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第27話 一身上の都合

 プシュー

 手術室のドアが開き、師長が戻ってきた。

「出血の割りには、創は浅いそうよ。命にも別状ないみたい……」

「はぁー、良かったぁ」

 ミサの気持ちを代弁するように、福永が大きな声を出した。横にいるミサの母親も、ほっとした様子で師長に頭を下げる。

「渡辺さん、大丈夫?」

 さっきから、うなだれたままのミサを気遣って師長が声をかけたが、ミサは頷くのが精一杯だった。気になるのは手術室の中にいる仲原のこと。この先、彼にどんな処分が待っているのかを考えると、いてもたってもいられない気分になった。

 夜中の手術室の前の廊下はひっそりと暗く、ミサの母親がついたため息の音だって響いた。

「あの、けがをされた彼女の名前は? ご家族の方に何て言ったら……」

「おばちゃん、何、言ってんの! ミサは被害者なんだからね。謝るとしたら、向うの方なんだから。おばちゃん、しっかりしてよ」

「佐藤 恭子さんって言ってたわね」

 師長は手帳を取り出してそう言った。

「彼女の父親は、どうも市議会の議員さんみたいでね、連絡したそうなんですけども、来れないって言ったみたいですね。受付から、手術の承諾書や、必要な書類があるから、どうしても来て欲しいと電話したそうなんだけども、断られて……」

「なんちゅう家族や! で、母親は?」

 福永は信じられないという顔で師長の顔を覗き込んだ。

「そこまで詳しくはわからないんだけど」

「あ、ね、そうそう」

 福永は急に何かを思いついたのかすっとんきょうな声をあげた。

「何? どうしたの?」

「師長さん、か、加藤さん……丸山製薬の。彼女と付き合ってるみたいだったし、加藤さんに聞いてみたら?」

 師長は訳がわからないという表情を浮かべ、困惑している様子だった。

「まぁ、とにかく今日は帰りましょう。明日の決定を待って……連絡しますから」

 決定という響きが、ミサの肩に重くのしかかった。



「ちょっと、聞いた? 手術室の子から聞いたんだけど!」

「え? うっそー? 渡辺さん、仲原と付き合ってたの」

 日が明けて4病棟では、仲原とミサのことでもちきりになっていた。ナースの情報網というのは恐ろしいものがある。

「渡辺さん……彼女から仲原を奪い取ったってことなの? おとなしそうにみえて、わかんないね」

「それでね、その自殺未遂の彼女が、加藤さんのね」

「えーー!」

 山中が、どこからか仕入れてきた情報を話し出すと、皆驚いて、首をかしげた。

「わかんないもんだね」

「うん、わかんない」

「皆さん、ちょっと静かに。申し送りを続けてください」

 師長が皆を制するように、大きな声で言った。

「師長! 今日渡辺さんは休みなんですね。どうしてですか?」

 わざと、山中が師長に問い正した。

「一身上の都合です」

「そんなぁ」

 理由を聞きたがってるほかのスタッフ達も口々に不満をもらした。

「一身上の都合って、一体どれくらい休むんですか?」

「彼女の夜勤の代わりなんてしたくありません」

「そうそう、なんで事件を起こした人のせいで、私たちが忙しい思いをしなきゃならないのよねぇ」

 パンチは隣にいる角野に相槌を求めたが、彼女は話に参加しようとしてなかった。山中は彼女の態度を見逃さなかった。

「ねぇ、亜里沙ちゃんさ、加藤さんから何か聞いてないの?」

 山中の意地悪い視線が角野に向けられた。訳のわからない他のスタッフは不思議そうな顔をして2人のやり取りを聞いている。しかし底意地の悪さでは、角野の方が一枚上手である。キッと山中を睨み返すと「私は何も関係ないわよ」と、さらっと答えた。

 一瞬ひるんだ山中だったが、弱い立場の人間をさらに追い込む性分らしい。「加藤さんと付き合ってたくせに」と言い返した。

「そんなの嘘よ」

 角野は、フランス人形のような顔をふいっと持ち上げて、山中をこバカにするように見た。あんたなんか、誰も相手にしてくれないくせに、と言いたげな表情だった。

「何よ、バカにして! とにかく、こんな乱れた職場でなんか働けません!」

 山中は師長につっかかった。

 師長はやれやれという表情をして、ため息をついた。

「事実がはっきりしていない時点で、いろいろな憶測が飛び交うというのはどうかと思います。渡辺さんが関係しているのは事実ですけども、彼女はむしろ被害者のような印象を受けました。まぁ、今の時点では何とも言えませんが。皆さんも同じ病棟の人間として、見守ってあげてください。彼女について、少し誤解している部分があるのでは? ね、山中さん」

「見守るっつってもねぇ」

 山中は、納得がいかないという様に、眉間に皺を寄せた。

「皆さん、時間は過ぎてますよ。患者さんに迷惑をかける訳にはいかないでしょう。きちんと持ち場についてください」

 トゥルルルルル

 内線電話が鳴った。看護課からの呼び出しだ。師長は2、3回深呼吸をしてナースステーションをあとにした。

 いつものように患者の清拭を済ませ、検温に向かうスタッフだったが、暇があれば事件の話題になった。山中は朝の出来事を消化できない様子で、仕切りに他のナースたちに話しかけては同意を求めようと必死だ。

「でね、ここだけの話だけど、亜里沙ったら、加藤さんと今でも付き合ってるはず。その加藤さんに彼女がいたんだから、やられたわね、あの子も」

「えーでも、その自殺しようとした人も加藤さんと付き合ってて、仲原先生が好きなんでしょ? 何かよくわかんないですゥ。で、悪いのは誰なんですか?」

「ん? んー」

「ちょっと、あんたら、点滴放りっぱなし!」

 パンチのドスの効いた声が響いた。山中は肩をすぼめて、点滴にとりかかり、一緒に話していた若いナースは「すみません」と何度も頭を下げた。

 その頃、ナースの休憩室では、角野が加藤に連絡をとっていた。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「あー、亜里沙か。さっきもいろいろ聞かれたよ」

「誰に?」

「師長。話があるから病院に来いって……困ったことしてくれたもんだよ。恭子のやつ」

「それで、私と付き合ってたってこと話したの?」

「いや」

「そう、良かった」

「体だけの付き合いだなんて、言える訳ないしな」

 加藤はそう言ったあと、皮肉っぽく笑った。

「あんた、最低ね」

「おまえだって、恭子のこと知ってて……だろ?」

「……」

「どっちにしても、お前と関係してるのがわかると、担当をはずされるのは間違いないし、恭子の自殺だって俺には関係ないことを証明しないと、俺の立場がまずくなる。何とかしないとな」

「あんた、自分の事しか考えてないのね。それに、彼女が、他の男を好きで自殺未遂したのに、何とも思わないの?」

 珍しく冷静な亜里沙が声を荒げた。

「何とも思わないはずがないさ……仲原という医者。あいつだけは許さない……」

「何で? 恭子さんのことを好きだから?」

 加藤はふふっと鼻で笑って「いや、俺のものをとったから」と呟いた。その声は傲慢で、自分勝手で子供じみていた。亜里沙はぎょっとして、背筋が寒くなるのを感じた。

「もう、連絡してこないで!」

 亜里沙はそれだけ言うと、パチンと勢いよく携帯を閉じ、バッグの中に放り込んだ。


 


 

  

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