第29話 復讐
ミサは何をする訳でもなく、ただ、考えていた。母親や、福永が一緒に居たが、1人になりたくて帰ってもらった。
シトシトと雨が降っていて、昨日の星1つない空を思うと頷けた。真面目すぎる彼女の頭の中には、救急車に運ばれる血だらけの恭子の場面が何度も繰り返される。彼女は何で、死を選んだんだろう? 大きな疑問が頭の中を埋め尽くした。
ふいに携帯が鳴った。
仲原からかもしれない、そう思ったミサは、慌てて電話に出た。
「はい……」
「あの、大丈夫かしら?」
電話は師長からだった。処分が決まったのだろう。ミサの携帯を持つ手元が震えた。
「結論から言うわ。あなたには非が無い。そういう事」
「働けるんですか?」
「えぇ。ただ、事件のことで4病棟全体が混乱しているというか……あなたに対する風当たりが強くなることはあると思うの。いつからでも働いてもらってもいいけども、あなたの事が心配だわ。2、3日、休んだらどうかしら?」
「……はい……ありがとうございます。で……」
「何? どうしたの」
「先生は? 仲原……せん……」
ミサは恐る恐る聞いた。本当に怖かった。自分の事よりも、彼がどうなってしまうのか、一番不安に思っていた。
「まだ決まっていないわ。医局の中ではいろいろと考えがある様だから……」
「わかりました」
ミサは師長からの電話を切ると、とっさに、仲原の携帯へかけた。
呼び出し音が空しく聞こえてくるだけで、彼は出なかった。
「せんせ……」
ミサはそう呟くと、灰色の窓に視線を移した。
「で、君は今回のこと、どう説明してくれるのか?」
仲原は院長室に呼ばれていた。院長の横には高津と、他の部長クラスの医師が数名、腕を組み、顔をしかめて仲原の方を見ている。誰もが高圧的で、仲原のことを見下した様な表情だ。高津がここぞとばかりに口を開いた
「それにしても、何だね。研修医の立場で、君もやってくれたね。病院のイメージが悪くなるような、こんな不祥事初めてだよ」
「は? 不祥事とおっしゃいますと?」
堂々とした仲原の姿は、取り巻きの医師たちをより一層苛立たせた。
「君は佐藤恭子と付き合っていながら、病棟のナースに手をつけた。それが自殺未遂事件の真相ではないのか?」
「違います」
「ほほう。何が違うんだね」
「佐藤恭子さんとは、確かに付き合っていましたが、別れました。彼女……渡辺さんと付き合う事になったのは、その後です」
「だから、浮気はしていないと?」
「はい」
「君! 言い訳するのかね。こちらの情報では、君と佐藤恭子は付き合っていて、病棟のナースに手を出したという事がわかってるんだよ」
「嘘だ、誰がそんなこと!」
仲原は自然に力が入っていくのがわかった。いつの間にか、拳が固く握られていた。
「往生際の悪い奴だ」
「医師という職にすがりつきたいのはわかるが、みっともない」
周りの部長連中はざわざわと仲原を罵倒する格好となった。
「君は知っているかもしれないが、自殺未遂を起こした、佐藤恭子の父親は、県議会の議員でね。先ほども電話があったんだが……こんな野蛮な医者は辞めさせてくれと、そういう事を言ってきてるんだよ。真実はどうであれ、君のせいで1人の人間が死を選ばざるを得なかったのは間違いないのだから」
吐き捨てるような言葉の数々に、仲原の眉はキッと吊り上った。しばらく黙って聞いていた仲原は、院長の取り巻きではなく院長を捉えて言った。
「彼女の自殺未遂の件は、自分が至らなかった、それだけしかいえません。しかし、私は、医者としてやるべき事があります。だから辞める訳にはいかないんです」
「罪は認めるけども、償わない。そういう事か?」
高津が嫌味にそう言った。
「面白いな君は」
黙っていた院長が初めて口を開いた。
取り巻きの医師たちは、首をかしげて院長の方に目を向けた。
「個人的には、君のような人間は好きだ。しかしながら、病院はイメージが大事だという事は君にも理解できるだろ?」
「辞めろという事ですか?」
「そうなるな……」
院長は、立ったまま、こちらを見ている仲原にそう言った。
取り巻きの医師達は口々に当然だ、というような言葉を交わし、立ち上がって、仲原を横目で見ながら院長室から出て行った。
仲原は、ぞろぞろ出て行く部長連中には目もくれず、しばらく院長の顔を見据えた。院長も仲原の顔をまじまじと見る。
ザーーーーーッ
静かな室内に、不意に激しく降る雨の音が響いた。
ザザーーーーーーーッ
「君、あの時の子だね……あの日も雨で……」
「え?」
「君がうちの病院に就職すると聞いた時は、本当に驚いたよ」
仲原はまだわからないのか、記憶のかけらを探していた。
雨、病院……子供…白衣の列。
「小園君のことは残念だったよ。今も思い出す」
「院長?」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
病室では、まるで呪文のように、ごめんなさいを繰り返す恭子の姿があった。
何てバカな事をしたんだろう? これで完全に仲原は去っていった。私を軽蔑して。2度と戻って来ない。嫌われた。助けて。行かないで。
そんな言葉が恭子の頭の中を埋め尽くす。
トントントン
ドアをノックする音が聞こえた。
「仲原……くん!」
恭子は、がばっと起き上がったが、そこには加藤の姿があった。
「参ったよ」
恭子は顔を背けた。今は何故か、顔を見るだけで吐き気がする。アレルギー反応のように、体中が嫌悪感でいっぱいになった。
「師長に呼ばれて、さんざん聞き出されたよ。だから、言ってやった。仲原がお前と付き合っていながら、病棟の若いナースに手を出したってさ。安心しろよ。仲原も、お前が殺したいほど憎んでいる渡辺ミサも終わりだよ」
「……ちがう」
「それで、話なんだけど。俺達も終わりにしないか? 他の男のせいで自殺未遂をしかけた女と一緒に居るほど俺もバカじゃない。それに」
加藤は急に声色を変えた。
「俺、この病院の担当をはずされた……正直、参ったよ。ほんと、怖い女だよ」
自分の人生を狂わせた男が目の前にいる。しかも、自分に対して謝罪するどころか、罵ってくる。この男。この男さえいなければ今でも仲原と平穏に暮らしていたかもしれない。許せない。許せない。
「あははははは」
狂ったように笑いはじめた恭子に驚いたのか、加藤は後ずさりをした。
「やめろ! おかしいぞお前」
「母親は父親のせいで自殺したのよ! あはははは。その後ね、父親の慌てる姿ったらたまらなく可笑しくて。あなた知ってた?」
ずりずりと加藤に近寄る恭子。美しかった面影は消え去り、その顔は狂気で満ちていた。
「あなた、知ってた?」
「何だ。正気に戻れ!」
「自殺って最大の復讐なのよ」
加藤の顔が凍りついた。
ポタポタポタポタ
床に落ちた血の赤い線を辿ると、恭子の口唇に辿りついた。真っ赤に染まった口角がわずかに動き、不気味に笑った。
バタンと大きな音をたて、恭子は、直立の姿勢から、後ろへそのまま倒れた。スローモーションの様に。
「バカ、いい加減にしろよ……」
「どうしましたか?」
物音に気付き、ナースが入ってきたが、次の瞬間「キャーッ!」と大きな悲鳴をあげた。
「ちょっと、誰か来てぇ!」




