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第8話 惨めな別れ

 仲原は「ただいま」と言いかけたが、彼の鋭い目は恭子の隣にいる男に向かう。慌てて、ベッドから降り服を整えている恭子とは対照的に、横の男は慌てる様子も無くベッドに居座っている。部屋の雰囲気から大体のことを察知した仲原は、彼女に説明を求めるわけでもなく、その場を立ち去った。

「やだ…待っ…」

 恭子は仲原を追いかけようと部屋の外に出たが、仲原の姿をみつける事はできなかった。どうすることも出来ず、ドアの前に呆然と立ち尽くしてしまったが、男の言葉にふと我に返った。

「お前の彼氏は、理由も聞かないんだな」

 

「また、連絡するから」

 男はそう言って、恭子の黒髪を撫で、出て行った。


 恭子は混乱していた。訳も聞こうとせず去っていった仲原。久々に会った前の彼の優しい笑み。不思議な感情に囚われながらも、取り返しのつかない事態になったということは判った。

(許してくれる訳ない………)

 部屋の中にある仲原の物が、自分を恥ずかしい人間だと責め立てている様であり、彼女は部屋にいることが出来なかった。


 恭子は、その後、何度も仲原に連絡をとろうとしたが、電話に出てくれない彼に、絶望し、途方に暮れていた。何度も彼のアパートを訪ねてみたが、全く会えず。

 そうしたまま、数日が過ぎ、彼女は仲原の勤務先である病院に初めて電話をした。それ程追い詰められていたのだ。

「はい、安田病院です」

「外科の仲原先生お願いします」

「お約束でしたでしょうか?」

 恭子はとっさに嘘をつく。

「はい。佐藤と申します」

「お待ちくださいね。今から、連絡をとりますので…」

 どれだけ待ったのだろうか。頭の中をいろいろな言葉が浮かんで、あーでもない、こーでもないと混乱していると、受話器があがった。

「申し訳ございません。仲原先生は…」

 バンッ!

「どうして出てくれないのー!」

 恭子は携帯を壁にむかって投げていた。


 ただ会いたい一心だったのかもしれない。気がつくと、いつの間にか病院に向かっている恭子の姿があった。仲原の研修先でもある外科の3病棟に足を運んだ彼女。会って何を伝えたいのか、わからない位混乱していた。

「あの、すみません」

 途中、白衣の医師が通る度にドキドキした恭子だったが、やっとの思いで外科3病棟のナースステーションを見つけるとのぞいて声をかけた。

「仲原先生いらっしゃいますか?」

「あの? どちら様ですか?」

 若い看護師は、恭子を見るとこう尋ねた。

「佐藤と申します」

「お約束でしょうか?」

「いえ」

 恭子は顔を曇らせた。

 彼と会うのがこんなに難しい事なのか。約束が無いと会えないのか。恭子は失ったものの大きさに愕然としながら自分の行った行為を悔やんだ。悔やんでも悔やみきれない。

「今、こちらにはおられないのですが」

(やっぱり会えないの…もう待てない…)

 看護師は驚いた。目の前にいる女性が、泣き始めたから。

「あ、あの、大丈夫ですか?どちらの患者さまの…」

「いえ、違うんです」

「え?」

「どこに行ったら仲原先生に会えますか?」

 看護師は「あっそうか」という表情をして、こう言った。

「もしかして? 先生の?」

 興味深げに尋ねてきたが、恭子は「あの…」と口ごもる事しかできなかった。困惑して立ち尽くしている恭子に看護師は「今日は、送迎会があるので…」と言って、お店の名前を恭子に教えた。

「7時からなんで、」と、親切な若い看護師は付け足した。


 時計は7時半を指している。恭子は看護師から教えてもらった店の、入り口から少し離れたところで待った。待ち伏せだ。自分は絶対にこんな事をするような人間では無いと思っていた恭子は、ただ、会いたい一心でここに居る自分自身が信じられなかった。きっと、冷静さを失っていたのだろう。

 2月の寒空のなか、真っ暗になった街は、いっそう寒さを増した。吐く息も白く、マフラーに顔をうずめた恭子だったが、目は仲原の姿を探していた。

 店から、人が出て行く度に恭子は目を凝らしたが仲原は出てこない。

 8時が過ぎ、店の前で待つ恭子はどんどん不安になっていった。もしかして、店には居ないのだろうか?何か用ができて、来れなくなったのだろうか。彼女は、店内に入るか、入らないでおくべきか迷っていた。

 ようやく9時になっただろうか。恭子の体は芯まで冷え、馬鹿げた事をしている自分が情けなく思った。

 ガラガラガラッ

 店の引き戸が横に開く。

「やだー先生!」

「あはっはは」

 会を終えた人が続々と店から出てきて、入り口で立ち話を始めた。会話から病院関係の人であることを察し、恭子は、酔っ払った人達の中に仲原の姿を探した。しかし仲原はその中にいない。

「先生、次どこ行くんですか?」

「カラオケー予約してあるから!」

「早く、タクシー来たぞ」

「待ってートイレ」

 タクシーが3、4台続いて到着すると、騒がしかった人の束はすーっと消えた。

 店の前はまた、寂しくなり、恭子は、また1人になった。

(待って! もしかして……)


 恭子には心当たりがあった。いつだったか、仲原を迎えに行ったカラオケ店。そして、彼女は記憶をたどり、車を目的地まで走らせていた。どうやってたどり着いたのか自分でも覚えていない程、夢中だった。

 店に着き、受付のロビーを見渡すと、先に到着した人たちの集まりに混じって待っている仲原の姿があった。

(いた…)

 久しぶりに見る仲原の姿。今はとても遠い存在に思える。

 恭子は静かに歩み寄ると、近くまで言って声をかけた。

「仲原くん!」

 仲原が、声のする方をみると、そこに恭子の姿があった。仲原は困惑した表情で集まりから離れ、人気ひとけのない廊下へ足を運んだ。恭子は仲原の後を追っかけたが、途中、仲原の足が止まり、急に恭子の方を振り返った。

「何でここに?」

「仲原くん。この前のこと」

 仲原は、うん、とうなずいた。話を聞いてくれる様だったが次の言葉に恭子は愕然とした。

「荷物とりに行くから、部屋の外にでも置いといて」

 怒った様子もなく、別にどうでもいいという無関心な仲原の態度。恭子は苛立ちを覚えた。

「どうして何も聞いてくれないの?」

 仲原はしびれを切らせた様で、面倒くさそうに言い放った。

「じゃぁ何が言いたい?」

「……」

 結局、仲原の言う通り、恭子には何も説明できなかった。自分が悪いのだ。

「とにかく、荷物とりにいくから」

 足早に去ろうとする仲原に、恭子はしつこく食い下がった。いつもの控えめで物分りの良い彼女では無かった。

「もう一度やり直して欲しい」

「元には戻れないだろ?」

 仲原は皮肉っぽくそう言って、集まりの中に戻ろうとした。

 去ろうとする仲原を追っかけ、彼の前に立ちはだかった恭子だったが、冷たく愛情の無い仲原の視線は、彼女の心の奥に突き刺さった。

「やり直したい。どうしても無理なの?」

 そう聞いた恭子だったが、仲原の答えを聞くまでもなく、結果はわかっていた。彼の表情からは、自分に対しての愛情のかけらも感じ取れなかったから。

「もう、無理」

 予想した彼の答え。

「やだ、もう」

 別れに直面した恭子は泣き出し、必死に仲原にしがみついた。みっともない姿だと、わかっていたが、自分をコントロール出来ないでいた。

 仲原はうんざりだという様に腕を振り払ったが、運悪く、細い恭子の体は廊下に投げ出された。途中、恭子は哀れむようにこちらへ向かった視線を感じていた。



 

 


 

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