別離
彼女のしなやかな指は、まるで小さな花に触れるかのように、丁寧に静かにタバコを手に取る。そして、口にタバコをくわえて、ライターで火をつける。この何気ない一連の行動で、如何に彼女が上品で魅力的かが僕には分かる。
「ねえ、そんなに見つめられると困っちゃうんだけど」
彼女は煙草の煙をふーっと吐きながら僕に照れ笑いをした。
「私がタバコを吸っているのがそんなに面白いの?どうしてあなたはいつも私のタバコを吸う姿を見つめるのかしら」
「面白いからだよ」
「ふーん」
彼女はまるで興味のない返事をしてタバコを口に運ぶ。
僕たちは海にデートに来ていた。僕達の住んでいる田舎にはデートスポットと呼ばれるようなお洒落な場所はなく、海を二人で訪れるのが僕達のデートだった。砂浜には僕たち以外の人影はなく、僕の耳に入るのは波の音と彼女のたばこを吸う音だけだった。
「今度水着でも持ってこようかしら」
「君は水着を持ってきたって着たことは一度もない」
「当たり前でしょ。水着は海の気分を味わうために持ってくるの。海は眺めるものよ。絵画みたいにね」
僕達はしばしの間海を眺めていた。
ふと彼女を見ると、彼女は僕なんか最初からいなかったかのようにひたすら海を眺め続けていた。彼女はいつもそうだ。僕なんかよりもずっと遠くの何かを見つめている。まるで、水平線に何か落し物をして、それを探しているかのようだ。
「ねえ、私達別れましょうか」
煙草の灰が地面に音もなく落ちた。それは、僕達の運命を表しているかのようで、僕は少し不安になった。
「何でそんなことを突然言うんだい」
僕はなんとなくその理由が分かっていた。僕じゃ彼女を幸せにできないことも。
僕が彼女の心を捉えたことなど一度もなかった。
彼女は大きなため息を一つついた。
「ため息をすると幸せが逃げるよ」
「それくらいで逃げてしまう幸せなんか要らないわ。私は永久に続く幸せが欲しいの」
「そんなもの無いって分かってるんだろ?」
「分かってるからこそ余計に欲しくなるの」
彼女はいつも何かと戦っている。それが僕には解決できないことも知っている。
僕は彼女と付き合ってる間、常に無力感と戦っていた。僕が彼女にできることといえば、横に居て海を一緒に眺めることくらいだ。その事実に気がついた時、僕はいつかこの人が自分のところから離れてしまうだろうこともなんとなく分かっていた。
分かっていたつもりでも、やはり目の前で彼女から別れを突きつけられるのは少し寂しい物があった。
「僕じゃ君を幸せにできないのかな」
「いいえ、違うわ。誰も私を幸せにはできないの。貴方のせいじゃないわ」
「そうか」
こんなことしか言えない自分の情けなさ。全く自分自身に呆れてしまう。
「僕たちは別れた後もまた会えるかな」
彼女はタバコを吸い終え、静かに立ち上がった。
「また会いましょう。いつかね」
「うん。いつか」
恐らく僕と彼女が会うことは二度と無いだろう。
彼女が去った後、タバコの残り香だけが僕を慰めるように静かに包み込んだ。