないよ。抹消したい記憶ならあるけど……って転校?! 誰が?」
「私に決まってるでしょ。親の都合で四月から隣の県に住むの。高志町ってド田舎」
「たかし、ちょう」
「そう。昨日、高志町を見てきたんだけど、いい所だった。好きになれそう」
まさか委員長との話は……。男のことではなかったのか!
「本当は引っ越してもこっちの学校に通いたかったんだけど、さすがに片道三時間以上かかるとなるとね。あきらめたよ」
そう言って俯く翔田。転校はショックだけど、少し安心した。
「口、利いてくれないかと思った」
僕の言葉に翔田が掴みかかってくる勢いで肩を前後に揺さぶる。
「それはこっちの台詞よ! バレンタインの後で何も反応はないし、おまけに変なこと言ってくるし! どれだけ悩んだと思ってるのよ! どれだけ勇気をふりしぼってチョコを渡したと思ってんの?!」
「あ、いや、それは」
「本当はバイトでもして七瀬にペアリングを渡したかったの! でも、いきなり転校が決まったから七瀬の幸運体質を利用しようと思ったのに」
翔田はぜえぜえ言いながらこちらを見る。
お互いの顔が思ったよりも近くにあり、途端に翔田がずざざざ、と椅子ごと後ろに下がった。
「ぺアリング、当たらなかった。七瀬の運もたいしたことないね」
翔田はそこまで言って俯く。僕の思考は既に停止。訳が分からない。なんだ、この展開。
僕が必死で状況を把握しようとしていると、翔田が唇を噛んで俯いている。
「女の子に、言わせるわけにはいかないな」
そう呟いて、僕はすうっと息を吸う。
「翔田!」
「え?! なに?!」
驚いたようにこちらを見る翔田。心拍数が急上昇。緊張で額や手の平が汗ばんでくる。
好きだと自覚して間もないのに、告白をしようだなんて我ながら大胆というか、せっかちだなあと思う。
でも、目の前で心配そうな表情でこちらを見ている翔田が、僕のたった一人の相手かもしれないと強く感じるんだ。
だからこそ、きちんと思いを伝えなければいけない。こういうのは男の僕がびしっと言わなきゃ!
僕は覚悟を決めた。吐けば楽になるんだ! 心の中の熱血刑事がそう怒鳴っている。
よし、いけ! 言うんだ!
「あの! 連絡先とか教えてほしいんだけど!」
僕の言葉に翔田が目をまん丸くした。自分自身も心の中の熱血刑事もずっこける。いや。違うんだ。そうじゃない。
「連絡先おしえてもいいけどタダってわけにはいかない」
「え? なに? なにが必要?」
「七瀬勝太」
翔田はそう言ってからぼんっと火がついたかのように顔が真っ赤になり、それから慌ててこう付け足す。
「あ、ち、ち、違うの。命とか人質とか物騒な意味じゃないからね!」
「うん。さすがに、それは、分かるから。うん」
僕はそう答えるだけで精一杯だった。
そして、急にしおらしくなった翔田は顔を上げ、僕を真っ直ぐ見つめる。
彼女の桜色の唇がゆっくりと動く。
「ずっと、ずっと七瀬が好きだった」
僕は不覚にも動けなくなった。自分から言おうとした台詞は彼女に奪われた。しかし、その言葉は今日、恋心を意識した僕のとは重みが全然違う。
ふと左手に視線を落とすと、小指に赤い糸が巻きついているのが見えた。
その糸がつながっている先は翔田の左手の小指。
まばたたきをすると、糸は見えなくなってしまった。
僕は大きく一つ頷き、顔を上げ、耳まで真っ赤な翔田を見つめてから口を開く。
「小指の赤い糸は目には見えないから、ペアリングを買いに行こう」
くっさい台詞を吐き出した直後、僕の顔も真っ赤になった。
<おわり>