第6話 理想と現実
「やっぱ新しいローテートって変わってるよね」
研修医の仲原がやってきてから1週間。彼のマイペースな行動が目につきはじめた。
カッカッカッカッカッカッ、革靴の音を響かせて、険しい顔で高津が詰所内に入って来た。
「仲原はいないのか?」
傍にいたミサは驚いて、すくっと立つと
「あの、410号室で処置しています。」と、小声で答えた。
「研修医のくせにっ」
詰所を出る際、高津はこう呟いた。ヒラヒラとなびく白衣が高圧的にみえた。
(トイレの貫一。今度は何をしでかしたんだろう?)
ミサは、仲原のことを勝手にトイレの貫一と命名していた。
ミサ達、看護師は清拭にとりかかっていた。お風呂に入れない人達に、あたたかいおしぼりタオルを渡すのだ。
「田中さん、はい、どうぞ」
2本のタオルを保温バッグに入れ手渡していく。
「いらん」
70代のその患者は言った。
「でも田中さん、昨日もその前も拭いてないですよね。今日は手伝いますから」
ミサは困った表情をして、田中に言った。
「いらんっていったら、いらん!」
ミサがすすめれば、すすめる程、意固地になっていった。ミサが出ていかないので
田中はしびれをきらして言った。
「体、拭いたことにしといたらえーやないか」
「また、後できます」
ミサはいったん部屋を出て、考えこんだ。難しい患者を何人か見てきたが、田中のかたくなな態度に疑問があった。
(入院してきた時は、そんなに難しい人じゃなかったんだけど…)
「ちょっとぉ、渡辺さん。ちゃっちゃと配らないと検温する時間がなくなる!」
脅迫めいた声で、パンチが注意する。
あの、飲み会以来、少し周囲にとけこんだ感じのミサであったが、やはり、仕事場では注意されてばかりだった。
「あの、田中さんが…」
「もう、あのじいさん!本当に頑固なんだからっ」と、パンチは鼻を膨らませて、ミサからおしぼりタオルを奪い取り、田中のもとへ置きに行った。
「ちょっと行ってくる!」
(あー、相談するんじゃなかった)
ミサは反省した。
パンチは田中のところに行ってきたかと思うと、すぐ手ぶらで戻ってきた。ミサは田中の事が、とても気にはなっていたが、業務に追われていた。
自分で拭ける人にタオルを配ったあとは、寝たきりの患者の清拭が待っている。もたもた時間をかけていると、必ず言われる言葉がある。
「○○さんだけ、特別扱いはできないんだからね!」
しばしば、新人のナースは学生時代に実習してきたことと、現実とのギャップに悩まされる。ゆっくり、1人に関わり、話を聞いたり、お世話したりしてきた学生時代。
今は、ゆっくり患者の話に耳を傾けることもままならない。
いつもミサは思っていた。学生時代は、バケツにたっぷりのお湯を汲んで、タオルをしぼり拭いていた。そして、必要に応じて手浴、足浴を行い、洗髪を行う。実習先の看護師も、看護学校の先生も、そうする事が当たり前のように教えた。
(1人に時間をかけすぎてはいけない)
ミサが就職して初めて知った現実。
実際、ミサが患者の話を聞いていると、必ずといっていい程、注意されるのだ。
「どこ行ってたの? 何してたの?」
やっと、全員の清拭が済み、ミサは検温の準備をして、真っ先に田中の部屋に行った。
机の上には、パンチが置いていった保温バッグが、開けることもなく置いてある。田中は、壁の方を向いて、ミサの方を向こうともしない。
「田中さん」
「…」
「検温させてください」
「…」
「朝のこと、怒ってるんですか?」
ミサはストレートに聞いてみた。
「風呂!」
田中はそれだけ言った。
「お風呂に入りたいんですか?」
ミサがそう問い返すと、壁の方を向いて横になっていた田中が、急に起き出して怒鳴った。
「もう、何日も前から、お風呂に入りたいって言ってんだろ!あんたら看護婦は、聞く耳を持っていないんか!」
ミサは初めて聞いたことだが、田中はスタッフの誰かに、お風呂に入りたいことを訴え続けていたようだ。
一瞬、田中の剣幕に驚いたミサだったが、冷静さを取り戻し、こう言った。
「田中さん、点滴が抜けないと、お風呂は無理ですよね。だから、拭かせてください」
田中は、もういい、と諦めた表情を浮かべ
「誰に言っても一緒! だから、看護婦は嫌いなんだ」
そう言い放った。
「じゃ、点滴抜こうか!」
不意にカーテンの向うから声が聞こえた。
「え?」
ミサも田中も驚いて、カーテンの向うに視線をやった。
隣の患者を診ていた仲原だった。カーテンを開けて、入ってきた彼はもう一度
「今から、抜こう!」そう言った。
「せ、先生。大丈夫なんですか?」
田中は来たばかりの若い研修医を半信半疑でみつめる。
ミサとて同じだった。
(また、勝手なことしたら高津に怒られるに違いない)
「点滴は抜きます。その代わり、ごはん、もうちょっと食べてください」
田中は抗ガン剤のあとの食欲不振で、低栄養のために点滴が入っていた。
「ほんとに、抜いてくれるんですか?」
「今、半分くらい食べられてるから、抜いても大丈夫ですよ。食べられなかったら、また入れなおしたらいいんだから」
仲原は田中の病状を把握しているようで自信を持って答えた。そして、田中の左腕にある点滴のルートをあっという間に抜いた。
「風呂、入ってもいいんですか?」
「はい、どうぞ」
田中の顔がぱっと明るくなった。
ミサにとって、こんな、自信に満ちた研修医は初めてだった。やってくるローテートは、ほとんど高津にお伺いをたてて、まるで自分の意見を持っていないようだったから。
それが良いのか悪いのか、ミサには判断がつかなかったが、田中には良い先生に映ったに違いない。
ミサは、部屋から出て行く仲原をボーゼンと見ていた。
(トイレの貫一…やるじゃない)
実際、看護師の平均離職率は11・6%、新卒看護師は9・3%。日本全国で、1年間に看護学校140校分の看護師が退職している計算となる。せっかく、勉強して授かった国家資格を、若いやる気のあるはずの新人ナースが、たった1年で捨ててしまうのだ。
新人ナースが辞めていく理由の大半は、理想と現実とのギャップ。ミサも例外では無かった。
「看護婦は聞く耳を持っていないのか!」
そう怒鳴った田中の声が、ミサの頭の中をこだました。ミサは入院しているすべての患者から、言われているような気がしてならなかった。




