第26話 愛の形
ーそばにいて欲しい。愛してるー
ミサは携帯を握りしめた。瞼を閉じて、彼の姿をそこに描く。やはり瞼の奥の彼も寂しげな表情をしていて、想えば想うほど、もろくはかない彼の姿は細かい粒子になって消え去った。何故か、不安になったミサは、今来た道を戻って彼のところへ駆けて行きたい。そんな衝動にかられた。
暗闇の中でしばらく呆然と立ち尽くしていたミサだったが、意を決したように、くるりと向きを変え、彼の家の方へ歩き出した。はじめはゆっくりとした歩調であったが、彼の家に近づくにつれ小走りになった。
何か、嫌な予感がするのだ。彼が消え去ってしまうという不安。理由は分からない。ただ、仲原のことを愛している、そう確信した今は、余計不安が募った。
はぁはぁと息をきらしながら、路地から仲原のアパートの駐車場へ続く道を進んだ。
コツコツコツ……コツ……
駐車場では、ヒールの音が、自己主張をしているように響いた。丁度、車の影で隠れるような形で女が行ったり来たりしている。ためらうという訳ではなく、ただタイミングを狙っている。
それにしても、女の黒髪はより一層暗く、星1つない漆黒の夜空に融けこんでいくようだ。生気を失った様な全く表情のない彼女の手には、バッグの中にある鋭く冷たい物をつかんでいた。
その不気味な存在に気がつかないまま、ミサは彼の部屋の前に居た。大きく深呼吸をして。
トゥルルルルルル
仲原が喋りだす前にと思い、慌てて「先生。私、先生の家の前にいます」と早口で伝えた。
カチャッ
ドアが開き、携帯を片手に持ったまま、仲原が出た。
ドアの前には、顔を赤らめて、必死にやってきたミサの姿。仲原はしばらく無言でミサを見つめたあと、身をかがめて、小柄な彼女を抱きしめた。柔らかいミサの髪に顔をうずめながら。そして、ミサの耳元でそっと言った。
「こんな想い……はじめてなんだ。大切な人……」
彼の腕がしっかりと自分を守ってくれている、そう感じた。大好き、愛してる、そんな言葉じゃなく、大切な人と彼は言った。ミサもぎゅっと彼をつかまえた。
カッカッカッカッカ
女は、玄関先で抱きしめあう2人を凝視し、的の中心に向かって飛び込んでいく矢のように、走りはじめた。手に握り締めたナイフは、もはやバッグの外から出ていて、背中を向けているミサを狙っている。
仲原が気がついた時には、女はすでに近くまで迫っていた。
カッカッカッカッ
「恭子!」
仲原がそう叫んだが、彼女は止まることなく、ミサを狙った。
「やめろ」
「キャッ」
とっさに、仲原がミサを引き寄せ、体を反転させ、かばう様な形になった。
「何で、そんな子をかばうのよー!」
さっきまで無表情だった、彼女は、逆上して怒りを露わにした。その声はヒステリックで異様だった。
そして、ナイフの先は、行き先を決めかねているようにぶれた。
「あなたが悪いのよ」
恭子は、恐ろしく低く静かな声で言った。彼女の視線は光を失ったかのように真っ黒で、どこか遠くの方を見ていたが、やがてあはははははは……と狂ったように笑いだした。ミサには泣いているようにも聞こえ、恭子を憐れむように見た。
「その目が嫌なのよっ」
恭子は不意にミサを睨み、そう吐き捨てた。笑いが止んだ時、やっとナイフは迷いから醒めたように狙いを定めた。
「やめてー!」
「馬鹿っ。やめろ」
グフッと呻き声がもれ、ゆっくり影が動いた。腹をつたって血が流れ出し、そこから伸びた脚にダラダラと血の線が何本も引かれる。しだいに立っていられなくなった足は2つに折れ、膝をついたあと、横にどさっと倒れた。
「あぁぁ……」
騒ぎを聞きつけた住人が通報したのだろう。救急車とパトカーのサイレン音がけたたましく近づいてくる。住人が遠巻きに様子を伺っている。
「ね、しっかりして」
「う……う…」
先に、救急車が到着した。
腹部に刺さったナイフを見ると、救急隊員はお互いに、顔を見合わせた。
血に染まった脚からヒールを脱がすと、恭子を乗せた救急車は、サイレンを轟かせて走り去った。
血にまみれた彼女。それが彼女の愛の形。あまりにも1人よがりで哀れな姿がそこにあった。
まもなく、パトカーが到着し、チカチカと赤いライトが、呆然と立ち尽くす、ミサと仲原の2人の顔を照らした。
「事情を説明していただけませんか」
その先はよく覚えていない。ミサは母親に付き添われ手術室の前で、祈るように目を閉じて座っていた。警官にしつこく質問されたせいか、頭の奥はキーンと金属の鳴る様な音でいっぱいになった。
仲原は手術室の中だ。
「ミサっ。どうしたのよ」
福永は化粧もせず、慌ててやって来た。そして、母親に肩を支えられ、力なくうつむくミサに声をかけた。
「まことちゃん。夜中にすみません」
「おばちゃん、一体?」
ミサは、がっくりと肩を落とし、うつむいたままだ。
福永はミサの傍に座った。丁度、母親と福永がミサを両方から支える形となった。
一瞬、自分を体全体で守った仲原の感触がよみがえった。あたたかく、強く。彼は一体どうなってしまうのだろう。そして自分も。
割腹自殺を図った恭子。明日になったら、この事件は病院中に広がるだろう。そうすれば、仲原の立場は益々脅かされるだろう。嫌味に笑う高津の顔が、ミサの頭に浮かんだ。
ミサが病院に到着したとき、当直師長が怪訝そうな表情をし「あなた、ここの看護師だそうね。何病棟?」と言ったあと「今から4病棟の師長に連絡しますから、きちんと事情説明しなさい」と冷たく言い放った。問題を起こした看護師、そういう風に扱われたことが辛かった。
人を救うはずの看護師。命を救うはずの存在が、1人の人間の命を縮める結果となった。ミサには非はない。母親も福永もそう言って彼女を励ましたが、ミサは罪悪感でいっぱいになった。
「渡辺さん」
病院に到着してから30分程してから、4病棟の師長が現れた。
「お世話になっています、ミサの母親です」
師長は母親から事情を聞くと「困ったわね……」と少し考えたあと「とりあえず、落ち着くまで休みなさい」と続けた。
「あの、師長さん、ミサはミサは関係ないんです」
福永は師長に言った。
「理由はどうであれ、人の命に関わる事件に関わっているということ。病院の方針が決まるまで、私にはどうする事もできないわ」
師長はうなだれているミサの肩にそっと手をおいた。
「ところで、相手の方のご家族の方は?」
「いえ、まだ……到着しておられないようです」
「おかしいですね」
2時間ほど経過しただろうか、バタバタとICU(集中治療室)のナース2人が、輸送車を押し手術室の中へ入っていった。
それから10分程しただろうか。スーっと静かに手術室のドアがスライドした。
思わず、ミサは立ち上がった。
恭子を乗せた輸送車がミサたちの前を通り過ぎた。
後ろから外科の医師2人が輸送車の後ろを続いた。通り過ぎながら、緑色の手術着に包まれた彼らは、興味深そうにミサの方へ視線を向けた。
きっとこれから、こうした興味の目にさらされるのだろう。2人は。
「事情を聴いてきますね」
師長はそう言って、手術室の中へ入っていった。




